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文化11年(1814年) 仁蔵百四歳 長寿褒賞  平田家文書№286
 関川村広報紙2023年5月号掲載
原文 ↓
釈文 ↓ (上の原文をそっくりそのまま活字にしたものです)
読み下し文 ↓ (釈文を読み易いように現代文に近い形にしたもの)
〈解説〉

1 この文書について

 岩船郡川内村は、現在の村上市河内のことでしょう。そこは、蛇喰村の裏山を越えればすぐのところ。現代のように市と村の境などなく、村と村の行き来は今以上に盛んだったはずです。
 小見村庄屋の平太郎は、お祝いに川内村の仁助家へ伺い、その際に、通知の文書を写させてもらったのでしょう。さすがに百四歳の長寿褒賞はめずらしく、朱書きの文もそのままに。字体も、役所からの文書をなるべくそのまま写したような感じです。

2 川内村について

 文書の冒頭に、川内村は、「松平越中守御預所」とあります。
 松平越中守とは、白河藩の藩主であった松平越中守定信のことです。この人が老中在任中に行った「寛政の改革」(1787~1793)は、歴史上有名です。
 この文書の文化11(1818)年には、川内村は白河藩の預所であったことが分かります。
 白河藩は、寛保元(1741)年に、藩主松平家が高田藩から白河藩へ移封になったのですが、その関係でしょうか、越後国内の領地をそのまま持ち続けた地域もあるようです(「関川村史」p255)。岩船郡内の幕府領は、当時、庄内藩預所になっていましたが、一部、白河藩領や預所に変更になった村もあり、川内村もその一つだったのでしょう。

3 褒賞下賜の流れ

 文書からは、長寿の褒賞として米十俵下賜の手順が分かって興味惹かれます。
 まず「伊豆守殿」が決定し、そのことを「勘定奉行肥田豊後守様」が、出雲崎代官所へ通知したと読めます。
 この当時の伊豆守は、三河吉田藩主松平伊豆守信明で、老中首座でした。勘定奉行はその部下ということになります。旗本の肥田豊後守頼常です。出雲崎の代官所は、勘定奉行の配下です。

4 「御本知」からの絹一疋

 米十俵に追加して、「尚又、御本知により絹一疋与え下さる」とあります。
 領地は知行所と言い、「本知」とは「本領」のことです。とすれば、文脈から、預り領主の松平越中守の本領、つまり白河藩からも褒賞を与え下さると読めます。
 預りの幕府領内に百四歳の長寿者が居るという報告は、預り領主の白河藩から幕府へ報告が上がったものでしょう。
 それに、越中守定信は、伊豆守信明と同時期に老中を勤め、なおかつ、伊豆守の前任の老中首座です。つまり、ありていに言えばツーカーの仲。幕府から褒賞を出すから白河藩からもということで、このような通知になったのではないかと推測しています。

5 褒美の価値


 ネットで調べると、米1俵=4斗と確定したのは明治以降のことで、江戸時代は3~5斗くらいの幅があったらしいのですが、一応中をとって4斗として、10俵で40斗=4石。1石は大人1人が1年間食べる量で、その量が採れる面積が1反に該当します。
 絹1疋は、2反分の着物がつくられる量とのことで、これもネットで、江戸時代、絹1疋を米に換算すると1石という記事がありました。
 結局、米にして5石分の褒美、つまりは大人5人が1年間食べられる分の米ということになるでしょうか。武士なら五人扶持の身分(ただし1年間だけですが)。百姓なら、作った米の半分を年貢で納めるとして、5石を自分の取り分にするには、10反の田んぼ持ちクラスということになります(これも、1年間だけですが)。


6 絹について
 ところで、これもネット調べですが、絹を輸出するぐらい日本の生産が上がったのは明治以降で、それ以前の絹は輸入が主で、大変貴重なものだったそうです。百姓は絹織物を身につけてはならないという決まりもありました。
 だから、実際には着ることはできず、だからと言って、米に換えるなどということもしないでしょうから、大事な宝物として代々伝え持ったのではないでしょうか。
 とにかく、名誉も含めて仁助家にとっては、真にありがたいご褒美だったことでしょう。

 現代も、百歳を超えたら御祝い金百万円なんて時代が、また戻ってくるといいですね。

〈参考〉 文化11年(1814)年当時 ~ネットから~
   松平越中守は、松平定信  白河藩主
   老中1787~1793 (寛政の改革)
   伊豆守は、松平信明  三河吉田藩主   老中1788~1803 1806~1817
   肥田豊後守は、肥田頼常  旗本      勘定奉行1810~1815


 
 
 


516 詫證文 天保12年(1841年) 
 乙村(現・胎内市乙きのと)の関係者から小見村平太郎宛の詫証文。平太郎は当時小見村大庄屋。分かりやすい文章で、何があったのかは読めばよくわかります。地元の若者たち、花火大会で酒でも飲んで浮かれていたのでしょうか。そこへ通りかかった平太郎の忰柳吉はとんだ災難に遭っています。今で言えば警察騒ぎになって、若者たちの親たちは大うろたえだったことでしょう。必死のお願いが伝わってきます。
 押印の6名中、3名は加害者、もう3名は村役人。村方三役といって、村行政のトップが「庄屋」、その補佐役が「組頭」、村の構成員である百姓(自作農=納税者)の代表が「百姓代」。江戸時代の文書にはよく出てきます。村長、助役(副村長)、議長(議会はないが)みたいな感じでしょうか。
 柳吉は、その後父の跡を継いで第14代平太郎を名乗り明治30年(1897年)まで存命しているので、この時のケガはその後にそれほど影響はなかったものと思われます。若かったせいもあるのでしょう。
原文 1/3 ↓ (横長の原文1通をここに掲載する都合上3分割してあります)
釈文 1/3 ↓ (上の原文をそっくりそのまま活字にしたものです)
読み下し文 1/3 ↓ (釈文を読み易いように現代文に近い形にしたもの)
原文 2/3 ↓
釈文 2/3 ↓
読み下し文 2/3 ↓
原文 3/3 ↓
組頭の下の印印は、用紙を糊で貼りつないだ箇所の裏印が写ったもののようです。裏印は他の箇所にも写っています。なお、1枚目の「幸作」の箇所の印は、訂正の紙を張付けた訂正印です。
釈文 3/3 ↓ 
読み下し文は釈文と変わらないので、省略しました。
  
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