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平田甲太郎家文書<下関村上関村街道宿場出入一件>
 文化7年(1810年)8月 済口證文(和解書)    (文書№670)
~長い文書なので、村広報紙には4回に分けて連載してもらっています~
連載①(広報紙12月号)は ⇒こちら  連載②(広報紙1月号)は ⇒こちら  
連載③(広報紙2月号)は ⇒こちら    連載④(広報紙3月号)は ⇒こちら  
全体の解説は ⇒こちら 広報紙3月号の解説は ⇒こちら  原文と釈文・読下し文・意訳は ⇒こちら
<この文書について>
 越後米沢街道十三峠道の越後側起点に当たる現関川村には、江戸時代、宿場が、上関村、下関村、大島村の三ヶ所ありました。街道の荷送りは、宿場の人々にとって大きな収入源です。わずか5㎞の範囲に宿場が三つもあるのは、それだけ物流が盛んだったからでしょう。また、上関村の次の宿場は玉川村(山形県)で、その間には険しい峠(鷹ノ巣峠・榎峠・大里峠)があったことも、ここに複数の宿場が必要だった理由と考えられます。とは言え、三つも宿場があればそれだけ競合も激しくなります。
 この文書は、上関村と下関村が街道の荷物の継送を巡って争った際の和解合意證文です。

 上関村は十三峠道の起点を押さえる要衝で、中世には上関城が関所の役目をし、近世になっても陸・川の番所が置かれて街道の大きな役割を果たしていました。そのため、元々の宿場として特権意識があったようです。下関村がそれに異を唱えての訴訟です。
 両村宿場の基本は、月半分づつの交代制で、これは、山形県側の宿場でも多く取り入れていて、負担軽減の意味があったとされています。この訴訟と和解によって下関と上関の半月交代制の規程が明文化されるわけですが、その内容は、複雑で入り組んでいます。
 村の広報紙には、訴訟の経緯や合意の内容をできるだけ分かりやすく紹介したいと考えました。
連載① 村広報紙2021年12月号掲載分
連載② 村広報紙2022年1月号掲載分
連載③ 村広報紙2022年2月号掲載分
連載④ 村広報紙2022年3月号掲載分
3月号の解説は ⇒こちら
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<解説> 
「下関村・上関村 宿場の出入(訴訟)一件」
    文化7年(1810年)8月 済口證文(和解書) 平田甲太郎家文書 №670

【1】 「済口證文」について
 江戸時代の民事訴訟で当事者同士の和解合意の証として取交される文書で、大概、次の経緯で作成・提出されます。
① 訴訟人(原告)が役所(奉行所や代官所)へ「訴状」を提出
② 役所が訴状受理し、相手方(被告)へ「返答書」提出を指示
③ 相手方(被告)は、指定日までに返答書を作成し提出
④ 役所の取り調べ、内済(和解)の奨励・勧告
⑤ 噯(扱い)人の仲介、和解合意、訴訟の取り下げ
⑥ 「済口證文の作成」、役所へ提出<展示の文書>

※ 今回の訴訟の「訴状」や「返答書」は残っていませんが、「済口證文」で、その内容が分かります。

【2】 「済口證文}の形式
① 訴状の内容(要点)
② 返答書の内容(要点)
③ 噯人の仲介による合意事項
④ 役所への提出文

【3】 下関・上関両村の主張
① 下関村の訴え
 宿場は半月交代で、上十五日は上関、下十五日は下関が当番。上関当番の時は、大島からの荷を下関で止めずに上関まで送る。同様に、下関当番の時、玉川からの荷は上関で止めずに下関へ送る。
 これが決まりになのに、上関はこれを破り下関当番の時でも、玉川からの荷を上関で押さえて、下関の人馬に上関まで荷を取りに来させている。これは取決め違反だ。このままでは下関の宿場は衰えるばかりだ。

② 上関村の返答
 元々上関が宿場で、昔から荷は上関で継ぎ送りしていて、人馬不足の時に下関から問屋・馬指が上関に荷を取りに来て、上関・下関がそれぞれで継ぎ送りしてきた。ただ、大島からの商用荷だけは、下関当番の間は、大島から下関へ継ぎ送り下関から玉川へ運ぶことになっている。
 それ以外は、当番に関係なく上関で継立し、玉川からの荷を下関まで送ることは前々から全くなかったのだ。

※ 問屋・・・宿場の荷物継ぎ送りの責任者
   馬指・・・問屋の部下、馬や荷を差配する実務を担う

【4】 訴訟の背景
  ― 渡辺家文書(重文「渡邉邸」所蔵)
       「下関村宿場定め破られ一件追訴状(文化6年4月)」から ー
 この文書は、「済口證文」より1年前の日付ですが、一連のもので両文書合わせると真相が見えてきます。
※ この「追訴状」の釈文は、「関川郷史料集三」(関川村発行)のp222にあります。ただし、渡邉邸保管の「追訴状」実物を見せてもらうと、この文書は下書きの案文であることが判明しました。また、この文書の内容は「済口證文」には全く反映されていません。その理由は、後述しますが、上記のことから、以下、この文書を「追訴状案」とします。
 この文書の詳細は ⇒こちら

① 「追訴状案」から見えてきた訴訟の経緯
 最初の訴訟は、文化5(1808)年11月、その後、上関村から返答書が出され、それに対する不満・反論としてこの追訴状案が作成された。作成者は、九郎兵衛・安平・又作。運送に携わる当事者(馬指)と思われます。

② 「追訴状案」に見る下関村運送業者の困窮
・ 宝暦3(1753)年、上杉藩の預り地になり上関村に出張陣屋(代官所)が置かれたら、宿 場の用は皆上関で足すようになり、下関当番の時も上関で継立するようになった。その後、高田藩預りに代わっても、そのままで来てしまった。筋違いだとは思っていたが、苦情を言って御用に差支えてはと、黙っていた。
・ 寛政4(1792)年、幕府領になり、代官所は水原に移って上関陣屋は取払われた。それでも上関だけが宿場の荷扱をしているので、何度も掛合ったのだが、領主交代や下関村役人交代、上関村庄屋の病死などで引き延ばしてきた。それらに取り紛れて、上関は元々の宿場だなどと偽り、益々我儘勝手を増長している。それで、仕方なく先般、訴えを出した。
・ 上関の村人はこちらの話を分かってくれているのだが、儀右衛門(庄屋の一人)だけ、昔、下関から宿場を分けた恩義も忘れて、上関が昔からの宿場だなどと言っているが、証拠もない謀計だ。
・ 今は半月交代と言っても名目だけになってしまい、下関は衰退の状態だ。このままでは、上関はどんな悪計を企てるか分からない。元々、慶長の時、下関から分けてやった宿場なので、この際、上関からは引き戻して下関一村だけの宿場にしていただきたい。
※ 「関川村史」は、上記最後の一行に着目して、「その後、下関村は一村引受で宿役営業を行うに至った」と書いています(p570)が、これは誤りです。この追訴状はあくまでも案文で、その後作成された正式合意書である済口證文の内容とは全く違います。誤りの理由は、村史執筆者が平田家文書の済口證文を見ていなかったことと、追訴状が案文であることを見逃していたことによります。

③ 下関村の作戦(推測)
    「追訴状案」と「済口證文」を合わせれば、次のように推測されます。
ア 追訴状案は、現状を打開したい急進派が、下関村の上層部に突き付けた強硬策。
イ 上層部はそれを握りつぶした。全面対決は得るところが少ないと見たから。それに、儀右衛門は三左衛門家の分家、それを一人悪者にするのは避けたかったかもしれない。
ウ 当時の民事訴訟は、役所から必ず内済(当事者の合意)を迫られる。落し所は、フィフティー・フィフティー。だから、下関村の狙いは、大半が上関村の収益になっている宿場荷扱の半分を下関村の収益にできれば良しとした。

【5】 合意事項
 「済口證文」は、文書の長さ7m近くもあり、そこに書き込まれた合意事項は13項目に及びます。それを読めば、上記下関村の作戦が浮き彫りになります。以下に、各項目別に、その要点と若干の解説を記します。

① 半月交代制の原則確認
・ 上十五日は上関当番、下十五日は下関当番
・ 武家荷は、上関当番の間は下関の馬で、下関当番の間は上関の馬で、継ぎ送る。
※ 当番の間は商用荷で稼ぎ、継送義務がある武家荷(公用)は非番の村が送る。半月交代制は山形県側の宿場でも行われていて、非番の時に農業や旅籠業ができるなど負担軽減の利点があったとされます。

② 玉川から継ぎ送られてくる公用・商用の荷について
原則は、下関の主張の通りなのだが、往復十里余もある峠を越す難所があるため、原則通りだと、人馬が大変苦労する。それで、次のように決めた。
 ア 玉川からの荷は、下関当番の時でも上関でおろさせ、下関の人馬で継ぎ立てる。
 イ 大島からの荷は、当番の村でおろさせ継ぎ立てる。
※ 上関の主張した現状で決着。つまり、下関の訴えは却下の形。それでも合意が成立したのだから、残りの合意項目に下関の取り分があると見なければならない。
 ウ 当番一村で賄う人馬は、大島へ運ぶのは九匹十九人まで
   玉川へ運ぶ人馬は四匹九人まで、
   それ以上必要になったら、その都度、雇い出しして、
   その賃銭は両村で半々割合にする。
③ 下関当番の時
   下関が出した人馬と玉川から来る人馬が、途中で荷を交換した分の
   紅花・青苧や商用荷は、上関に下ろさず、下関まで送ること
④ 両村が直勤で継立した時は、両村の問屋馬指が共に指図すること
⑤ その外、武家の宿泊に差支えが出ないように取り図ること
⑥ 御朱印等の大通行に限っては、当番だけでなく人馬を詰めて差支えないようにすること

⑦ 玉川から米沢藩年貢米が上関蔵所に送られてくる時、
  空牛や荷物は、日々半々に分けて、下関へやること
  半々に分け難い時は、その翌日の牛で差し引き、不公平の出ないようにすること
⑧ その外、米沢藩買い上げの鉄も、半々に分け、
  大島から上関へ送る分は、下関で止めないこと
⑨ 青苧・紅花は、牛で運ばれる分も含めて
  下関当番の時でも、上関で荷をおろさせ、下関の人馬で継ぎ立てること
⑩ その際の庭銭(荷扱い保管料)は、一駄二十文のところ
  十文は、下関当番の時は下関が受け取ること
  ただし、下関から玉川へ継ぎ立てる人馬が途中荷を交換するときは
  庭銭は全部下関の取り分

⑪ 下関へ引き下げた牛は、下関に泊まる間は勝手に牛宿を立ててよい
  帰りの牛荷を付け通しても、上関で差し繰りしないこと

⑫ 下関が当番の時、大島から玉川へ継ぎ立てる荷で、上関の人馬が運ぶ分は、
  玉川への往復が難義なので、人馬が難儀な思いをしないように
  上関の人馬を下関まで引き下げさせないで、大島が直接上関まで運ぶこと

⑬ 米沢藩から下関の渡辺三左衛門・渡辺利助へ下さる扶持米は、
  どこの牛馬で運ぼうとも、上関では差し繰りしないこと

~村広報紙2月号の解説~

上記の合意事項を、下関・上関にとってのプラス・マイナスで整理してみると次のようになります。

 原則
①上十五日は上関当番、下十五日は下関当番 武家荷(公用)は非番の村が担当
下関の+ 下関の- 上関の+ 上関の-
③玉川の下り荷と下関の上り荷を途中交換したら、上関に降ろさないで下関まで運んでよい   ②玉川からの下り荷は下関当番でも上関に降ろす  
⑦玉川から上関の蔵へ来る年貢米の空牛や荷は半々に分けて下関へ送る   ⑧上り荷の米沢藩の鉄は下関に留めないで半々に分けて上関へ送る  
⑩青苧・紅花を上関に降ろしても、下関当番の時、庭銭(保管料)の半分は下関の取り分
但し、③の途中交換なら全部下関の取り分
  ⑨青苧・紅花は下関当番でも②に同じ  
⑪下関へ引き下げた⑦の牛は下関が勝手に宿にしてよい   ⑫大島から来る玉川へ上る荷は、下関当番でも、下関に留めないで大島が上関まで送る ⑪米沢へ戻る牛に荷をつけても上関はそのまま通すこと
      ⑬下関の渡辺三左衛門・渡辺利助へ下される米沢藩扶持米は、上関では差し繰りしない
 どちらの+-でもない事項
④両村直勤の荷は両村で指図  ⑤武家の宿泊に支障させない  ⑥御朱印大通行は当番でなくても出る
 こうやって見ると、下関の得た分が多いことが分かります。⑪⑬は上関のマイナスにしましたが、直接何かを失うわけではありません。しかし、下関のプラスは即上関の直接的な損失です。
 村広報紙2月号では、⑩前半と⑦⑪について紹介しましたが、もっと興味惹かれるのは③と⑩後半です。これを下関がうまく運用すれば、庭銭はまるまる下関の取り分にすることができる内容です。どういうことかについては、村広報紙の3月号で説明します。
 結局、下関は名を捨てても実を十分取ったということになります。下関の上層部は、強硬派の業者を宥めすかしつつ、噯人を間に挟んで巧妙に交渉を運んだのでしょう。「関川村史」によれば、この後、上関の宿場は徐々に下関に取って代られたようです。やんぬるかなと言うべきでしょうか。


~村広報紙3月号の解説~

 広報紙3月号の本文で紹介したとおり、上関の言い分を通したようで実は下関の要求を入れたというのが済口證文の合意内容です。
 読めば読むほど、仲に立った仲裁人=噯(あつかい)人の面目躍如の感がしてきます。
 「噯」の字の元々の意味は、「げっぷ」とか「あくび」とかだそうで、真っ向から対立する双方の話をげっぷやあくびを陰でこっそり出しながら、じーっと聞き続ける姿が想像されます。
 いい加減双方が疲れて、もうどうでもよいような気分になった頃合いを見計って、読みようによっては自分の方が勝ったと双方に思わせる巧みな仕掛けを盛り込んで、どちらも顔が立つような案を出す。しかも、最も肝心な例外規定は、さも付け足しのようにしてそっと盛り込んでいる。さすがと言うべきでしょうか。
 最後に合意された、大島村、下関村、上関村、玉川村の駅伝の仕組みを図解しておきます。

 「小国の交通」(小国町発行)を読むと、十三峠を抱えた麓の宿場では、両関と似たような複雑な交代制を取っていた所がほかにもあったそうです。参勤交代も通らない脇街道なので小さな宿場村が多く、それぞれ事情を抱えながら、時に競い合い、時に折り合いをつけながら共存共栄を図っていたということでしょう。

  上関・下関の宿場係争については、結局、十三峠中最大難所といわれた大里峠の存在が、合意に至った複雑な取り決めの主原因だったようです。峠を越えて来た荷は、一刻も早く上関で下ろして、継ぎ送りたかったのでしょう。
 また、大島村には川港があって舟荷の陸揚げ場としての役割があり、それはそれで両関村との複雑な問題もあったようですが、残念なことに、平田家文書にはそれに関係する文書はなさそうです。
 いずれにしろ、この合意規定によって、下関の宿場は復活しました。そして、渡辺三左衛門家が繁昌成功するにつれて下関には大商人たちが集り、上関をしのぐ宿場として発展していったのでしょう。
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