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平田甲太郎家文書<米沢街道・貝附村地内街道工事に関する二文書>
① 天明2(1782)年 小見村佐源太普請請負に付き証人連印 (文書№690)
② 天明2(1782)年 貝附村地内川欠普請に付き奉答書 (文書№504)
<解説>
 貝附(現村上市荒川地区)は、米沢街道が海岸平野部から関川村の盆地に入る入口で、両岸に山が迫る狭戸(せばと)になっています。そこの道路が洪水で流され欠損したため復旧工事をすることになった際の文書が2通。この文書から、当時の公共事業工事請負の実際を垣間見ることができます。
①の文書について
 小見村の佐源太が貝附工事請負を願い出ました。代官所から保証人をつけるように言われたのでしょう。小見村の庄屋と上関村の二人が保証人になって佐源太と連名で工事請負の願書を提出しました。佐源太に工事を命じて下されば、この三人が保証人になりますと書いてあります。
 差出し先はただ「御役所」となっていますが、次の文書で明らかなように、上関にあった米沢藩の代官所です。佐源太の地元小見村の庄屋の外に上関村の庄屋ともう一名が保証人になっているのは、役所の所在地だからかもしれません。為之助がどういう人物かは今のところ不明です。推測ですが、佐源太と同じに土木の親方的存在だったのかもしれません。
 小見村庄屋の平太郎は、勿論、あの田麦堀割訴訟の平太郎です。
②の文書について

 佐源太に工事を請負わせることで何か不都合はあるかという役所からの問い合わせに対する、郡内各村からの回答書です。
 水害被害を受けた貝附村から復旧工事の要望が出され、佐源太が請負を願い出たことが書いてあります。役所は、郡内各村に、佐源太に請け負わせてもよいか照会していて、一方的な上意下達では無いことが分かります。
 実際の工事には、各地区村々からの人足提供が必要なので、それなりに気を使っているのでしょう。
 各地区惣代にとっても、徴集される人足の数が一番の問題です。だから、佐源太請負で不都合はないと答えた後で、人足について念押ししています。従前どおり村高100石につき40人、それ以外は工事のある村で出す仕来りですと。文脈からは、何ヶ村で工事があったとしても、100石につき年間延べ40人が限度ですということでしょう。
 御上に対して、はっきりともの申しているのは意外な感がします。

 宛先の「関御役所」は、上関に置かれた米沢藩の代官所です。
 宝暦3(1753)年~寛政元(1789)まで、関川村の大部分は米沢藩の預り地で、上関に藩の陣屋がおかれていました。その位置は、渡辺儀右衛門家の宅地内と考えられいます(村史260頁)。儀右衛門家は下関の渡辺三左衛門家の分家です。
 署名の6名は、岩船郡内幕府領の各組の代表庄屋です。1番の上野組釜杭村は、現村上市朝日地区に釜杭の地名があります。3番の小見組惣代は、久保村庄屋になっています。これは、大石川流域が小見組に編入されていた時代があったからです(村史271頁)。小見組の大庄屋は代々平太郎家が務めていますが、工事請負の佐源太が小見村で、平太郎はその保証人になっているので、工事の影響の有無は久保村庄屋・半右衛門が代表となって答えたのかもしれません。

③ 工事請負人の佐源太について
 佐源太は、かつて上関の儀右衛門家に手代として奉公していたと書かれた文書(文書№593)があって、そこから推測するに、佐源太が工事を請負うに当たり、代官所のある上関を中心にした人脈があったのではないかという気がしてきます。もしかしたら、資金面でも、儀右衛門家が佐源太のバックアップをしていたのかもしれません。
 貝附工事の前年天明元(1871)年に佐源太は、高田村と平内新村の地先の古川敷で新田開発の事業を始めています。両方の工事を同時進行させていますから、かなりの事業家だったと思われます。
 新田開発が成功して、そこが後に小見前新田村になります(村史496頁)。その関係文書も5通(文書№545、624、654、695、734)見つかっています。
 なお、この貝附工事より少し前、安永2(1775)年と安永4(1777)年、佐源太が小見村の庄屋を務めていたことを示す文書が2通あります(文書623、657)。前後の時期には、小見村庄屋平太郎名の文書もありますので一時的な就任だったのかもしれませんが、人望のある人物だったと思われます。
 いずれ、佐源太関連の上記文書も紹介したいと思っています。なかなか興味ある人物です。
① 天明2(1782)年 小見村佐源太普請請負に付き保証人連印 (文書№690)
釈文
読下し
意訳
② 天明2(1782)年 貝附村地内川欠普請に付き奉答書 (文書№504)
 釈文
 読下し
意訳
 
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