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平田甲太郎家文書<小見村庄屋後役願 文政3(1820)年 文書№595
この年、病死したのは平田家12代平太郎。田麦堀割訴訟で村上藩を四苦八苦させた傑物です。
小見村では、次の庄屋に、平太郎の忰・昌平を決めて代官所に願い出ました。この文書は、宛先も印鑑もないので、そのための下書きかもしれません。宛先は、冒頭に水原御支配所とある通りで、幕府領支配の水原代官所になります。
庄屋は、世襲で継いでいく村と、その都度、適任者を選ぶ村と二通りあったようです。小見村は平田家の祖先が開発した村で、代々世襲になっています。どちらにしても、村人総意で当人にお願いし、その承諾を得て、代官所から任命してもらう形式になっていたようで、今とあまり変わらない仕組みのように思えます。
面白いのは、当人が役中に年貢引負等を起こしたとしても御上には損害は与えないよう村中で弁済すると、わざわざ保証していることです。「引負(ひきおい)」は古文辞書を見ると、他人の損を被ることとか、年貢未進とかの意味があるようです。まさか、そんな心配のある人物を庄屋に推薦するわけがないので、これは万一の場合を保証する決まり文句なのかもしれません。
「尤も」も古文によく出てくる言葉ですが、現代の「もっとも」とは少し意味というか風合いが異なっていて、その時々で微妙なニュアンスがあり、「ただし」に近かったり「なお」に近かったりするようです。
記名者22人が当時の小見村の本百姓衆でしょう。寛政12(1800)年の「村定」(文書№522)の記名者24(庄屋平太郎を含む)と比較してみると、寛政文書にあって文政文書にない記名者が6名(伊兵衛、久内、利忠太、与兵衛、庄藏、平太郎)、逆に寛政になくて文政に出てくる記名者が4名(幸左衛門、善太郎、伴兵衛、昌平)。この4名は、平太郎→昌平のように、代替わりによる変化でしょう。とすると、20年間で2名(2軒)減っていることになります。今後、解読文書の中に本百姓数が分かるものが出てくれば、村の構成員数の変化なども分かるかもしれません。
また、名前がそのまま屋号になっている家も多いと思いますが、現代までつながる家がどのくらいあるのかも、興味あるところです。
 
釈文
読下し 
意訳
 
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