槍の穂先3180m '13.8.2
  山歩紀行 2014
 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました

飯豊・石転び沢雪渓 '13.6.16
 
    2014年5月29日 県北の古城・大川城址の探索  
大川城址 140m  新潟県村上市  

大川城址物見平から府屋の家並と日本海 

今回の探索コース  地元の保存会の方々の手入れが行き届いたコースです 

山城の麓・藤懸り館跡で地元の保存会の方からの説明

関川歴史館主催の史跡めぐり第2弾、前回鳥屋ノ峰城址探索と同じく講師小林弘氏とともに、新潟県北部にある大川城址を探索しました。

大川城は、古舘城とも藤掛り城とも称され、地元保存会作成のパンフによると、大永3(1523)年、大川三郎二郎宣長によって築城されたとあります。

当時の越後守護代長尾為景の下で、羽越国境の押さえとして山城を築き、この地を治めたとのことです。

それより200年も以前、建武元(1334)年、大河彦次郎将長が、小泉持長、立島彦三郎とともに、後醍醐天皇の新政に不服として挙兵したという記録があります。(渡辺三省著「本庄氏と色部氏」)

県発行「新潟県史」によると、平安後期以来越後国に成長を遂げた武士が、源頼朝によって本領安堵され地頭職に補任された明証は、見出すことができないとされています。
つまり、源平の争乱で越後国の多くの武士団は滅び、空白地帯になって支配者が入れ替った被征服地、それが鎌倉幕府成立の頃の越後国の実態だというのです。

このことからすると、推測ですが大川氏は、鎌倉時代の初期秩父氏が小泉荘地頭に補任された際、それに従って小泉荘北部に入部した武士団なのではないでしょうか。

県北地方の開発に努めた大川氏が、大永3年に至って山城を必要とする状況が生まれたということでしょう。

この当時、越後守護代は長尾為景、上杉謙信の父です。
為景は、守護上杉定実を傀儡化し実質的には越後国主となっていますが、それに反発する勢力との間で、争いの絶えない時代でした。

そのような状況下、為景は、国人領主の被官層を直臣化する動きを強めていました。
大川氏も、国人領主本庄氏の被官から越後国主長尾氏の直臣となって独立性を強めたものと思われます。
それが周囲との軋轢を生み、山城の必要性が強まったのでしょう。

絶え間ない争い、疑心暗鬼、そのような状況の中でも生命安全の絶対的確保。
山城を探索するときはいつも、そのようなギリギリの生々しいエネルギーがまだ城址の土の間に残っていて、ユラユラと幽かな波動として立ち昇り伝わってくるような気がします。


上杉謙信の時代、永禄4(1561)年の第4次川中島合戦では、大川駿河守忠秀が奮戦戦死しています。
謙信と信玄の一騎打ちで名高い合戦です。

その後の永禄12(1569)年、上杉謙信による本庄繁長討伐が行われ、大川城は本庄側について包囲されます。
渡辺三省著・前掲書によると、謙信に降伏した大川長秀は城を抜け出し、本庄側の弟二人が立て籠もる大川城(藤懸城)を攻撃しますが、うまくいきません。
そこで、謙信は、軍監の上関城主三潴出羽守政長に督促状を出すことになります。

このあたりの経緯については、「上関城四百年物語」に詳しく記してあります。
こちらから、ぜひ、ご一読いただければ幸いです。

大川城址の探索は2010年と今回とで2回目になりますが、私のライフワークでもある上関城四百年物語の三潴氏の活躍とも大いに関係のある城址で、興味の尽きない山城です。


藤懸り館跡の公園を颯爽と進む探索隊

一番平(物見平)の土塁に上がる探索隊
 低い土塁は胸壁か

静かに奥ゆかしく咲くヒメシャガ、さながら古城の姫

斜面を上ってくる敵を飛礫で攻撃したという
その飛礫用に運び上げたと思われる川原石が草叢の中に
積まれて残っていた

殺伐とした山城跡にはギンリョウソウが似合う

二番平(大川城本丸跡)で
 講師から電子計測器の説明を聞く

三番平(箕輪)、大川城最奥の平坦部
 大空堀で防御されている
      
 
    ところで、慶長2(1597)年の瀬波郡絵図には、大川城は、「ふる城」と「藤懸り館」と表示されているとのことです。
再度、渡辺三省著・前掲書によれば、城郭は最高軍事機密で絵図には表示しないものとされていて、表示されている場合は、それは最早軍事上秘密にする必要がない、つまり、使う必要のなくなった城ということのようです。
豊臣秀吉の天下統一の下、血生臭い山城など最早無用の時代を迎えていたということでしょう。
関川村内の山城もそうですが、大川城も上杉景勝の会津移封によって廃城とされていますが、実質、それ以前にすでに無用の長物となったものと思われます。
それにしては、その後現代までの400年余、無用のままでよくも形を留めたものと、そのことに感歎します。
それも、地中に潜むあのエネルギーのせいなのではないでしょうか。

史跡めぐりは、大川城探索の後、小林講師の案内で、縄文遺跡や板碑などを見学したのですが、それは割愛します。
ただ、畑の片隅で縄文土器の欠片を簡単に見つけ出す人がいて、なかなか見つけれない私など、唖然としてその人を眺めていたのですが、その人と私と、一体何が違うのか、今もって不思議でならないのです。
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