八ヶ岳 '14.6.29 |
山歩紀行 2015 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって 単独行もいいし、仲間とならなおいい そんな山歩きの楽しみを今年も綴ります |
白山 '14.7.21 |
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2015年9月12日 玉郷立城址と朴坂城址の探索 | |||||
玉郷立 と 朴坂 新潟県関川村 | |||||
玉郷立城址は、左端・杉王山の山頂近くにある |
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杉王山の拡大、左の鉄塔の辺りが杉王山 |
玉郷立城址 前日までの長雨がおさまり、久しぶりの秋晴れ。明日はまた雨の予報。急遽思い立って、一人、玉郷立城址の探索に出かけた。 玉郷立集落の外れから、標高197.1mの三角点のある山を目指す。 この山には、数年前まで上関集落の鎮守・杉王神社の奥の院が祀られていた。住民の高齢化に対応して神様も麓に遷座し、祠も撤去されて、今は四等三角点のある平坦地になっている。 幸いなことに、山道はきれいに草が刈り払われてあった。 ところで、この山、国土地理院の地図には、三角点だけで山名はない。 しかし、関川村発行「山岳渓流地図」には、杉王山と明記されている。ところが、地理院の地図では、この山の北方、標高196.0mの山に杉王山と表示されている。 山岳渓流地図では、そこは長峰山。 杉王神社の奥の院があった山だから杉王山。だから、山岳渓流地図が正しく、地理院地図は誤りだと思う。 その杉王山を目指して、縄張図(城址図面)通りの九十九折の山道を登りきると、傾斜の緩い尾根筋に出る。 すると、道の左(南)側が小高くなっていて、そこに上がると三角形をした平坦地になっていることが見て取れる。 その地点の標高は約192mで、杉王山山頂からは距離約100mほど手前。 ここが、この城の主郭部。本丸址と言うには、あまりにも規模が小さすぎる。 中心部には、いかにも曰くのありそうな石が据えられてあったが、特に文字等の刻みはなかったようで、何時のものかは分からない。 主郭部から南へ下がる尾根をヤブ漕ぎで進むと、微かに段切の跡や切落とした斜面が見て取れた。 更に進むと、大分埋まって浅くなっているが、空堀の跡がはっきりと残っていた。 そこから更に少し先へ下ると、これも空堀跡ではないかと思われる筋状の窪みが、藪の中にあった。 探索はそこまでにして戻り、杉王山山頂の奥の院跡地まで行って三角点を確認し、来た道を戻った。 玉郷立城の役割 「関川村史」には、長峰の山上197mに上関城の山城があったとして、山頂は平坦にならされていると書かれてある。 これからすると、玉郷立城は上関城の「詰めの城」(非常時に立て籠もる山城)かとも考えられる。しかし、それにしては規模が小さすぎ、位置も山上ではなく、その下に隠れるように造られているのが気にかかる。 長峰山から杉王山にかけての山上一帯が上関城の山城で、玉郷立城はその一部ということも考えられる。が、もしそうだとすると、一帯の山の長い尾根上には防御用の空堀は絶対に必要。しかし、これまでも何回もそこは探索したが、そのような遺構は見られない。 前々から、そのことが不思議で、関所という公的役割を担った上関城には、普通の開発領主たちと違って領地紛争を前提にした山城は必要なかったのではないか、というのが「上関城四百年物語」での私の推論。 →こちら では、玉郷立城はだれが、何のために造ったのか。 現地で、城址から麓を眺めた直感では、ここは大石川流域の人々が争乱の非常時に隠れ篭るための山城ではないかと思われた。 このような山城は「村の城」といわれており、戦乱の時代には、村々に一つずつはあったとされている。 城といえば、武士・城主というイメージがついて回るが、必ずしもそのような城だけではないということも頭に入れておく必要がある。 朴坂城址 玉郷立から戻って、その足で、朴坂城址へ向かった。 この城址は、6年前に一度探索したことがある。 関川歴史館主催の「山城探索会」で、当時のS館長さんが、自ら発見・実測したという地元にある城址に案内して下さった。 あの時の探索を懐かしく思い出しながら、今回は、単独での探索。 朴坂橋を渡って朴坂山登山道に入り、すぐにワキ沢(脇ノ沢川)を渡渉して山道を登る。 この道も、ありがたいことにきれいに刈り払われてあった。 多少へつられている箇所もあって注意が必要。 やがて杉林の中に斜面を切り崩して平坦地を造成したと見られる箇所に出る。 かなり広い規模の遺構で、6年前のS館長さんの話では、居館址だとのことだった。 そこを過ぎ、急尾根を登り切ると山道はやや平坦になる。 山道はそのまま送電線鉄塔に向うのだが、鉄塔の約60mほど手前、左(南)側が小高い山になっていて、そこが、標高156mの山の「く」ノ字型をした尾根の北端になる。 雑木の斜面を登ると、尾根が南の方に伸びている。 そこからは、もちろんのこと、ヤブ漕ぎになる。 藪の中を進むと、かなり深い空堀跡が出現。深さは5mは優にある。その深い堀切を越えて更にヤブを漕いで行くと、段切、曲輪があって、最上部が標高156mの主郭部(本丸址)になる。 そこから尾根は「く」ノ字に曲がって東方へ下り、3mはあろうかという高い段切が数段続く。 そのまま尾根を下れば、ワキ沢の渡渉点付近へ降りられるのだが、かなりの急傾斜の尾根だ。 6年前は、木の枝などを頼りにして急降下したものだったが、あの時の参加者はみな、そういうことが大好きな人たちに見えたものだった。 今回は、単独行の心細さもあって急降下は避け、三段目の大段切を確認して引き返した。 ヤブの中から山道に戻って鉄塔の下まで行き、しばし麓の景色を楽しんだ。 女川の河岸段丘の崖が見事な列を作っていたし、段丘上の水田の黄金色がこれまた実に見事な色合い。 この豊饒の地を守らずにおくものか、という気迫が山城全体に漲っているような、そんな気がしてきた。 光兎山の左後方奥に大朝日岳まで見えた。 現実は、平和で、穏やかで、爽やかな秋の日でした。 朴坂城の役割 これまでの山城探索で何度か登場した、荒河保地頭河村氏に関係する山城ではないかと考えられる。 南北朝争乱の時代、南朝方に立って周囲の北朝方武将に攻められ、女川流域を根拠地にして戦った河村氏。 おそらく、遠矢場城、桂城、蕨野城と一繋がりの防御線だったのだろう。 朴坂城の急斜面を見れば、攻めるに難く守るに易い地形を選んでいることが見て取れる。 山岳渓流地図を見ると、朴坂山山頂の近くにサンバクラ山があり、その山と山頂の間には「要害」の表記もある。 朴坂山の山頂自体も平坦に均されていて人工的なように見える。 おそらく、河村氏の命運をかけた大合戦が朴坂山一帯を大要害にして展開されたのではないだろうか。 それからおよそ680年近く経っても、山中にひっそりと遺構が残り続けていることに言い知れぬ感慨を覚えます。 もう一ヶ所の朴坂城址 6年前の探索会では、今回探索した朴坂城址から直線距離で5~600m離れた朴坂集落の神社の裏手あたり、沢沿いの薄暗い山中にあったもう一ヶ所の城址にも案内して頂いた。 そこにも、土塁や堀、土橋状の遺構があった。 当時の私の直感では、ここは戦闘用の城というよりは、農民である村人が戦乱時に隠れ籠もるための城ではないかと思われた。 玉郷立城址でも述べたように、このような「村の城」は、戦乱激しい時代、村ごとに作られたといわれている。 中世の山城については確証はほとんどなく、多くは推測するしかないのですが、それだけに、より妥当性の高い推測を積み重ねていく楽しみがあって、歴史マニアには堪らない魅力です。 |
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玉郷立城址へのルート |
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玉郷立城址の図面と探索コース(図面は、横山勝栄氏から) |
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左の斜面の上が三角形の平坦地になっている主郭部 |
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その主郭部のほぼ中央に曰くありそうな石が置かれている |
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図面の空堀の位置に浅い溝、空堀の跡 |
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杉王山山頂、かつて祠があったが今は草叢、右端に四等三角点 |
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朴坂橋の左岸側袂から見上げた朴坂城址 |
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朴坂城址へのルート |
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朴坂城址の図面と探索コース(図面は、佐藤貞治氏から) |
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朴坂城址への登り口、脇ノ沢川の渡渉地点 |
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送電線鉄塔の手前、山道左側のヤブ山の中へ入る |
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尾根を断ち切る大堀切、深さ約5mの空堀跡 |
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鉄塔からの眺望 女川の河岸段丘が並ぶ豊饒の地 |
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右に光兎山、その左方ずっと奥に大朝日岳 |
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