北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
5 三潴氏が活躍した戦国時代の上関城 

(1) 
上関城の想像図

 今も残る上関城址は、戦国時代末の築城技術を示しているとされています。

 このことは、上関城が今残るような形に整えられたのは、三潴出羽守政長(でわのかみ・まさなが)やその父掃部介利宣(かもんのすけ・としのぶ)の時代であったことを示しています。
 この二人の時代は、各地の戦場に赴いていますし、政長は将軍への使者として京に派遣されています。各地の堅固な城を見る機会がたくさんあったはずです。そのようにして、最新の技術を学んできて、上関城を一層堅固な城に造りなおしていったことでしょう。

 今は、「城跡図」に示した堀跡や土塁跡しか残っていませんが、当時は、土塁の上には柵が立ち並び、見張りやぐらが築かれていたに違いありませんし、堀と土塁に囲まれた郭(くるわ)の中には、建物が建てられていたはずです。
 城山の麓には、役所や舟泊まりがあり、城主や家臣たちの屋敷が並んでいたことでしょう。


 そのような上関城の様子を「想像図」で示してみました。 
 

上関城想像図

 一般に城は戦で攻められたときに立て籠もって防戦するためのものです。しかし、上関城は、その目的とは少し違っていたのではないかと思われます。
 立て籠もりのためなら、もっと高い山の上が有利ですが、上関城は低過ぎます。低地の城の場合は、広い範囲に水堀を掘ったり土塁を築いたりして大規模な防衛線を幾重にも敷きますが、上関城の周囲は狭すぎます。
 上関城は、大勢の敵が攻め寄せてきたときの城としては、いかにも小規模過ぎるように見えます。

 多分、上関城で守っていたものは、貴重な品々が詰まった倉庫群ではないかと考えられます。

 それらの品々が何であったかは、後で述べますが、それらの重量、数量、出入りなどを考えると、高い山での保管は困難です。また、いざというときに離れた山城に逃げ込むということをすれば、それは即、それらの貴重な品々を放棄することになりますから、上関城に峰続きの長峰山に山城を築く必要もなかったのだと思います。

 それでは、その貴重な品々とはいったい何だったのでしょうか。
 それは、上関城と城主・三潴氏の役割から考えなければなりません。


(2) 上関城と城主・三潴氏の役割

 上関城は、もともと「桂関(かつらのせき)」という関所であって、その役割は越後と出羽の国境を固めることです。三潴氏は、その関の守将です。では、関所とは何をするところでしょうか。

 平時は、陸と川の交通路を守り、安全のための取締りを行います。そのための費用として、関銭といって関を通行する人や物に通行税を課して徴収します。特に、川は様々な品物を運ぶための重要な交通路でした。上関城から荒川を20km弱下ると海に出ますが、そこの河口の港で海船から河舟に積み替えられた荷物は、流れの比較的緩やかな下流・中流を、川べりで舟を引く人や牛馬の力で上関城まで上ってきます。ここで舟から下ろされた荷は、牛馬や人の背で山路を上っていきます。逆に、荒川上流の山地や内陸部の産物も川や山路を通って上関城へ送られて来て、さらに、下流の港などへ舟で下っていきました。このように、上関城は交通の要衝で、たくさんの人や物が行き来していましたから、関所で徴収する通行税を保管しておく倉庫は重要でした。

 それだけではなかったと思います。当時の大きな川やその流域の土地は、国衙(こくが)領といって国有地でしたから、その川や土地からの産物は、国の財産でした。川の産物としては鮭などの水産物がありますが、もっと重要なものとしては、荒川の上流の山地から産出される金・銀・銅・鉄などの鉱物資源がありました。
 三潴氏は、国有地を管理する責任者であり、上関城はそのための役所でもありました。そこには、通行税として徴収した金銭をはじめ貴重な鉱物資源など、重要な財産を保管し管理するための施設が必要でした。もちろん、守備のための武器や弾薬、食料などの貯蔵庫も必要です。それは、盗賊などに襲われるのを防ぐために厳重に守られた施設でなければなりません。それが上関城だったと考えられるのです。

 上関城に保管した財産は国のものですから、年何回かはまとめて、国の役所に送り届けます。国の役所は、上杉謙信の居城春日山城の麓にありました。そこに無事送り届けることも三潴氏の大きな役割でした。

 これらの役割を果たすために、三潴氏の下には多くの兵士が養われていました。その兵士たちが食べるための食料を生産する田畑も必要です。三潴氏は、上関城より上流の平地で農地を開発して、食料の増産にも努めたに違いありません。
 なぜ、上流かというと、上関城より下流の土地は、他の領主の土地だったからです。


(3) 上関城の周囲の領主たち

 上関城より下手には広い平地があり、水田が広がっていました。しかし、そこは、三潴氏の管理する国有地ではなく、元々は奥山荘(おくやまのしょう)といって貴族の私有地で、鎌倉時代の初め頃から地頭職の武士が管理する土地になっていました。
 下の図で示したように、上関城の下手の土地は(しも)氏や落合(おちあい)氏という武士の領地でした。落合氏は、氏の分家で、沢々が合流する落合の地を中心に荒川の氾濫源まで耕地開発を進めていたのでしょう。荒川の右岸域は垂水(たるみ)氏が押えていたものと思われます。



 氏は、標高80~90mの高さの山に下関城を築き、普段は、その麓に根小屋という屋敷群を作って暮らし、いざという時の土地争いに備えていました。氏より下手には内須川氏や土沢氏という領主がいて境界を接していましたから、常に土地争いの危険がありました。内須川氏も土沢氏も高い山の上に城を築いて非常時に備えていました。
 
下関城跡の探索(空堀と土塁)
 
土沢山城の探索(尾根の堀切)

 この時代の武士たちの土地争いは凄まじいものがありました。上杉謙信が、川中島の合戦が行われていた最中の弘治2年(西暦1556年)に、突然隠退を表明して僧になろうとしたのは、家臣たちの止まぬ争いに嫌気が差したからといわれているくらいです。謙信より以前の越後国がまだ一つにまとまっていない時代の争いは、もっと凄まじいものでした。だから、領主たちは常に争いに備えて山城を整えておかなければならなかったのです。それは、武士たちだけではありませんでした。土地争いは農地争いですから、そこには、農民の村人がいます。一番被害を受けるのはこの人たちです。その村人たちが争いの間逃げ込んで隠れているのも山城でした。上関城の周囲の領主たちの山城にはそのような役割があったのですが、先ほど話したように三潴氏の上関城は、それとは違った役割をもって作られていたと思われます。

 その三潴氏の領地は、図に示したように上関城の上流域にありました。そこは、今でも水田はそれほど広くない土地ですが、当時、荒川は暴れ川で平地に耕地は少なかったことでしょう。三潴氏の領地経営はもっぱら関所と山地資源にかかっていましたから、下手に住む領主たちのような農地争いに巻き込まれる心配はほとんどなかったでしょう。

 なにせ、氏をはじめ地頭系の領主たちは、もともと田畑からの税、主としてそこから上がる米の徴収が主任務でしたから、一坪の土地でも争いの種になりましたが、三潴氏は、それとは全く違って、国の役人という立場でした。もし、その役所や倉庫を襲う者があれば、それは即罪人です。仮に三潴氏の手に負えないほどの襲撃者が現れたとしても、国主である上杉氏から直ちに周囲の武士たちに討伐の命令が下ります。
 それは、互いに言い分があって争う領主たちの土地争いとは全く次元の異なった戦になります。
 ですから、三潴氏や上関城にとっては、逃げ籠もる山城は必要なかったということではないかと考えられるのです。
 もちろん、どのような不心得者が現れるか分からないのが世間です。上関城は最新の築城技術を取り入れて、小規模ながらも守備堅固な城になっていましたし、国の役所としての威厳も示していたものと考えます。


(4) 戦国の三潴氏

 国主である謙信の命令が下れば、役人の三潴氏も、氏のような領主たちも、戦場に出陣しなければなりません。その際には、自分の家臣である兵を引き連れていきますが、その費用はすべて自分持ちです。ですから、常日頃から戦のときのための戦費を蓄えておく必要がありました。
 戦で手柄を立てると、謙信から新しく領地を給与されることもありました。
 三潴氏は、掃部介利宣出羽守政長のときに謙信のもとで大活躍していましたから、新しく給された土地も少なくなかったと思います。

 出羽守政長が、謙信の後を継いだ景勝の怒りに触れて領地を減らされたとき、それまでの三潴氏の領地であった酒町村や中目村を取り上げられて、色部氏に与えられていますから、それ以前、政長は、荒川の下流、坂町やその周辺にも領地を持っていたことが分かります。国衙領(こくがりょう)といってもともと国有地だった荒河保(あらかわのほ)の中心部まで三潴氏の領地になっていたのです。また、政長の子左近大夫長能(さこんのたいふ・ながよし)は、謙信の時代には庄厳城の城将に命じられていますから、そこも領地としていたことと思われます。
 このように三潴氏は、もともとの領地であった上関城とその上流域のほか、各地に領地を持っていて、それらの土地からの収入で謙信からの度重なる出陣命令に応えていたのでしょう。


 そして、三潴氏そのものは、普段は謙信の居城春日山城下の役所に勤めていました。家族もそこに住んでいました。この当時、家族を謙信の下に置くということは、絶対裏切らないということを示す人質という意味も持っていました。
 三潴氏の家臣の多くは上関城に勤めていて、これまで話してきたような任務を果たしていましたし、それ以外のときは、田畑の仕事にも従事していました。そして、いざ謙信からの出陣命令が下ったときには、上関城から城主の三潴氏に従って戦場に赴いていたのです。そのときには、兵士だけでなく、領地内の農民である村人たちにも荷物運搬などの雑役で動員がかかっていました。
 城主も家臣の兵士も、村人も、なかなか大変な時代だったと思います。



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