綿野舞(watanobu)山歩紀行2018
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3月21日  要害に マンサク盛る 古戦場
坂戸山 633.7m 新潟県南魚沼市  地理院地図は→こちら
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登ってみれば、坂戸山城、見た目以上に峻険な要害だった。あの謙信に楯突いた長尾政景の居城、謙信死後の御館の乱では景虎派北条氏の猛攻を退け、景勝の治下となっても信長勢の侵攻を受け、頑として耐え抜いた城。さすがというべき構えで登山人を迎えていた。兵どもの夢を残し、今、細い尾根の切れ落ちた崖には満開のニシキマンサク。眼下に広がる南魚沼の盆地。そこは上田長尾氏の豊穣の地、上越国境清水峠三国峠へ通じる要衝の地。城跡に立てば中世人のさざめきが風に流れてくるような。
 渡辺伸栄watanobu
雪の残る薬師尾根の道を行く、後ろは六日町市街。ここ半年くらいだろうか、Unqさんの口から坂戸山の名が一度ならず出るようになったのは。文学と美術には学識深いUnqさんだが歴史、特に中世史にはそれほどの興味なしとみている。なのに何故坂戸山かと訝しく思っていたら、今回理由が分かった。市民登山の山としてつとに名高いこの山に関心を寄せていたのはYoumyさんだったと。だから、いずれ公民館登山の山にどうかと目論んでいたようで、今回はその下見を兼ねたことになる。一挙両得一石二鳥、中世史マニアの私には三鳥くらいの価値はあった。
まず咲くマンサク、残雪にはこの花の黄色が似合う、この時季ならではの風情。
花の中心(花弁の基部やガク)が赤いのを特別にニシキマンサクといい、新潟県のマンサクはこの種が多いらしい。細部の僅かな違いをとりたてて差別化を図るのは、どうも植物学の通弊のように思えてならないが、ただのマンサクと違う、このニシキマンサクの名づけだけは納得というより、賛同している。
魚野川上流部を望むと、左に先月登った飯士山。その右中央部の高山は、苗場山だろう。飯士山の向こう側が三国峠へ続く道、こちら側が清水峠へ続く道。いずれも越後と関東を結ぶ、謙信越山の重要路。こうやって城址に立って見れば、要衝を押える坂戸城の重みがわかろうというもの。
中央左の最高部が山頂、坂戸山城の実城(本丸)で、富士権現の立派な社が建っている。そこへ向かう人、下りてくる人、ひっきりなしに登山人が行き来する。みな手ぶらで長靴スタイル。ザックにアイゼンにと完ぺきなスタイルの我ら、少々場違いな感じがするほど。ピッケルを置いてきてよかった~。
敢えて切り落としたのだろう、馬の背のような細い尾根が続く。見晴がよいということは、隠れて登ることもならずということ。さすが山城要害というべき構造。
山頂に立てば、目の前に八海山。高速道から見上げる威容の八海山が、ここからは小さく、おとなしく見えるのは何故だろうか。八海山の後には越後駒ヶ岳に続く白い稜線が見え、右隣りには中ノ岳が薄く見えていた。いつかは登ってみたい越後三山。行きたい山は果てしなく増えていく。
山頂の実城から続く尾根には大城、小城が築かれ規模の大きな山城であったことが分かる。その先の金城山の左に続くのが巻機山の峰。曇天で眺望は期待できないだろうと思って来たが、ここまで見えれば良しとすべきだろう。
北から北東方面、魚野川下流域を望む。右端の白い峰が守門岳。中央の目立つ山は鳥屋ヶ峰。左端に横たわる峰は鋸山のある長岡東山丘陵のようだ。今、このページを書いていて思ったのだが、正面ずっと手前に低い山が魚野川に向かって突き出している。地図を見ると六万騎山とある。魚野川左岸を通っていた高速道がこの山の左で魚野川を渡り、麓を通る。どうも、これまでこの六万騎山を坂戸山と勘違いしていたのではないだろうかと、心配になってきた。それほどに、実際の坂戸山は、これまで高速道から見ていた印象と登った印象が異なるのだ。次に高速道を通るとき、気を付けて確かめたいと思う。
山頂には凍えるほどの寒風が吹き付けてきた。天候が変わる前にと早々に下山。それでも次々と登って来る人とすれ違う。どうやら、皆、山頂に達すればすぐにUターンするようだ。つまり、ピストンを楽しむ人たち。標高差約460m、毎日の散歩代わりだとすればかなりの脚力だ。
薬師尾根は、祈りの道。道の両側各所に石仏が据えられている。戦乱の古戦場ともなれば、勝敗どちらの側にも慰霊は欠かせまい。一々の仏像礼拝は略して、登山口の薬師堂と山頂の富士権現に手を合わせてきた。半跏思惟像は中宮寺の国宝を見て以来、仏像の中ではお気に入りのスタイル。
 
<コースとタイム>
 薬師尾根登山口9:38―11:05山頂(曇天、寒風、眺望あり)11:25―12:21登山口下山
 
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