綿野舞(watanobu)山歩紀行2018
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4月19日 古の若人想い藪を漕ぐ(朴坂~松沢 山越え古道)
最高点・西山(タカツボ) 402m 新潟県関川村・村上市  地理院地図は→こちら
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私の子どもの頃、バスや汽車はあっても自家用車などは皆無だった。だから、皆歩いた。子どもでも1里(4㎞)の道など平気で歩いて遊びに行ったものだ。血気盛んな若人となれば、なおのことだったに違いない。山の反対側の集落で盆踊りでもあるとなれば、そりゃあ山越え道も何のその駆け足で通っただろうさなどと、山中、Unqさんと笑いながら藪を漕いだ。朴坂から松沢は、現在、車道をぐるっと回れば15㎞、それが山を越えれば7㎞弱、若者の足で2時間かからないくらいのものだったろう。
山村の吾が村にはそんな山道が随所にあった。時には嫁取り婿取りの道であり、時には生活物資入手の道。現代では通る人もない山中の道、廃れ切って痕跡を探すのすら容易でない古道。そんな山道を辿ってみようというのが関川歴史館の古道探索会。かつて参加してその面白さを体感した小生、Unq館長さんから5年ぶりに復活するので手伝いをと要請され、待ってましたとばかり喜び勇んでスタッフの一員となった。と言っても、館長と私の二名だけだが。
で、何がそんなに面白いかというと、まずは、車社会以前の逞しい人々の生活を偲ぶこと。だが実は、それだけではない。地図で地形を調べる楽しみがある。山中の道は地形を踏まえてよく考えてつけてある。そして、藪漕ぎ。登山道に頼らない登山家を「ヤブ屋」というのだそうだが、古道探索は「ヤブ屋」の気分を堪能させてくれる。地図、コンパス、GPSを頼りに山中のルートを自力で開いていく。これが藪漕ぎの醍醐味、ヤブ屋の本領というもの。言ってみれば古道探索は一石三鳥の楽しみがあるというものだ。この楽しみを知らずしてなんの山登りかなどと、つい言ってみたくなる。
 渡辺伸栄watanobu
標高314.0mの四等三角点。古道のルートからは少し外れているのだが、せっかくだからと寄り道して三角点を確認。反対側の村上市側は植林の杉林で、眼下に林道が切り開かれて延びているのが見えた。探索会本番では、エスケープルートに使えるか。
標高402mの西山山頂。この山、旧神林村側の人々はタカツボと呼び、関川村側の人たちは西山と呼ぶという。ややこしい話だが、山名にはこんなことはざらにある。あの高名な甲斐駒ヶ岳だって、伊那の人たちは東駒ヶ岳と呼んでいた。
さて、藪漕ぎのいでたち紹介。長袖長ズボン手袋、熊除け鈴は当然として、必需品は鉈。Unqさんは抜き身を常に携えて歩いた。ただし、これで雑木を切り払い道をつけているわけではない。そんなことをしたら日が暮れても追いつかない。主には通行を妨げるサルトリイバラを切り払う。本番のためにUnqさんは赤テープで目印をつけて進む。私の右腰につけたのは、今回新調した熊撃退スプレー。いざという時、ホルスターからさっと出し安全ピンを抜いて引き金を引く。噴射距離5m、熊を引き付けて顔を目掛け数秒ずつに小分けして連続噴射。と、説明書にあったが、果たしてそんな具合にいくかどうか、不要に越したことはない道具。可笑しいのは、熊猪犬に効くのは当然として、山中悪人撃退に実効ありと説明書にあったこと。米国製だからだろうか。首から下げているのは地図、これと胸ポケットに入れたスマホのGPSを使って自位置と方向を確かめ、実際の地形と地図を見比べながらルートを決めていく。仮に通信電波が途絶えても、GPSが有効な地図アプリがあって重宝している。磁北線を引いた地図上にコンパスを置いて方向を確かめる、などという面倒な作法はほとんど必要なくなった。
Unqさんが見つけた雪割草。藪の地面に大輪のきれいな花だった。花はこれ一株だが、特徴ある葉は周りに点々とみつかったから、だれもいじらなければ増えていくのかもしれない。もともとここの山塊には雪割草が群れていたらしい。それに内緒だが、この山塊の或る所には希少種の山野草が群れ咲いていることも知っている。盗らないでほしいものだ。
山中はどこも今、タムシバやコブシのさかり。真っ白で香りよく高貴な花。コブシの一枚葉が両者の見極めなのだそうだが、遠目にはよく分からない。
藪を漕いでいると突然この写真のような、細くえぐられた箇所に2,3度出遭った。道の痕跡ではないだろうか。人の多く登る山の登山道には、よくこんなふうにえぐれてしまっている道がある。だから、これが道だったとすれば、かつては相当の数の人々が、相当の年月にわたって行き来したということになるだろう。盆踊り恐るべしか。いやいや、年一度の盆踊りでこうはなるまい。ひっきりなしに人が山を越えて行き来していた時代、里の幸、海の幸、山の幸の交換を担ったのは行商の人たち。朽木村の鯖街道が思い出される。地図を眺めていて気が付いた、この道、塩谷の浜から女川流域への最短距離。鯖街道あるいは塩の道。旧女川村の生命線。もしかしたら荒河保地頭河村氏の時代からの主街道では?想像が膨らむ、歴史のロマン。藪漕ぎの古道探索、単なる山菜取りとは違ってなかなか奥深いものですぞ。
写真の向こう側の斜面を藪下りして降りたところが写真右下の鞍部。どうも自然地形ではないように見えた。人の手でV字形に尾根を断ち切った堀切では? とすればここは山城跡。写真手前のV字斜面を登れば、尾根は一段と急登になって西山の頂へ続く。朴坂山一帯は、名族河村氏滅亡の因となった南北朝激戦の地。当然、山塊全てを要害として合戦が展開されたに違いない。
V字堀の底、写真左端から右端鞍部へは登山道があり、直角に折れて写真手前へ西山に直登する道がついている。これは古道ではなく、平林要害山から西山を通り朴坂山へ続く現代の登山道で、朴坂山から谷を越えて嶽薬師(薬師山)へと、馬蹄形の縦走路がある。西山で休憩を終えた頃、その縦走路を来たという夫婦連れが上がってきた。我らはまたV字形の堀底へ戻り下り、登山道を辿って西へ進んだのだが、この時ばかりは道のありがたさが身に染みた。それほど整備されているようには見えない登山道なのだが、それでも、何時間も藪を漕いできた身には、まるで整備された高速道。行商の人も盆踊りの人も、道さえあれば山中こんなふうにサクサクとイソイソと急行できたのに違いない。
<コースとタイム> S(朴坂)発9:50-10:19林道から斜面に登り付き-11:17四等三角点-12:55西山(タカツボ)13:41-14:12要害山登山道分岐-15:23山道に遭遇-16:00沢筋に下りて大密藪と格闘-16:15廃道(藪道)に合流-16:30 G(松沢)着 

本来の古道は、無駄を省くためにピークには上がらず裾を巻いて通るし、沢筋の緩斜面をへつるようにしてなるべく高低差をなくし、距離を縮めている。しかし、道跡のないそれらのコースを辿るのは無理があるので、我らは、分かりやすい尾根筋を辿った。
下りも尾根筋を探して標高175m付近まで下がったが、そこで地形が平らになって尾根筋がなくなった。それで、車を置いたG地点に続く廃道が地図に記されているので、そこを目指して左方向へ進んだのだが、歩き易さに誘われてつい斜面を下ってしまい、沢筋に出た。かつての沢田だろうか湿地になっていて藪が濃い。一度人の手が入った土地は荒れ方が激しい。湿地を迂回するためにさらに左へ進んだ。左へ行き過ぎたので沢を飛び越えて右方向へ戻ったが、とにかくすさまじい藪。まだ若い杉林の中へ逃げ込んだがそこも下刈りなどされていなくて、酷い藪。廃道に合流するまで密藪の連続。そして、その廃道も雪で倒れた柴木の連続。結局、175m付近で左へ下ってしまったのが失敗だった。安易に沢筋には下りるものではないというのが今回の大教訓。
本番は、来月20日。それまでにもう一度、松沢からの逆コースを辿って標高180m付近で出遭った山道の辺りまでのルートを再度探っておくことに決めた。里に近いほど山は荒れている。だから、到着点から逆コースを探って出口を見つけておくことも重要、これも今回の大教訓。何事も失敗は成功の母。やってみなければ分からないことは多い。
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