山の記 2020
綿野舞の記TOPへ
5月24日 良寛の道 今 ヒメシャガ盛り 
~山の記 目次へ~
 せきかわ歴史館主催・越後米沢街道十三峠を歩く会。 コロナがやや収束し、ようやく1月遅れの開催となった。それでもまだコロナ警戒は緩まず、村のバス使用は村民限定。村外の歴史館古道愛好者の皆さんには相済まない形になったが、純粋村民だけの山歩き。
 第1回目の今回は、越後側第一峠の鷹ノ巣峠と第二峠の榎峠を越える。
 米沢と越後を結ぶ重要街道、古今どれほどの人々が歩いたか。奥地紀行のイザベラ・バードは名高いが、良寛もその一人。文政4(1820)年秋、良寛64歳、遠く米沢を目指して黙々と歩いた姿が偲ばれる。何を思い何を願っての旅だったのか。単なる漂泊の旅ではなかったという説がある。米沢到着の翌春没した上杉鷹山公の善政に惹かれての旅だったと。良寛の人生も胸中も複雑だったらしい。良寛の書が人々を惹き付けるのは、彼の人の奥深い思いが秘められているからとか。
 そんな良寛へ思いを馳せることもなく、人々はコロナから解放されて初夏の山歩きを久々に楽しんだ。
 渡辺伸栄watanobu
下川口の鷹ノ巣峠登り口からスタート。主催者せきかわ歴史館の館長Unqさんは開館日で留守番、学芸員のTamuちゃんが館長代理。十三峠を歩くに当たって、まずは良寛の詩2篇のレクチャー。吟詠すればよかったのだがコロナマスクで大声禁止。静かな語りのTamuちゃんデビュー戦。良寛の2篇とは「米沢道中」と「宿玉川駅」
こりゃあ、何だろう?葉っぱ葉っぱのこの模様。まるで人面、仮面。はじめは汚れかと思ったがよく見ればどの葉っぱにも同じ模様。後日、Tamuちゃんからメールがあり「あの葉っぱはミズヒキソウだ」とあった。ミズヒキソウなら我が山林にも群生しているがこんな模様は見たことない。で、ネットで調べて分かった。この模様、ミズヒキソウのこの時期だけの模様なのだと。山林では花の時期の夏草刈り時分にしか見ていないから、こんな模様を見ることがなかったということ。新発見はいつも新鮮だ。
ここが第一峠の鷹ノ巣峠。いかにも開削したらしい切通の峠道。登り切って、まずはデビュー戦を飾ったTamuちゃんの笑顔。この峠は実はフタコブラクダで、ここから一旦谷地へ下り再度登って二つ目のピークを越える。そこは今は林道になっていて古道の面影は消えている。
第二峠の榎峠登り口で大休止。峠の茶屋にはダンゴがつきものだが、あれは実に理にかなっていたのだと月刊ランナーズだったかに載っていた。走る前にでんぷん質をとることの大事さを説く文章だった。ダンゴにオニギリにセンベイにアメにチョコにと、エネルギー補給に大忙し。やがて一息ついて、皆さん笑うことしゃべること。コロナで自粛自粛、久しぶりの解放感。
4月14日の下見で盛りだったルリソウ。ほとんどは実に変わっていたが、ほんの数輪まだ咲き残っていた。これがルリソウだと、参加者に紹介できて喜んではみたものの、盛りの時のあの瑠璃色であれば感動を呼んだのかもしれないが、ここまで衰えると「ああ、これが」という程度。
途中数か所、道の荒れている箇所があって用心のためロープを担いできたのだが、全くの不要。皆さん足腰達者、ひょいひょいと荒れた道でも飛び越える。これぞ昔取った杵柄。
林間にヒメシャガの群生地があって、一行の目を楽しませてくれた。楚々として慎ましやかないい花だ。 
ここが第二峠の榎峠。人だけでなく荷馬車による物流路だったからだろう、随分の深さに掘り切ってある。この峠は戊辰戦争の激戦地。新潟に上陸して攻め来る敵軍を迎え撃つため、米沢藩は十三峠を越えて関川村の渡辺邸に本陣を置いた。だから多数の兵士、膨大な量の兵器、軍需物資がこの峠を越えた。やがて敵軍の優勢を知って米沢軍は後退し、ここ榎峠に前線を敷いて敵軍と交戦した。彼我に死傷者多数。峠を下った先に戦死者の供養塔が立っている。わずか160年前のこと、とは言え世代で言えば5世代前、人の記憶はせいぜい3世代。
道の足下にエビネがひょっこり
 ギンランも道端の草の陰で、気づいた人がいたかどうか
麓に下ったあぜ道の枯草の中の目立たない花、Youmyさんから、これはジコクノカマノフタというのだと教わった。ものすごい名、初めて聞いたので調べてみた。本名はキランソウ、金襴草と書くらしい。似ても似つかぬ別名をもつ花。 
 YouTubeの動画は ⇒こちら 
<コースとタイム> 下川口の鷹ノ巣峠入口S1発13:30~13:50鷹ノ巣峠第1ピーク~14:06第2ピーク~14:30国道113号線G1~14:50榎峠入口S2(休憩)15:05~15:32榎峠15:42~16:14沼集落入口G2着
ページのTOPへ