山の記 2020
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6月20日(土) 良寛も バードも越えた 大里峠 
 大里峠 475m 鉄塔(展望台)506m 新潟県関川村・山形県小国町  地理院地図は→こちら
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 越後米沢街道十三峠、その中で唯一、羽越国境(羽前国=山形県と越後国=新潟県の境)を画すのが大里峠。古来多くの旅人が越えたこの峠の道を、今月28日(日)、歴史館主催の古道探索会で歩く。今のところ総勢30名を超える人気。今日はそのための下見です。
 探索コースは上の地図の通り。登り4㎞、下り3㎞。途中、歴史・自然さまざまな見所たくさん。ここを当日を想定してゆっくり歩いてタイムを計ってみた。登り中間の林道終点まで、鉱山跡廃墟の探索を含めて1時間。10分休憩した後、そこからは山道歩きで、峠まで1時間30分。峠でゆっくり休憩後、祠(ほこら)背後の斜面を登って送電線鉄塔下の広場で関川村を眺望後下山。下りは玉川集落の玉泉寺到着まで1時間30分。行動時間は計4時間。
 当日の計画は、休憩を含めて6時間の予定をとっているので、ゆったりと歴史と自然を楽しめるはず。あとは天気を祈るのみです。参加の皆さん、どうか心がけを良く、お願いします。
 以下、事前紹介のつもりで、下見の時の画像と説明を載せてみました。
 渡辺伸栄watanobu
スタート地点からすぐの水場。お腹の強い人はどうぞ。そうでない人は家から持ってきましょう。ここから先は、下山するまで飲み水になる水はありません。距離と時間を考えて必要分、担ぎましょう。
瓜の木の花が見事に咲いていました。木は珍しいものではないようですが、ちょうど開花したときに出会えることはなかなかないので、ラッキーでした。皆さんにもラッキーがあるといいですね。とにかく、面白い形の花です。
ここが、かつての畑集落の跡。祠が3棟、まだ新しいということは信仰が今も続いているということでしょうか。畑集落は、昭和42年の羽越水害後2軒残っていた家が転居して無人となったということです。
<付け足し>江戸時代の前、慶長2年1597年の越後国絵図にすでに「はた村」が載っていて、古くから人が住んでいたことが分かります。
畑鉱山の跡。明治7年に銅鉱が発見され、戦時中の最盛期には220人もの人が働いていたそうです。道路の脇の薮の中にコンクリート製の廃墟が残っていました。異様な感じがします。
<付け足し>鉱石は鉄柵で片貝へ運び、そこから川舟で運んだことが、小国町の資料に書いてありました。
道端の藪斜面を登ってみると、廃墟マニアにはたまらない光景に出会いました。頑丈なコンクリートの柱と梁、選鉱所の跡か何かでしょうか。希望の方がいれば案内したいと思います。ですが、何しろ昭和20年に閉山になったそうですから、74年間放置の廃墟、いつ崩れるか分かりませんので、十分気を付けてお願いします。
あ、そうそう、廃墟の土の上に一升瓶が半分埋もれてありました。当時の作業員の人たちが飲んだ瓶でしょうか。これも貴重な遺産です。割らないようにお願いします。
ここが林道の終点。ここから山道に入ります。一休みしてから、本格的な山歩きです。登りもありますし、徒渉もありますし、片側崖の道もあります。それほど危険ではありませんが、うっかりすると大ケガの元、足下に十分注意して歩きましょう。
<付け足し>ここから若ぶな山の尾根へ登る道が古い地図にはあって、荒谷沢の川を渡って茅峠を越え、金丸へ降りて荒川を渡り、八ツ口~越戸~田代峠~沖庭神社~小渡(小国町)のコースが、大里峠ができる前の古道だったそうです。沼には応永4年1397年の大きな板碑が建っています。胎内方面からの名倉古道も沼に通じていて、ずっと昔から、沼は交通の要所だったことが分かります。
金丸古道(茅峠道)と米沢新道(大里峠道)の分岐は、本来はここではなく、沼集落外れの板碑へ向かう橋の袂の辺りだったそうです。そこに追分の石碑が建っていて、今は移動されたものの、現物は残っているらしいです。もともとの金丸古道は、今のスキー場の方向に進んで若ぶな山の、向かって左の尾根を越えて荒谷沢へ降りるルートの様です。
玉川ホトトギス。きれいな花です。当日も咲き残っているかどうかは運次第ですね。残念ながら、峠の向こうの小国町の玉川とは関係のない玉川だそうです。
徒渉箇所が何か所かあります。水の音が爽やかでした。足下にご用心。滑りそうな場所、濡れている場所、ぬかるむ場所などが各所にありますので。
柄目木 ガラメキ と読みます。いかにも峠の茶屋が建っていたような平地になっていて、後ろの山からは飲み水が出ていたそうです。今も水の音がしましたが、飲まれるかどうかは分かりません。ガラメキのメキは、水の音に関係する地名だと言われています。ガラメキのほか、〇〇メキという地名が各地にあります。
往時の石畳も結構残っているようです。これもそうかなと思われるそれらしい石が数か所で見られました。探してみてください。ただし、滑るので要注意です。
大里峠の道は、嘉永元年1848年に大改修があって、巾1間の道を3間に広げ、石畳もその時に敷いたもののようです。
ちなみに、十三峠最高地点の宇津峠には弘化2年1845年の道普請供養塔が建っていて、そこには三潴兵内の名が刻んであります。この人は、上関城主三潴氏の子孫です。米沢の上杉藩士になっても、越後の関郷につながる道の管理整備を担当していたと思うと、歴史の連なりを感じます。年数が近いので、大里峠の大改修にもかかわったのではないでしょうか。
ここが名高い大里峠。この峠の直前で眺望の効く所が一ヶ所だけありますが、振り返らなければ気づかずに通り過ぎます。峠は、眺望はまったくありません。祠の中には、大里大明神と地蔵尊、観音像などが祭ってあります。前回の榎峠にあった観音様と兄弟だそうです。どういうことか、分かりませんが。
祠の前に座って目をつむり、化身の女性が現れるのを待ちましょう。大蛇伝説の舞台です。ただし、阿部八郎さんの研究によると、大蛇の話と蛇喰い女の話を結びつけたのは江戸時代・安政2年1855年の中村鶴五郎で、それ以前はそれぞれ別々の話だったということです。
それから、面白い話がもう一つ。ここで旅人が大蛇の化身に会ったのは、一体いつの時代のことかというと、ほとんどの話は「昔々の事」としている中で、米沢地方に伝わる話には、はっきりと天文4年1535年のことと年代を明らかにしているそうです。1521年の大里峠の開削の14年後の事になります。米沢に人々にとっては、大里峠の開通が、それだけ画期的な出来事だったということが分かって、面白いですね。
祠の後ろの急斜面を登るとここに出ます。大展望台です。関川村と貝附の狭戸が良く見えて、そこを眺めていると、湖を造ろうとした大蛇の気分になってくるそうです。ただし、鉄塔をこれ以上登っては絶対になりません。ここで昼食にするか、祠前の広場で昼食にするかは当日の天候次第ですね。祠裏の斜面は急なのでロープを張る予定です。
展望台からの望遠レンズです。正面中央が上関のお城山(上関城址)で、そこから出ている橋が温泉橋。ド~ムとアリーナが見えています。歴史館の屋根も見えます。長くて赤い橋が小見橋です。
できれば、下関、上関の方から、大里峠の位置を前もって確認しておいてもらうといいですね。当日も出来ればバスの中から確認したいと思います。わかぶなスキー場の向かって右に若ぶな山があって、その山の右側の一番低くなった奥の方に鉄塔が3基見える辺りで、一番右の鉄塔が展望台の鉄塔です。その右下が大里峠。峠は決して高い山の上には作らない。当然ですね。
これが大蛇が枕にした岩だと思います。蛇枕岩。峠を七巻半したとも伝わる大蛇、さすがの枕です。展望台から、行いの良い人だけに見えるそうです。探してみてください。 
下りは鬱蒼としたブナの森の中を歩きます。さすがは白い森の国。感じの良い森の道です。ただし、熊に注意、大きな声でしゃべりながらあるきましょう。あ、登りも同じです。
熊追いには、太い棒で木を叩いて出す音が一番効くそうで、下見では、ずっとそうしていました。お陰で出会わなかったので、効き目は確かの様です。ただし、腕はパンパンになります。
<付け足し> このブナの森の中には、かつて銅山の坑道がたくさんあったそうで、大里峠に最も近い坑道から出た鉱石は畑鉱山まで担いで運んだそうです。それより下の坑道からでた鉱石は、玉川集落まで担いでおろし、馬車やソリで金丸まで運び、そこから川舟で大島まで運んだことが小国町の資料に、昭和31年のこととしてありました。また、金丸への運送には玉川の県道が開通するまで桜峠が使われたとあります。山道も川も大いに使われていた時代です。(資料は全て、田村さんからの提供)
山道が終わって林道に出ると、この実がたくさんありました。熊苺だそうです。すっぱくておいしい実でした。当日はカゴを持っていきましょう。ただし、まだ残っているかどうかは保証できません。 
麓に近づいたところに、「凶霊供養塔」が建っていました。田村さんの調べによると、江戸時代・安政2年1855年の建立。天明元年1781年と嘉永7年1854年の2回の雪崩遭難の慰霊碑だそうです。1回目は、旅人の荷送りを頼まれた人たちで、関川村の人たちも大勢いたそうです。助けられて蘇生した人の中には、上関の人・助次郎の名が記録されています。2回目は荒島に里帰りした嫁を迎えに行った帰りに一家が雪崩に遭い嫁と7歳の子供が遭難死。なんとも痛ましい事故。真冬の峠道の悲劇を今に語る石碑です。 
玉川集落の玉泉寺。峠から下った集落の入口にあたり、ここには番所もあったそうです。越後から米沢に向けて旅の途中の良寛様が、ここ玉泉寺に宿をとり、「宿玉川駅」(玉川駅に宿す)と題した漢詩を読んでいます。駅とは当時、大きな宿場町のことです。江戸時代・文政4年1822年のことで、ここ玉川は、メーンストリートに面して宿屋や商店が立ち並ぶ賑やかな宿場町だったのですね。大内宿をイメージしてみてください。良寛様の旅については、当日、田村さんから説明があります。 
ここは、次回のスタート地点になります。なんでも、三大橋の一つだそうで、一見の価値大いにありです。まだ、大里峠が終わらないうちですが、次回もお楽しみにしてください。 
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