山の記 2020
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9月2日(水) 十三峠 良寛偲ぶ 出羽の路
萱野峠278m 朴ノ木峠398m 山形県小国町 地理院地図は→こちら
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文政4(1822)年、越後の名僧・良寛は十三峠の道を越えて米沢へ旅した。関川村土沢の古刹に一泊したのではないかと推測されるのだが、残念なことに確証がない。それはともあれ、200年後の我ら、5回に分けて良寛の歩いた十三の峠道を越える。9月13日はその3回目、山形県の萱野峠と朴ノ木峠の古道歩き。今日はそのための下見。ルートの状況と所要時間を図るのが大きな目的。草に覆われた道あり、峠道とは思えない急登の坂道あり、アスファルトの林道あり、それでもところどころこの写真のように、旧街道の面影を色濃く残した敷石の道などがある。麓民と有志が集まって、埋もれていた敷石を掘り出し、敷きなおしたとのこと。旧道保存の取り組みに頭が下がる。以下は、本番日に向け見所紹介。
 渡辺伸栄watanobu
<コース>
Ⓐ 玉川~菅野峠 (標高差110m) 距離1.5㎞
Ⓑ 菅野峠~足野水 (標高差112m) 距離2.0㎞
Ⓒ 県道歩き 距離1.0㎞
Ⓓ 足野水~朴ノ木峠 (標高差232m) 距離1.6㎞
Ⓔ 朴ノ木峠~小国 (標高差258m) 距離2.7㎞

  距離計 8.8㎞
<今回下見のタイム>
Ⓐ 玉川~菅野峠 1時間15分
   (+峠で昼食休憩 1時間)
Ⓑ 菅野峠~足野水 1時間10分
Ⓒ 県道歩き  10分
Ⓓ 足野水~朴ノ木峠 1時間5分
   (+峠まで途中2ヶ所と峠の休憩 計30分)
Ⓔ 朴ノ木峠~小国 1時間
 計 4時間40分 (+休憩1時間30分)
萱野峠の入口、山形県小国町玉川。前回大里峠から下った所、ここから十三峠の道を繋ぐ。標高が168mで目指す峠は278mだから標高差110m、峠まで1.5㎞、峠から足野水まで距離2.2㎞。登り1時間下り1時間くらいの目安。
歩き始めるとすぐに玉川に架かる吊橋・玉川大橋を渡る。手ノ子大橋と小国大橋と合わせて街道中の三大大橋だという。かつては藤蔓を編んで橋を吊っていた蔓橋。橋から見下ろす玉川の流れは、美しい流れを玉川といったというくらいだから、見事な景観。春秋の景観はまた格別らしい。良寛が通ったのは秋らしいので、その絶景を眺めて蔓橋を渡っただろうと小国町発行の「小国の交通」という本に書いてあった。橋の下の岩壁には旧橋の橋脚の跡が見られたし、川沿いの岩壁には岩を削って作った細い水路があって水が流れていた。旧街道時代からの遺跡。
少し進むと姥杉の標示。株立ちした老杉らしい。この先にも同じ表示があったし、ずっと先、朴ノ木峠を越えた健康の森横根の近くには化物杉というのもあった。「小国の交通」によると、峠の中腹には裸松という赤松の大木があって幹を削って灯すと、夜泣きの子が不思議に泣き止んだとあったが、それらしい大木も標示も見つけられなかった。
姥杉の手前に「屋敷跡」との標示があったが、その説明はどこにもなかったし、「交通」にも書いてなかった。峠が近付くと「萱野原」の標示があった。ここには明治初期、茶屋があったという。明治18年の県道開通で街道交通が廃れ、廃業して山を下り、玉川集落の玉泉寺門前で開業したと、これも「交通」にあった。前回、大里峠を下った我ら、飛び込んでアイスやコーラを買ったあの「清野商店」がそれ、出自は越後新発田の在だと。これも何かの御縁というものだろうか。
萱野峠に到着。台風フェーン現象のとにかく暑い日だったが、それでも陽射しは木立に遮られ、風向きと谷川の流れの向きの関係だろうか涼風が吹いている箇所に時々出合って一息つきつき登ってきた。この峠にもいい風が吹き抜けていて、ちょうど正午、腰を下ろしてたっぷり昼食休憩。
萱野の名は、萱草の苅場だったのだろう。萱は貴重な資源、屋根葺きの材料は勿論、冬囲いの材料、その他諸々貴重な場所だったのだろう。
玉川から山道を歩き始めてしばらくすると、石切り場という標示があった。道に敷石が出てくると、Tamuちゃんが「あの石切り場で切り出した石を敷いたんでしょうかねぇ」と言う。「そうかもねぇ」などと漠然と答えたのだが、峠を下った足野水の出口に看板があって、その通りだと書いてあった。すべて地産地消、地のものを使う。
この道を毎日、桃崎浜から小国までショイコという人たちが5,6人のグループになって乾物や塩魚を運んだのだと、これも「交通」の本にあった。夜中に桃崎浜をたち、片貝か沼で昼食、大里峠を一気に越え萱野峠を越えた「助(たすけ)」で1泊。「助」とは宿屋兼茶屋で、困った旅人を援助する役目を藩庁から任じられていたのだと。ショイコの人たちは、翌早朝小国へ到着、帰荷に、煙草・青麻・小豆・ゼンマイ・ワラビ・ワラビ粉・栗など季節季節の小国の産物を背負い、上関で1泊して3日目に帰宅したと。
関川村内の古道も、頻繁に行きかったのは行商の人たちだったはず。私たちが子供の頃はそれが普通の光景だったから。
それにしても「小国の交通」という本、良く書き込まれていて素晴らしい本だ。以下もすべてこの本からの引き写し。本番当日の説明のタネ本。
クマを相手に四方八方に目を配っていると、足元はつい疎かになる。後ろからTamuちゃんが次々と花やら木やら、見つけては小さな歓声を上げる。その目敏さときたら。大概の花の名は言えるのだが、ランには自信がない。エビネだろうか?後日、花図鑑を突き付けられるのだから、下手なことは決して言えない。
これが萱野峠を下りた足野水に立っていた看板。簡にして要、よく書かれた文章だ。大里峠は大永元(1521)年に伊達稙宗が開削したと、関川村史はじめ様々なところに書かれているが、その出典・典拠がどこにも書いてないのが不思議だった。「交通」の本にしても、「大永元年、伊達稙宗」は各所に出て来、あたかも既定の事として出典・典拠には触れてない。ところが、一ヶ所だけ、江戸時代1801年に書かれた「米沢里人談」という書物に「大里峠は、大同元年七月に開之」と書かれてあると、書いてあった。案外これが稙宗開削の典拠なのかもしれない。大同元年なら稙宗だと。地域史郷土史にはこんなことが多い。勿論、300年後の江戸時代に書かれたから信じられないということにはならない。伝承というのは思いの外正確なものだから。そうであっても、出典だけはその都度、備考にでも書いておいてほしいものだ。
足野水の集落中の県道を10分ほど歩くと、次の峠、朴ノ木峠への入口に着いた。どこも標示がしっかりしていて、古道保存の意気込みが伝わってきて嬉しいし、ありがたい。萱野峠の出口もそうだったが、民家の庭先のような感じの道を通らせてもらう。それにしてもTamuちゃん、自然木のストックが似合ってるじゃないですか。
萱野峠の出口近くに聳えるこの山、竜ヶ岳とのこと。竜が天から下ってこの山の山頂の池で遊び、麓の雌馬に恋をした。で、その馬をさらってこの山へ連れて行ったと。何年かして、麓の老人がこの山へ登ったら、五色に輝く三本足の馬に出遭った。あの竜と馬の子供に違いないということで、この老人の住む村が足三つ村と呼ばれ、足水、足野水になったのだと。これもあの「交通」の本から。とにかく、事細かに言い伝えなども拾ってあり、大変面白い書物で、峠道の案内には大いに活用させてもらっている。
足野水の佐藤家は、旧藩時代街道筋の取り締まりを命じられ、宿屋も開業、平家の落ち武者との伝説もあるとのこと。萱野峠から足野水に出て民家の庭先のような道を通ったが、「交通」の本の地図をよくよく見たら、どうもそこが佐藤家の位置のようだ。
山道に入ってしばらくは送電線の管理道路と重なって、古道の感が消える。その後、管理道路と離れたり交差したりしながら高度を上げる。結構な登山の感がする登り坂。
高度を上げると、きれいなブナ林が出てくる。スラリと伸びた美人林に似た林。ここの登り道がもっとも暑くきつかったのだが、ブナ林の爽やかな風情には救われた。
このブナ林の先へ進むと、旧街道の面影はなくなり、そのままアスファルトの林道へ登り上がることになる。そこが峠頂上なのだが、直下50mほどが最も急登。どうみても、峠道ではなく登山道。ここは一部、旧街道とは別に作られた山道のように見えた。朴ノ木峠には、旧道の山道とほぼ並行して舗装の林道が通っているし、送電線も通っているので、その関係で新たに山道が作られたのかもしれない。
アスファルトの道路に登り上がると、そこが朴ノ木峠。旧街道の風情はないが、南方に飯豊連峰が横たわる眺望はこの日一番。それと、登ってきた斜面から涼風が吹き上がってきて、熱々の身体を冷やしてくれる。その気持ちの良いこと。
朴ノ木峠の登りに入ってからのやぶ蚊の襲撃もこの日一番で、Tamuちゃんは帰宅してから数えたらしい。なんと12ヶ所も刺されていたとか。数えも数えたり。
そんな熱気も痒さも、峠のこの景色と風がすべて吹っ飛ばしてくれたらしい。とにかく、山道を登りきって大満足なのだ。
峠に祀られている聖観音、藪の奥に御堂が見える。左側の斜面に階段の参道もある。これも「交通」の本からの引き写しだが、昭和53年の道路改修の際、道端にあった大木の洞穴から壊れた三個の石が出てきて、それを組み合わせると観音像だったのだと。それでセメントで継ぎ合わせ台座を付けてここに安置したという。なぜ洞穴なのか、なぜ壊れたのか、昭和53年の発見は現代の奇跡。
峠にあった標示。面白い名の山があるものだ。地理院の地図には出てないが、「交通」の本と照合すると、山頂はここから北、直線で1.2㎞ほど標高510mの所らしい。時間があれば登ってみたいところだが、本番日にはムリ。
朴ノ木峠はアスファルト道だが、そこからすぐに山道へ分け入って下る。やがて、この化物杉が出てくると、健康の森横根はすぐそこ。素敵なコテージが整備されたキャンプ場。ここは「又兵エ田」という地名で、十三峠時代には2,3戸家があり谷間の開田を耕作し、旅人の休憩地ともなったという。その中を通ってアスファルトの車道を下り、途中からまた山道へ分け入る。分岐の近くに、「右やまみち、左ゑちご道」「寛政九年」と彫られた追分石があると、「交通」の本にあったのだが、つい失念して見落とした。
麓に近づくと山道は墓地中の道になり、心細いほどの小径になるのだが、小国町小坂のこの寺の境内へ自然と出てきた。ここが朴ノ木峠道の終点。本番日は、ここからさらに200m程先、横川河畔の旧ゆーゆ駐車場で待機のバスまで歩いてもらうことになる。この日我らは、Unqさんにこの寺近くまで迎えに来てもらって、差入れのノンアルに、コーラに、アイスにと、大歓待を受け、疲れも暑さも吹っ飛びーでした。
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