山の記 2021
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9月14日(火) 風はしり芒ゆらいで塞ノ神
越後米沢街道 市野々宿から 桜峠と才ノ神峠を越えて 沼沢宿まで 8.5㎞
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白子沢宿と沼沢宿の境の地に立つ塞(さえ)ノ神。春にここに来たときは深い草薮を漕ぎ分けて入った。私たちのために刈ってくれたんですかねーなんて、同行のTamuちゃんは言う。私たちというのは、今度歴史館の峠歩きでここへ来る予定の一行のこと。白子沢宿であったお母さんも、沼沢宿であったお母さんも、市野々から歩いてきたと言うと、別に驚いたふうでもなく、ああ、峠を越えてかと、極平然とした反応。ということは、我らのように峠歩きを楽しむ人が結構いるということ。草薮を刈ったのは、そういう人たちのためかもしれない。私たちもその部類に入る。ということであれば、Tamuちゃんの一言もあながち自己中とも言えまい。学識のTamuちゃん曰く、塞ノ神信仰はいつしか地蔵信仰と結びつき混合しごっちゃになったのだと。♬村のはずれの お地蔵さんは いつも にこにこ 見てござる♬ 童謡「見てござる」の一節。どうりで、地蔵はいつも村のはずれにおわします。
 渡辺伸栄watanobu
旧市野々宿跡、飛泉寺の大銀杏。前回6/8に来た時は、干上がったばかりの河床は一面泥の色をしていて寒々しい風景だった。あれから3ヶ月で河床に草が茂り穏やかな風景に戻った。あの川のそばの道に沿って家々が立ち並び、竈の煙が立っていた。良寛が歩き、バートが通った市野々宿。人家こそなけれど、風景にそう違和感はない。草木の緑がこれほど人の心を落ち着かせるものかと、ここで改めて草木塔の意味が分かってきたような。
市野々宿の入口、観音坂、別名、鐙(あぶみ)坂。「ここから市野々を見下ろす景観は、まことに美しい。南北朝時代、南朝の忠臣、楠木正成の四男正儀の嫡子正勝こと傑堂能勝和尚が、亀岡文殊参けいの帰途、この観音坂に休らいだとき、騎馬の「鐙が夕日に輝いた」というので鐙坂ともいうという伝説がある。」と、「小国の交通」に書いてある。市野々の地名は、もともとは「一布村」で、平家の落ち武者を一布と呼んだからだとも、山野自生の麻から麻布を作ったからだとも。傑堂和尚はこの地に飛泉寺を建て、ここで没したとも。さて、Tamuちゃんの話では、傑堂能勝和尚は村上市の耕雲寺の創建者でもあるとのこと。偉人たちの行動範囲の広いことにはただもう驚いてしまう。
観音坂の謂れは、ここの馬頭観音像らしい。それが建つ脇に、僅かの間、旧道らしいのが残っていた。
倒木が一本。これは多分、峠歩き参加者を喜ばすためかも。
車道に出るとすぐ傍らに「草木塔」。鐙坂の石碑群のように年代物かと思いきや、なんと、平成19年建立。その脇にさらに平成24年の建立5周年記念の碑。草木塔信仰が現代まで続いていることに驚いて、妙に感慨。石碑の裏に刻まれた文字は「山川草木悉皆成仏」。これが草木塔の根本精神で、上杉鷹山公由来の信仰とか、これもTamuちゃんの学識。精神はしっかり受け取った。
桜峠の名の由来である桜村は、消滅していた。桜村の名の由来は、その昔、すぐ近くの仏峠に桜の大樹があって、坂上田村麻呂がそこで桜の歌を詠んだからとか。つまり、仏峠の桜が桜村の地名になり、桜村の峠だから桜峠になったと、いいのかなこれで。桜村は宿場ではないが、茶屋や宿屋があったという。今は萩の花が咲き誇るだけ。せめて、通りすがりの訪ね人、花に声をかけてあげましょう。
ヤマトリカブト 根は猛毒、花も葉も毒がある、触らぬように
キツリフネ 赤紫のツリフネソウも群生していた
白子沢宿の白子神社 戸数30を超す賑やかな宿場だったという 今は昔
 それでも、家々の軒先に屋号を示す木札が下がり、昔をしのばせる
白子沢 清安寺 ここも萩の花盛り
下見の今日は、市野々宿から沼沢宿まで8.5㎞を通して歩いた。Tamuちゃんもなかなか見かけに寄らず脚が強い。本番の歴史館峠歩きは、老若男女入り混じるので、歩きは、少しレベルを落として白子沢宿までの6㎞。18日の本番は、台風14号崩れの低気圧で暴風雨のはずだったのが、小雨模様の予報に変わった。さて、どうなるか? 代替え日は25日。さて、さて?
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