山の記 2021
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10月18日(月) 良寛の足跡探す宇津峠
越後米沢街道十三峠 宇津峠
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宇津峠歩きの下見。本番は23日。この峠、荒川水系と最上川水系の分水嶺になっていて、その尾根筋は、朝日連峰と飯豊連峰を繋いでいる。この尾根筋をずっと辿ると西の果ては鼠ヶ関で日本海へ出る。東はと言うと、飯豊連峰から吾妻連峰・蔵王連峰へ繋がる。ずっと以前、暇なときに、そこから川を一本も渡らずに太平洋に出るルートを地図上で探したことがある。確か、仙台の北、塩釜や松島の辺りで海に出た様に覚えている。陽だまりで昼食を食べながら同行のTamuちゃんにそんな話をした。地図は最も苦手だという彼女、さて、どこまで理解したものか定かではない。今も、峠の馬頭観音碑の横の案内板を見ながら、ワタシ、いまどこにいて、どこへいこうとしてるのでしょ?などとおっしゃる。才媛にも弱点がある、そこがまたなんともいい。
 渡辺伸栄watanobu
スタート地点。左が旧国道113号線、平成4年まで使われていた。右が、明治26年から昭和46年まで使われていたという旧道。トンネルなしで、宇津峠までつづらに登る車道。この旧車道を峠まで辿って歩く。
昭和46年まで車が走っていた道だから、カーブミラーも設置されていた。打ち捨てられたミラーの前には姥ユリの実
廃道となって50年。道は手入れをしなければどんどん傷んで、自然に戻っていく。もはや、ここを車が走ったとも思えない。
旧車道の最高点。道の傍に「宇津峠」の標識が立っている。車道としてはここが峠。趣のある奇妙な小屋が建っている。中は意外な代物。旧街道の峠はここよりももう少し上へ登る。
ここが旧街道の宇津峠。しかし、明治の車道がここのすぐ下を通り、旧街道と交差錯綜したことと、山道が何本もあったりして、大里峠などのように明確に峠越えという感じはしない。ここにある石碑も各所から集めてきたように見える。
峠の石碑の一つがこの「道普請供養塔」。弘化二年とある。1845年。小松から大里峠までの10年がかりの工事が完成した記念碑。普請奉行の一人に三潴兵内の文字がまだ読み取れる。我らが上関城主三潴氏の末裔。大里峠までの普請は、各宿場の運送業者や青苧商人などが費用負担した。それらの人名がずらっと並んでいる。皆、姓が記されている。どうやら道普請の功で苗字帯刀を赦されたようだ。大里峠から越後側の道普請は、幕府領で、下関の渡辺三左衛門が負担したという。峠道を使って経済活動している人々が負担する。当然といえば当然か。
峠の先にも「イザベラの道」と標示があったので、辿ってみた。峠よりも登りになるので変だなとは思いながら、眺望の効く稜線にでも出るのかと思ったが、そうでもないらしい。馬洗場などと標示があったが、これは旧街道とは別な話らしい。道が細くなって消えかかってきたので、もと居た峠へ戻った。
Tamuちゃんが奇妙な実を見つけた。どこかで見たような気がするが思い出せない。後日、Unqさんに話して思い出した。どこの山だったか、Unqさんと二人の山歩きで見て、ツチアケビというのだと教えてもらったことを。
正面の上方にあるのが「巨木裸杉」。看板には随分いろいろなことが書いてある。何でも見どころを作ってあげるのは、訪れる人へのサービスというもの。山形県の人はサービス精神旺盛。
ここの標示もサービス精神そのもの。
これがバードの眺めた景色。湯けむりたつ米沢盆地。バードは思わずアルカディアと言ったのだとか。随行の伊藤青年は、バードさんも少しは歩けでやといったかどうか。 
越後から米沢へ向かって旅した良寛が、ここで「米沢道中」と題した漢詩を読んだと比定した場所だという。比定などという言葉を使ってのサービス精神発揮。なかなか心憎い。
ゴール地点の落合地蔵尊の御堂に到着。御当地のお勧めは、ここから峠まで登って折り返してここまで戻るコース。だからか、明治の旧車道は殆ど未整備だった。 
宇津峠に因む有名人が旗幟になっていた。ちゃーんと、越後の良寛様も入っていて、Tamuちゃん感激。
<コースとタイム> S発10:55ー12:15車道の宇津峠ー12:24旧道の宇津峠(その先、馬洗場などの山道探索)13:04ー13:26バード眺望の地(昼食休憩)14:30-15:44G着
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