北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 11
8 逆境をしたたかに に関わって

 
1 御館の乱について

 上杉謙信ともあろう希代の名将が、なぜ、最も避けなければならない後継争いの種を残したのか、歴史上の一大疑問になっています。

 私などは単純に、謙信ほどの人が、そんな下手をするはずがないと思っていました。
 関東経営と越後経営の両面作戦で苦労を重ねてきた律儀な謙信ですから、この問題を解決するためには、関東北条氏からの養子景虎に関東管領職を継がせて関東を押えさせ、上田長尾氏からの養子景勝に越後国主を継がせて越後国内を押えるというのが、最良の方針だったのではないかと考えていました。

 関東管領職は、謙信が上杉憲政から譲られた職ですが、一方で景虎の実父北条氏康も古河公方から同職に任じられたことになっていて、両者を平和裏に統一するには景虎が最適です。
 また、景勝は謙信の姉の子で、子のない謙信の後を継いで越後国主になるのに最適です。

 2009年NHK大河ドラマでは、腹心直江兼継の働きで景勝が後継争いに勝利しますが、その兼継こそが謙信の遺志を無視した張本人ではないかと思って見ていました。兼継を演じた俳優の美男子ぶりと冑に付けた「愛」の一字に皆だまされているけど、こりゃ、相当の悪人だぞ・・・などと。

 ところで、伊東潤・乃至政彦共著「関東戦国史と御館の乱」(洋泉社)という本があります。この本が、冒頭の一大疑問に、興味深く答えてくれます。
 まず、上で述べた筆者の単純な見解ですが、同書の中で、井上鋭夫氏も同じ見解を著していることを知りました。もちろん、私のような浅はかな直感ではなく、中世史専門家としての深い洞察からの見解でしょうが、大碩学と同じ思いであったことに、何か、言い知れぬ嬉しさを感じたものです。

 それはさておき、同書では、井上説は一定の説得力はあるものの実証性に欠けると退けています。
 それで、同書のその答えを端的に紹介すれば次のようになります。

① 元亀元(1570)年、謙信は、北条氏康と越相同盟を結び、氏康三男を養子とし景虎の名を与え姪を嫁がせた。
この時点では、謙信は後継として景虎を見込み、その準備に入っていた。ところが、

② 翌元亀2(1571)年、氏康後継の氏政(景虎の兄)は武田と結び、越相同盟は破綻した。関東で対北条戦の前面に立つ上田衆を束ねる景勝(長尾喜平次顕景)の声望が高まった。北条氏出の景虎後継では家臣団が収まらない。そこで謙信は、軌道修正した。

③ 天正3(1575)年、景虎養子後上田長尾に戻していた長尾喜平次顕景に上杉姓と弾正少弼の官途を与え景勝と名乗らせ、実権を移譲することにした。

④ 景虎と景勝の二人の後継候補の折り合いをつけるための謙信の新体制構想は
・謙信が「実城」(いわば会長)
・景虎嫡男の道満丸(謙信の孫で景勝の甥)を屋形(いわば社長=真の後継者)にする。幼い間は、候補者。
・景勝は「中城」(いわば会長候補)で、道満丸が幼い間その後見役(一時的な後継者)をする。

というもので、道満丸の父である景虎もこの構想を承諾しており、謙信急逝という事態に遭っても、景勝と景虎はこの構想に従って行動したという。

 この説によれば、景勝の実城入りは当然の行動ということになり、ドラマなどでの兼継の智謀による実城急襲は虚構・創作の類ということになる。景虎も静かに城を出、城下の屋敷に移ったという。

 ところが、この後、上杉家臣団の中で反景勝派が動き出し、対立、疑心暗鬼などが生じて、結局、御館の乱の悲劇に至る。
 反景勝の動きを見た景勝は、信長的な中央集権による強国作りの必要性を痛感し、一挙に景虎派の討伐に出、禍根を断つために道満丸及びそこに繋がる景虎、上杉憲政までをも殺害するという冷酷な手段に出た。

 同書は、以上のことを傍証を揃えて丁寧に解説しています。目から鱗が落ちるような気分で読まれます。

 景勝が、迫り来る信長に対抗するため強固な越後国作りを目指して冷酷にならざるを得なかったことは良く理解できます。しかし、それは前代の情に厚い謙信とは全く異質のもので、当然、反発も大きかったでしょう。
 三潴左近大夫長能も、その異質さについていけなかった一人ではなかったかと思われます。


2 三潴左近大夫長能について

 文禄3年の定納員数目録で、三潴左近助(左近大夫長能のこと)分11人183石3斗とされていることについて
「上関城発掘報告書」で横山貞裕氏は、「三潴左近は新発田城攻めに際しその挙止を誤って景勝のいかりを受けたようである」と推測し、「この結果が斯くの如き少禄扶持を受けるのやむなきに至ったものの如くである」としています。「村史」も横山氏のこの推測を受けて「新発田攻めのとき、三潴左近長能が参加せず、景勝の逆鱗に触れ」と記しています。

 しかし、渡辺三省氏は著書「本庄氏と色部氏」の中で、「揚北の荒川条のあたりに三潴氏というものが知行地を持っていた。しかし、御館の乱で景勝に反対行動をとったためと思われるが、領地を没収され色部長真や小田切弾正忠の管理に任されていた。その後、三潴左近大夫というものが(中略)荒川条の領有を認められたが、これは(本庄)繁長の斡旋によるものであった。」と述べています。

 三潴氏が新発田氏に組する理由はないように思われます。それよりも、上で述べたように、亡き謙信の思いを斟酌すれば、打算抜きで景虎側に組するのが自然のように思われます。物語は、その立場で展開しています。


2014.1.15追記>
3 御館の乱と三潴氏のかかわりについて、新たな発見


 これまで、上で述べてきたように、最後の上関城主三潴左近大夫長能は、御館の乱あるいは新発田の乱の落度で景勝に咎められ所領没収、その後赦され、少禄扶持で復帰したとされてきました。

 この説を覆す新事実が、この度、発見されました。

 まず、発見に至る経緯から記します。

 平成25年12月24日新潟日報紙上に、歴史家・花ケ前盛明氏筆「越後史跡紀行23安田城跡」が掲載されました。その記事中に次のような記述がありました。
「謙信死後の78(同6)年の御館の乱で、治部少輔は上杉景勝に味方し、9月20日、景勝より三潴氏旧領分を賜った。」
     ※ 1578年(天正6年)の御館の乱のことで、治部少輔(じぶしょうゆ)とは、安田氏の当主のことです。

 この記事中の三潴氏とは、上関城主の三潴氏のことかどうか、早速花ケ前氏に照会したところ、年が明けて1月11日、氏からの親切な回答が届きました。そこには次のようにありました。

「出典は、「安田文書」です。天正6年9月20日付安田治部少輔宛上杉景勝書状です。「新潟県史」等をご覧ください。」

 翌日、すぐに図書館に出かけ、「新潟県史資料編4中世二」の大見安田氏文書で確認しました。
同書の資料№1498 上杉景勝宛行状  「上杉景勝感状」に、次のように書かれていました。

今度遂籠城、忠信不浅候、依之水間(三潴)出羽分出置之候、弥忠信可有之者也、仍如件
  天正六年九月廿日    (上杉)景勝(花押)
 安田治部少輔 殿

 この文書によって、上関城主・三潴出羽守政長の領地を上杉景勝は安田治部少輔に与えたことが確認できたのです。
 このことは、「関川村史」をはじめ上関城主・三潴氏の歴史を綴ったどの書物にも書いてないことです。だから新発見の事実です。


 では、安田文書の記述は、いったい何を意味するのでしょうか。

 結論を先に言えば、景勝から領地を没収されたのは、左近大夫長能ではなく、その父、出羽守政長だったということになります。これは、旧来の説を覆す新事実です。

御館の乱に関わって、斎藤秀平著「新潟県史」から主な騒動を拾うと、次のようになります。
 天正6年3月13日、謙信卒去 24日景勝、実城入り
      5月16日、景勝の兵、直江津荒川城の景虎の兵を攻撃
      7月16日、景勝の兵、中頚城・春日村で景虎の兵と戦 景虎、垂水右近に感状
      9月2日、 黒川清実、景虎にくみし、中条氏の鳥坂城を奪取 景勝、築地氏に鳥坂城包囲命令

 このような騒動の中で、景勝が三潴出羽守政長の領地を安田氏に与えたということは、出羽守政長を景虎側と断じたことを意味しているにほかなりません。

 出羽守政長は永禄4(1561)年、謙信の使者として上洛しています。天正6(1578)年は、そのときから17年後のことですから、まだまだ上関城主として健在だったと考えられます。
 謙信の股肱の臣として仕えた出羽守政長としては、その謙信の遺志を無視するかのような景勝の行動を是とすることは出来なかったでしょう。この思いについては、すでに「上関城物語」本文でも述べたところです。

 景勝によって、景虎側とみなされた上関城主三潴出羽守政長の所領は没収、景勝の手に帰し、一部を安田氏に与えられたと考えられます。渡辺秀平著「県史」には、天正6年に景勝は関谷村の土地を安田氏に与えたとあり、この土地こそ、上関城主三潴氏の本領だったことが、この度、判明したのです。
 そして更に、その後の新発田の乱において、関谷村外の三潴氏旧領も、色部氏や小田切氏に与えられたのです。

 では、出羽守政長の子左近大夫長能はどうしたのでしょうか。
 長能は、永禄11(1568)年、謙信によって庄厳城の守将となり、天正8(1580)年まで12年間在城したとされています。景勝の代になっても2年間在城となっています。

 物語本文では、出羽守政長との代替わりによって、庄厳城守将を解任され上関城主に就任としましたが、どうやらそうではなかったようです。

 御館の乱は、天正7(1579)年2月の御館城攻撃、3月景虎敗死でピークを迎えますが、騒動がある程度収まった天正8(1580)年に、長能は庄厳城守将の任を解かれます。しかし、帰るべき上関城は没収されており、長能は浪人となります。
 長能が景勝の時代に一時浪人になったことは、三潴家の家譜にも記載されていて、この記載をもって、「関川村史」はじめこれまでの各誌は、長能が景勝の怒に触れ所領没収されたとみなしてきたのです。しかし、怒に触れたのは長能ではなくその父だったことは上で述べた通りです。

 これまでの「関川村史」はじめ各誌の説は訂正されなければなりませんし、私の「上関城物語」本文の記述も訂正しなければなりません。

 以下も推測ですが、三潴家分家の佐左衛門が、新発田の乱で景勝から感状を与えられるほど奮戦したのも、本家再興の望みをかけてではなかったかと、今は思われてなりません。
 この活躍の後、本庄繁長の斡旋により、長能は景勝から赦され三潴本家は再興します。佐左衛門の戦功も本家再興に寄与したに違いありません。
 その佐左衛門は、その後、本庄氏の配下となっていますので、新発田合戦でも本庄繁長の指揮下で活躍し手柄を立てたのでしょう。長能もおそらく繁長の下で保護され、時期を待っていたのに違いありません。


 以上述べたように、新たな事実が判明しました。これも、花ケ前盛明先生のご教示のお蔭です。ここに深く謝意を表します。


 なお、今回の新事実により追記・訂正した箇所については、「追加修正の履歴」でご確認お願いします。