8 逆境をしたたかに
(3) 米沢藩の三潴氏、その確かな足跡が
慶長3年(1598年)の会津国替えで、
三潴左近大夫長能は400石取りの武将として置賜・小国城の番将の任につきました。しかし、それもつかの間、慶長5年(1600年)になると、
上杉景勝は、
豊臣秀吉亡き後の政争で
徳川家康と対立、
石田三成と図って挙兵しますが、「関ヶ原の合戦」で頼みの
石田三成を将とする西軍は敗北し、翌慶長6年(1601年)
景勝も
家康に降伏します。
その結果、
景勝は、会津120万石を没収され、米沢30万石に大減封されます。以後、
三潴家は米沢城下に居住して代々
上杉家に仕え、慶応4年(1868年)の明治維新まで267年間、米沢藩士として家を伝えています。
また、
佐左衛門家は、上杉家米沢減封の頃に武士をやめて医師になり、これまた米沢城下で代々その家を伝えています。
ところで、米沢と越後を結ぶ街道を越後の側からは米沢街道、米沢の側からは越後街道、それを合わせて越後米沢街道などと呼びますが、羽越国境の山々を越えるその道には13の峠があることから、13峠の道などとも呼び習わされています。現在も、地元の人々の熱意で、旧街道の峠道を辿ることができます。
その13峠のうち、もっとも標高の高いところを通る峠は、宇津峠(うづとうげ)といい、海抜491mの稜線を越える所にあります。そこは、東の飯豊連峰と西の朝日連峰をつなぐ稜線が走る脊梁の最も低くなったところで、その脊梁が、荒川水系と最上川水系の分水嶺にもなっています。
さて、その宇津峠の上に、この物語の主人公である
三潴氏の名が刻まれた石碑が建っています。
石碑は、「宇津峠道普請供養塔」で、「弘化二年 建立」とあります。弘化2年は西暦1845年で、江戸時代の幕末期になります。その石碑には、この峠の道普請に携わった人々の氏名が列記されていて、その中の一人に
三潴兵内(みつま・へいない)があげられています。
上杉家臣
三潴氏の系譜によると、弘化2年(1845年)当時の当主としては、文政5年(1822年)から嘉永2年(1849年)まで当主を務めた第12代の
三潴六弥政富(みつま・ろくや・まさとみ)が該当します。この人は「
兵内を改む」とありますから、宇津峠の石碑に刻まれた
三潴兵内とは、この人ではなかろうかと思われます。
石碑には、
三潴兵内が、四境御用掛として小松峠から玉川までの普請方の筆頭を勤めたことが刻まれています。
宇津峠の石碑群
左から2箇目、丸い石碑が「道普請供養塔」
右の写真が、その拡大→ |
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供養塔の説明看板
←供養塔の拡大、三潴兵内の文字 |
先祖がこの街道の要地上関城の城将だった
三潴氏は、会津移封後も同じ街道の要地小国城の番将を勤め、幕末のこの時期になってもなお、この街道の交通確保に大きく関わっていたのです。
越後米沢街道は、戦国時代には米沢を拠点にした
伊達氏にとって重要な塩の道でしたし、江戸時代には、米沢に転封された
上杉氏にとって、旧領越後とつなぐ最重要の道でありました。その街道の要である「上関城」を、鎌倉幕府開府以来400年間も押え続けた
三潴氏が、城を離れて200年を経てもなお、越後米沢街道には
三潴氏を欠かすことはできなかった、ということをこの石碑は示しているのではないでしょうか。
平成24年(2012年)10月26日、関川歴史館主催の宇津峠を歩く会に参加して、思いもよらず峠の上でこの石碑に出合った筆者は、感慨深い思いに浸ったものでした。
余談のようになりますが、13峠のうち、山形県と新潟県の県境を超える峠は、蛇の化身の娘が琵琶法師の前に現れた所として、大蛇伝説に知られた大里峠(おりとうげ)です。この峠は、
伊達養子騒動の一方の立役者
伊達稙宗(だて・たねむね)が、大永(だいえい)元年(1521年)に開いた道とされています。養子騒動は、その17年後の天文7年(1538年)に勃発します。山々に閉ざされた米沢の地から見れば、海のある越後の地は魅力的だったことでしょう。
稙宗の深慮遠謀が、大里峠の開削に込められていたのです。しかし、越後とのつながりを深めようとした養子縁組が、嫡男
晴宗と家臣たちの反対に遭い、
稙宗を破滅させてしまいます。皮肉なものです。
史実・伝説、さまざまな物語を秘めて、越後米沢街道13峠の道は、現在もその名残をとどめています。そして、この街道の交通に深く関わった三潴氏が居城とした上関城も、鬱蒼とした杉林の中に静かにその遺構を眠らせています。上関城四百年の物語は、城主三潴氏の苦闘と敢闘の四百年物語でもあったのです。
上関に残る古城にたたずみ、あるいはまた、13峠の古道を歩きながら、こつこつとたゆむことなく歩み続けた先人の物語を偲んでみたいと思います。城の傍らを流れる荒川は、先人のそのときと変らぬ豊かな水を流し続けています。