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 金丸開田の歴史
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 子どもと共に探った「金丸開田の歴史」   金丸小学校教諭 池田久美子
 開田用水の水源地探索  平成7年度、3・4年生8名の複式学級を担任しました。国語、算数以外は3、4年生が同じ内容を学習するAB年度方式を取り入れています。社会科では、「水とごみ」「安全なくらし」と、身近なところから問題を見つけ、それを解決する形で学習を進めてきました。「くらしを高める願い」では、身近な教材をと思いながらも、関川村内の他地域にある「金俣用水」の学習を始めたが子どもたちは少しも興味を示しません。「何とかしなくては、金丸にも、こうした開発の苦労があったはず」と思い、学区在住の用務員さんに相談してみました。すると、昭和35年から39年にかけて、共同で栗畑から7ヘクタールの田を開いたことが分かりました。

 「これだ」と思い、その歴史を探る学習を始めると、子どもたちの目は輝き始めました。私も子どもたちと同じ目の高さになって、用水の水源を求めて探検をし、実際に開田にかかわった方々の苦労話も聞きました。
 「だれだれのおじいさんが若かった頃だ」とか、「どこどこのおばあさんが嫁にきた頃だ」といった話が出るたびに、子どもたちの目はさらに輝きました。
 「今は開田のことについて知っている人が少なくなってきたので、昔の人の苦労を何とか伝えていきたい。」という願いから、子どもたちは開田の歴史を24枚の紙芝居にし、全校朝会で発表しました。
 この活動を通して、ほんの一部ですが金丸地域のふところ深い部分に、子どもたちと共にふれることができて、教師として何ともいえないうれしさでいっぱいです。
紙芝居   絵と文・金丸小学校3、4年生(平成7年度) 
 表紙  

今、金丸では、ほとんどの家で田を持っていて、自分の家で米を作っています。
けれど、この田は、らくにできた田ではありません。
あせ水をながして、できた田です。
この田の歴史を紙しばいにしたのできいてください。

 

昔、金丸には、田んぼを持っていない人たちがいました。
その人たちは、田んぼがないので、炭やきをしてくらしていました。
「ああ、おらたちも田んぼがほしいなあ。」
「そして、米がいっぱい食べたいなあ。」と思っていました。

 
お米は買って食べていました。
「つかれたなあ。」
「また、お金がへっちゃったー。」
 


自分の田んぼをもっといっぱいほしい、楽がしたいとねがっていました。
金丸の人たちは、
「どうやったら、楽ができるかなあ。」
「どうやれば田んぼをふやせるかなあ。」と考えました。
でも、いい考えが出ませんでした。

 


昭和34年、八ツ口の下流にダムができました。
それで、金丸の田んぼが水ぼつしてしまったのです。
「苦労したのにね。」
「いい田んぼだったのにね。」
金丸の人たちはこう言いました。

 

そのとうじ、県庁につとめていた金丸出身の新野忠夫さんが、国のせいどをみんなにしょうかいしました。
それは、かかるお金の80パーセントを国県が出し、残り20パーセントを自分たちが出すというせいどです。

 
昭和35年、新野重太郎さんをリーダーに工事を開始しました。
新野重太郎さんは、今の「ちゃや」のなくなったおじいさんです。
 
用水路と新しい田をせっけいしたのは、金丸出身で役場につとめ ていた熊谷吉一さんです。
 
田んぼは、以前くり林だったところを畑にしていた「共同耕作地というところに作りました。
木を切ったり、木の根をぬいたり、石をとったり、とてもたいへんです。
 
昔は、今のようないい機械がありませんでした。
でも、ブルドーザーが1台だけありました。
それは、アメリカ軍からやすくもらった古いものでした。
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そのころは、モッコ、トーガ、三本クワ、スコップ、ツルハシを使っていました。
機械の力をかりないで、自分の力でやりました。
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2、3年して一りん車やリヤカーが、やっとはいりました。
一りん車とリヤカーで重い物も楽に運べるようになりました。
男の人は、一りん車を一生けん命おしました。
休むとびんぼうになるので、休まないでやるのです。
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「きょうもがんばるぞ。」といいながら、新野利一さんはがんばっていました。
あせ水をながして、とても一生けん命に石とりをしていました。
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開田の作業をするために炭やきができません。
それで、米を買うお金がなくなって、おかゆを食べてがんばったこともあったそうです。
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工事のお金がたりなくて、電柱にする木を切る木材会社の仕事をみんなでやって、お金をかせいだそうです。
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用水路は、U字こうをつなげてつくりました。
U字こうを、かたにかついで山にはこびました。
とても重かったそうです。
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U字こうをつなげるにはコンクリートがいります。
コンクリートは、材料を山にもっていって、山でこねて作って使ったそうです。
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沢の谷をこえるためのサイホンというしかけも、熊谷吉一さんがせっけいしました。
「あれは、あーしよう。 「はい」
「これは、こーしよう。」「はい。」
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田んぼでは牛も使っていました。
よくはたらいてくれて、人のかわりをしてくれたそうです。
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昭和39年に、とうとう用水と田んぼができました。
夏に田うえをしました。
イネのなえは伸びすぎていて、たおれないようにひもでしばって田うえをしました。
雨がふると田んぼのあぜがくずれて、なおすのにたいへんだったそうです。
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田うえは夜までつづいたこともあったそうです。
何日もたってやっと田うえができたそうです。
今は、田うえ機を使うので早くおわります。
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今も、春から夏の間、用水当番があって、葉っぱやごみがつまっていないか、ちゃんとながれているか、見回りをして います。
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開田ができたおかげで、金丸全体で千びょうちかくもお米がとれるようになったそうです。
すごいですね。
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「ウエーン、家がもえちゃったよう。」
開田についてのきろくがおいてある家が、数年前、火事でもえてしまいました。
開田のきろくも全部もえてしまいました。
今は、開田のことについて知っている人は少なくなってきました。
だから、ぼくたちが、昔の人の苦労をこうやって伝えていかなければならないと思います。  (おわり)