歴史館の古文書WEB分館へ戻る
平田甲太郎家文書<安永4(1775)年 新田の悪水除き堀普請 念書> 文書№639
「上野台の新田開発で、用地の東西両端に排水路を作った。ところが、その排水路の世話をしなかったため大水で水があふれ出、上野山村分の本田(元々の田)に流れ込んで土砂が入り、困ったことになった。しかし、この排水路が無いと旱魃の時には却って水不足になる。それで、埋まった排水路を掘り上げる工事をすることになったので、新田を所持する者たちは必要な人足を間違いなく出して江浚いを行うし、今後も、排水路が埋まったりしないよう、いつでも申付けがあればすぐに人足を差出します。」と、新田の持ち主一同が平太郎に提出した念書です。
 この文書より47年前の享保13年にも、9代平太郎が中心になって上野中野を新田開発しています。この文書に出てくる上野台も、代は代わって11代ですが、同様に平太郎が中心になって開発したのでしょう。開発した後も、平太郎は水田開発支配人の立場で指導的役割を果たしています。平太郎の家は、小見に土着した平内以来、代々こうやって水利の悪い荒川右岸の台地を営々と新田開発してきた指導者の家であったことが、この文書や享保の文書から分かります。
釈文
読下し
 ページのTOPへ