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平田甲太郎家文書<新田の悪水除き堀普請 念書>安永4(1775)年
文書№639
<文書の解説>
1 問題の発端
 文書の内容は分かりやすい。次のようになる。
 以前、上野台を開発して新田を造った。その際、開発地の東西の両縁に排水路を掘った。しかし、近年、その排水路の江浚い(清掃・手入れの共同作業)をしないで放置してきた。そのため、排水路の所々が埋まった状態になっている。この状態のままでは、洪水による出水時に問題が生じる。
 流れが滞った排水路の水があふれ、高台にある台地の斜面を崩しながら流れる。そうなると、下方にある上野山村分の本田(年貢対象の元からの水田)に土砂が流入する。
 それで、排水路の掘り上げ工事を行うことになった。

2 実際に被害が出たのかどうか
 この文書の書き方では、出たような、まだ出ていないような、どちらとも読める。「山崩土有之 本田障に相成り候段 申し出候」とある。これを読むと、まず、山(斜面)が崩れて土砂が流れたのは事実のようだ。で、本田に障り(支障・被害)が出たと上野山村から申し出があったのか、それとも、このままでは障りが出るぞと言われたのか、どちらとも読める。
 もし前者なら、排水路の工事どころか、上野山村本田の土砂排出復旧工事が最優先になる。それが書いてなくて、ただ、排水路の掘り上げ工事をするとだけ書いてあるのだから、おそらく、山崩土(土砂流出)は、まだほんの小規模で実際の被害は出なかったのだろう。
 (広報紙の挿絵イラストは、実際の被害が出た場合を想定して描いてみた)

3 排水路の役割
 排水路の掘り上げ工事をする理由として、もう一つ興味あることが書いてある。6行目から7行目の箇所。現代語に直すとこうなる。「この排水路がなくては、干ばつの時かえって田の水持ちが悪くなる」と。文頭に「ことに」とあるから、こちらの方が工事の理由としては強いようにも読める。
 それにしても、排水路がないとかえって水持ちが悪くなるというのは、一見矛盾しているように感じる。調べてみると、次のようなことらしい。
 排水がしっかりしていない田は、湿田状態のため土が締まっていなく地盤が固まらず、いざ干ばつになると水は地中に逃げてしまって乾きが酷くなる。
 ということで、この一文から現代の様に乾田化されていない時代の水田の状態をうかがい知ることができるようだ。

4 水田開発支配人とは
 この文書の宛先は「水田開発支配人 平太郎殿」となっている。この肩書は平田家文書では初出で、全て調べたわけではないが、珍しい。
 チャットAIで調べてみても、「支配人」は江戸時代にも様々に使われていたが、「水田開発支配人」という肩書は見つからないようだ。
 平田家主導の新田開発に従事した人たちは平田家を「支配人」と呼んでいた。このことは、平田家が新田開発のデベロッパーであるとともに、開発後のマネージメントも行っていたことを意味する。

※ 平田家の新田開発の実際は  ⇒こちら(連載第13回)

 江戸時代の大規模新田開発は、商業資本を蓄えた豪商が投資として新田開発に出資し、開発後も支配人を置いて管理運営する形態が多かった。それらと比べれば、平田家は純粋の開発農家であり、真に豪農の名に値すると言えるのではないだろうか。

5 評定所出廷の際の庄屋の回答

村上市史資料編掲載「山辺里村庄屋源蔵の手記」より

 文化3年の田麦掘割訴訟で、翌文化4年2月22日江戸評定所に出廷した庄屋たちは、御留役(裁判官)の尋問で「歳、家内人数、村高、自分高」を次のように答えている。
  (原告側)
平太郎(小見)49才、家内28人、村高176石9斗7升4合、自分高140石
仙右衛門(若山)49才、家内5人、村高116石4斗7升1合 自分高15石
(被告側)
文平(村上町)35才、家内5人、自分高11石
太左衛門(大栗田)45才、家内7人、村高53石、自分高5石1斗
太右衛門(中束)56才、家内11人、村高276石、自分高30石余
甚兵衛(宮前)60才、家内5人、村高195石、自分高14石2斗
源蔵(山辺里)43才、家内9人、村高408石余、自分高13石
幸吉(上助渕)35才、家内11人、村高500石余、自分高43石
              
 村高は各村の耕地面積に匹敵し、これが年貢納税の基本単位になる。自分高が自分の持高で、平太郎は頭抜けて多い。家内人数はほぼ家族数だが、平太郎の28人は大家族制なのだろうが、同居の使用人も含むだろう。いずれにしろ、「水田開発支配人」という肩書と併せて、「豪農の家」としての平田家の存在が浮かび上がる。

※ 文化3年田麦掘割訴訟の顛末記は  ⇒こちら

原文
釈文
読下し
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