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平田甲太郎家文書<佐源太の小見前新田開発に関わる文書 9通>  
 
佐源太から代官所へ 小見村前川原の開発願 天明元(1781)年 文書№734
①の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№654
佐源太から代官所へ 平内新・高田両村地先川原の開発願 天明元(1781)年 文書№545
③の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№695
平太郎等から代官所へ 佐源太についての問い合わせに対する回答 天明2(1782)年 文書№593
佐源太の子十兵衛から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾 享和元(1801)年 文書№567
小見村役人から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾書 享和元(1801)年 文書№121
利惣次の子冨之助から平太郎へ 小見前新田を渡辺三左衛門に譲渡するについての承諾願 享和2(1802)年 文書№710
下関村利助から平太郎へ 小見前新田の三左衛門への譲渡についての仲介調停 享和3(1803)年 文書№598
1 ~9通の文書から~ 佐源太の小見前新田開発とその後
(1) 天明元(1781)年8月、小見村佐源太は小見前新田の開発を願い出た。(文書①②③④) 
 開発願は、(ア)小見村前の川原と(イ)平内新・高田両村地先の川原の二口になっている。この2ヶ所は荒川右岸低地の未開発地で、ひとつながりの土地であるが、所属する村の違いからか二口に分け、それぞれ別文書で提出した。提出先は、上関にあった米沢藩代官所の担当役人2名。保証人は小見村庄屋平太郎。
 開発にかかる土地面積は、(ア)(イ)合計で凡そ20町歩、その内、水田に7町歩、畑に5.5町歩、計12.5町歩。残りの土地は用水路、畔、道など。工事費用は、本来領主支出のはずの水害防止河川工事(堤など)も含めて自分持出。
 土地代金は、二口合計で金6両3分と永295文、1町歩当り単価は、(ア)永500文(=金2分)、(イ)永625文(=金2分2朱)、3年年賦(天明2~4)。
 翌天明2年春には用水路と河川工事を終わらせて、新田開発にかかる。鍬下年季(免税期間)も、天明2~4年の3年間。   ※「関川村史」(p496)は、2ヶ所の土地の内(イ)だけを取上げ、(ア)は落としている。
 
 文書①~④の内容と解説は⇒こちら     原文・釈文・読下しは⇒こちら    
 
(2) 天明2(1782)年3月、代官所から平太郎達3名に問い合わせがあり、それに回答した。(文書⑤)
 問い合わせ内容は、佐源太への不安と保証の確認。それに対し、平太郎達は、佐源太は財産を持っているので心配ないこと、それに、万一の場合は、平太郎達の持田も十分あり、弁償は大丈夫であることを回答。 
文書⑤の内容と解説は⇒こちら 原文・釈文・読下しは⇒こちら
(3) 天明6(1786)年12月、佐源太は上関村利左衛門へ小見前新田を譲渡した。
 渡辺家文書にこの時の文書がある。天明6年の年貢と地代金が払えず、譲渡金60両を得て皆済できた。
※ 「関川村史」(p497) 但し、同頁中の渡辺家文書137号は間違いで、正しくは6337号
(4) 享和元(1801)年11月、佐源太の子十兵衛は、上関村利惣次(利左衛門の子)が小見前新田に用水路を造る工事を承諾した。(文書⑥)
 佐源太が「開発行き立たず」譲渡した小見前新田の土地に、利惣次が新たに用水路を引く。そのため、佐源太の子十兵衛に土地代として5両払った。用水路は十兵衛の田の崖の下きわを通す。崖の岩は削らないのが条件。村方三役が連名で承諾している。
 譲渡の年は、文中にただ「先年」とあるだけだが、(3)により、この文書⑥の15年前で、開発願出から5年後の天明6年のことになる。
 文中、「開発行き立たず」とあるが、新田開発が失敗したわけではない。
 渡辺家文書によれば、天明5年に佐源太と高田村利右衛門の名前で米沢藩の検地を受けていて、その時の耕地(田と畑)面積12町5反余、その内、田7町余(「関川村史」p469)。これは(1)の開発計画面積2ヶ所分と合致している。佐源太の新田開発は成功したのだ。
 (3)の文書に、天明6年の年貢が払えないとあるので、3年間の開発免税期間が終った天明5年の年貢は払えたようだ。地代金の年賦期間は過ぎているが、延納していたのかもしれない。
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(5) (4)の工事について、小見村役人も同意した。(文書⑦)
 (4)の利惣次の用水路は、15年前に譲渡された小見前新田にある畑地と三ヶ村請新畑を水田にするためのもの。小見村は、工事や用水の使い方等については細々と注文を出しているが、土地代金として20両受取り、工事には同意した。
文書⑦の内容と解説は⇒こちら 原文・釈文・読下しは⇒こちら
(6) 享和2(1802)年11月、利惣次は小見前新田外を下関村渡辺三左衛門に譲渡した。(文書⑧)
 譲渡理由は、水原代官所からの借金230両が返せなったから。譲渡の土地は(ア)小見前新田と(イ)小見村地内新畑。(イ)の譲渡には小見村平太郎の承諾印が必要。ところが、平太郎は(ア)は差し支えないが、(イ)の新畑2町7反余の内、約7反5畝については訳があって承諾が難しいと言う。
 それで、利惣次の子冨之助は、平太郎に、その7反余の土地は、自分が代地なり代金なりを出すので、この問題を片付けたいと頼み、決着した。
 
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(7) 享和3(1803)年12月、小見前新田庄屋兼帯等の件で平太郎・三左衛門間に問題が生じた。(文書⑨) 
 下関村渡辺利助、上関村儀右衛門が間に入り、結局、三左衛門が平太郎に解決金250両を払うことで問題は決着した。
 問題の発生は、利惣次の子冨之助が、平太郎と利惣次の間で交わされた内約を知らずに、三左衛門に庄屋役も譲ったことによる、とされている。(「関川村史」p497)
 「関川村史」によれば、渡辺家文書には、利惣次から三左衛門に渡る間のやや複雑な経緯も書いてあるとのこと。ただ、「関川村史」は、平田家文書の検討はほとんどなされていない。よって今後、平田家文書と渡辺家文書を突き合わせての検討・解明が必要である。
 文書⑨の内容と解説は⇒こちら 原文・釈文・読下しは⇒こちら
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2 小見前新田を開発した佐源太について 
 平田家文書に度々登場する佐源太は、興味惹かれる人物である。ここで、この人物の活躍について整理しておきたい。
(1) 平田家文書(Fは渡辺家文書)に登場する佐源太
A 安永4(1775)年2月、入会山盗伐の件で「小見村庄屋佐源太」(文書№623)
B 安永6(1777)年3月、さた除籍の件で「小見村庄屋佐源太」(文書№657)
C 天明元(1781)年8月、小見前新田開発願(文書№545、734、654、695)
D 天明2(1782)年1月、貝附工事請負願(文書№504)
E 天明2(1782)年3月、上関村儀右衛門に頼まれ福島潟新田開発(文書№593)
F 天明6(1786)年12月、小見前新田を上関村利左衛門に譲渡(渡辺家文書6337)
G 享和元(1801)年11月、十兵衛から利惣次宛文書に「親佐源太」(文書№567)
 現関川村の領域は、寛政4(1792)年に幕府領水原代官所支配になり大庄屋制は廃止されたとされている。それ以前は、大名預り領で大庄屋が置かれた。小見村の平太郎は、小見組大庄屋を務めている間、小見村庄屋は別の人物が務めていた。安永4~6年の頃、佐源太は小見村庄屋を任されるほどの年齢だったことになる。
 また、その後の天明年間初め頃は、新田開発や水害復旧工事を行っている。事業意欲旺盛な土木工事請負人だったことになる。
 しかし、この時期以外、小見村に関わる文書に佐源太の名は出てこない。総百姓の署名にも。佐源太が一家の主の名であれば、必ず佐源太の名が出てくるはず。それがないということは、佐源太一代で絶えたか、それとも親の名を襲名してその一家の主となったか。
 Gの文書に登場するまで、佐源太が何者であるかよく分からなかったが、この文書により小見村十兵衛の親であることが分かった。十兵衛家の当主は代々十兵衛を襲名している。佐源太の名が消えたのは十兵衛を襲名した可能性が高い。

(2) 小見村平太郎家について
 小見村の十兵衛家を理解するために、まず小見組大庄屋の平太郎家とは何か、整理しておく。(以下は、主に平田家系図「奥州会津平田氏系譜」平田大六氏蔵に依る。)
 小見村の平太郎家(後の平田甲太郎家)は、上杉景勝が徳川家康に敗れて米沢領主となった後、上杉家の禄(給与)を離れ小見に土着した平田平内から始まっている。平内は、水利の悪い荒川右岸段丘上の原野の開拓に専念し、平内新村、滝原村を開いた。
 平内が小見に土着するについては、祖父・平田常範に由縁があった。常範は、関ケ原合戦(1600年)の前年、会津領主上杉景勝が、旧領の越後各地に騒乱を起こすことを企図した「越後一揆」の指揮官の一人として下越後へ進出し、小見村に駐屯した。
 しかし、関ケ原で家康が勝者となって越後騒乱の企ては失敗、常範は米沢へ引き揚げるが、下越後進出の際に多くの配下(一族郎党)を連れていて、その中には、米沢へ戻らずに現地に残った人たちもいた。平内が小見村に土着するについては、そのような地縁血縁があったからと思われる。これら一族郎党の人々が、平内の新田開発に大いに与力したのだろう。
 以来、平内の子孫は代々平太郎を名乗り、一族は、荒川右岸の山間部や河原荒地の新田開発に力を注いだ。(平田甲太郎家文書には、新田開発関係の文書が多数ある。)
 なお、平田甲太郎家では、家の始祖を会津領主芦名家四宿老の一人で鑑ケ城(福島県塩川町に同名の城跡あり)の城主・平田盛範を初代としており、平内は平田家六代目になる。
 平内の次の七代平太郎(ここから平太郎家となる)は、滝原、辰田新、上野山の新田開発を行い、寛文7(1667)年に、初めて小見組大庄屋になる。小見組は、女川組と呼ばれた時代もあり、女川地区と川北地区を合わせた旧女川村一帯で、大庄屋はそこの行政上の代表者。
 ただし、その後、幕府領内では大庄屋制度は廃止され、大名の預り領になったときに、復活している。但し、幕府領となって、表向き大庄屋は廃止になっても、その地域では依然大庄屋としてみなされていたようで、様々な場面で地域の代表者、大物庄屋として活躍している。

(3) 小見村十兵衛家について
 平内の弟八兵衛は上杉家臣のまま米沢に残ったが、その子十兵衛は父の死後、小見村に移住。この人物が小見村十兵衛家の始りで、以後、代々十兵衛(時に重兵衛とも記される)を名乗っていて、現代の前関川村長平田大六氏へと続いている。十兵衛家と平太郎家は、上杉家臣平田常範の子鮮範から分かれた同族で、ほぼ同時期に前後して小見村に土着、以来400年、連綿として続いてきた家である。
 さて、(1)Gで、佐源太が十兵衛の親であることは判明したが、平田大六氏作成の十兵衛家(大六家)家譜に佐源太なる人物名はない。そこで該当年次の家譜に、(1)の佐源太の業績を重ねると次のようになる。
※ 明和元(1764)10月、第4代十兵衛没
※ 明和2(1765)年8月、第3代十兵衛没(4代が早世)
A 安永4(1775)年2月、入会山盗伐の件で「小見村庄屋佐源太」(文書№623)
B 安永6(1777)年3月、さた除籍の件で「小見村庄屋佐源太」(文書№657)
C 天明元(1781)年8月、小見前新田開発願(文書№545、734、654、695)
D 天明2(1782)年1月、貝附工事請負願(文書№504)
E 天明2(1782)年3月、上関村儀右衛門に頼まれ福島潟新田開発(文書№593)
※ 天明6(1786)年4月、第5代十兵衛没
F 天明6(1786)年12月、小見前新田を上関村利左衛門に譲渡(渡辺家文書6337)
G 享和元(1801)年11月、十兵衛から利惣次宛文書に「親佐源太」(文書№567)
※ 天保15(1844)年4月、第6代十兵衛没

 Gから、佐源太の子が第6代十兵衛に該当する。もし佐源太が十兵衛を名乗ったとしたら第5代ということになる。この人物は天明6年4月に没しているが、十兵衛家の当主になったとしたら第3代か第4代の没後になる。この間が佐源太活躍の時代に該当する。ということは、佐源太は十兵衛を名乗らなかったということになる。さらに、第5代の没後の12月に佐源太名で利左衛門への譲渡書が出ている。やはり、第5代十兵衛と佐源太は別人といういことになる。すると、6代十兵衛は他家からの入籍で、佐源太は、実父ということだろうか。
 やはり、謎のままの佐源太ではある。
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3 9通の文書それぞれの内容と解説
 佐源太から代官所へ 小見村前河原の開発願 天明元(1781)年 文書№734
原文と釈文・読下し文は ⇒こちら
※ 小見村の佐源太が小見村前の河原荒地の開発願を出し、代官所の現地調査・測量が行われ尋問があった。その結果を整理して作成、提出されたのが①の文書と思われる。
<内容の要約>
 該当箇所の総面積は約10.5町歩程。内、水田に3町歩、畑に3.3町歩程。残りは用水路や畔、道に充てる。
 水田の為の用水は、荒川の少し上流から引込む。取入口は長さ40間・深さ3尺・横幅3.5尺で掘割り、そこから400間の水路を作る。
 合せて洪水防止のための河川工事も行う。安永8(1779)年に公費で作られた堤があるので、それを延長して、150間の石堤と100間の石積みを造り、水際枠を40組据える。さらに、川の流れを安定させるための水刎(みずはね=工作物)を川に据える。
 これらの計画を書いた仕様帳も別に提出してあり、工事費用を公費から支出していただきたいとお願いしたら、「開発面積が少なく、これでは公費支出は難しい」と言われた。
 それで、用水路と河川工事の両方とも工事費は自分(佐源太)が出すことにした。
 自費工事なので、地代金は免除をとお願いしたのだが、難しそうなので、1町歩につき金1分の上納にしたいと申し出、鍬下年季(開発の免税期間)も7年でお願いした。
 ところが、代官所からは地代金の増額と免税期間の短縮を言われた。工事費が多額の負担になるので難儀なのだが仕方なく、地代金は1町歩につき2分、免税期間は3年にしてもらうことにした。地代金は3ヶ年賦で上納する。この条件で新田開発をさせていただきたい。
※ 代官所は上関にあった米沢藩の陣屋、蓮見・渡部(渡辺)はそこの担当役人ということになる。
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 ①の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№654
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※ 文書②の内容は、文書①と全く同内容。代官所による現地調査の際いろいろ尋問があって、それへの回答を記録した形になっている。尋問への回答書として②を提出した後、改めて願書として整理するよう言われ、①を作成提出したのではないだろうか。
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 佐源太から代官所へ 平内新・高田両村地先河原の開発願 天明元(1781)年 文書№545
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※ 佐源太の開発願は二口あって、一口は文書①の小見村前の河原で、もう一口が文書③の平内新村・高田村地先の古い河川敷。両者は地続きで一体の土地なのだが、土地が所属する村が異なるので別口にして申請したのではないだろうか。地続きなので、用水路は①の水路を延長するのだろう、詳しい工事計画は書いてない。
<内容の要約>
 総面積は約9.5町歩程。内、水田に4町歩、畑に2.2町歩程。残りは用水路や畔、道に充てる。
 洪水防止のための河川工事として、小見村地内に長さ180間、高さ6尺、馬踏み(堤の上面歩道)6尺で堤幅は2間の石堤を造る。また、荒川対岸の辰田新村・打上村地先にも長さ106間、高さ・馬踏みは上と同様の石堤を造る。地元の村々へもよく相談したので、差障りはない。工事費も自分持ちで行う。
 ところが、代官所からは、「辰田新・打上両村の者を呼出して石堤の支障ないか糺したところ、そこに石堤を造られては街道筋へ水が突き当たる心配があると言うので、ほかに作る場所はないか」と尋ねられた。それならば、小見村・高田村の地内へ石堤を造れば差障りはないと答えた。
 また代官所からは、地代金と鍬下年季(免税期間)も決めるよう言われた。河川工事と用水路工事は費用自分持ちで多額の費用がかかるのだが、別口で願い出ている小見前新田と地続きなので、そこと同様に地代金は1町歩につき金2分、免税期間は地所が悪く開発に手間取るので5年をお願いしたいと申し上げた。
 ところが、代官所からは、「そう悪い土地には見えないから、そんなに手間取るとは思えない」ということで、地代金の増額と免税期間の短縮を言われた。河川工事に用水路工事で多額の費用がかかり難儀なので、願いの通りお願いしたいと言ったのだけれど、いろいろ言われて(しぶしぶ)承知し、地代金は1町歩に2朱増額で2分2朱、免税期間は3年に縮めることでお願いした。
 この上どのように調査尋問があっても、これ以上地代金の増額はお受けできない。
※ 敵もさるもの、代官所もなかなか渋い。ほとほと困って、最後の1行には佐源太の切なる思いが込められている。次の文書④では、地代金はおろか免税期間も同様、これ以上は譲れないときっぱり回答しているから、佐源太もなかなかしぶとい。
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 ③の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№695
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※ 文書④の内容は、文書③と全く同内容になっている。文書①と文書②の関係と同様で、代官所による現地調査の際いろいろ尋問があって、それへの回答を記録した形。尋問への回答書として④を提出した後、改めて願書として整理するよう言われ、③を作成提出したのではないかと思われる点、①と②の関係と全く同じ。
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 平太郎等から代官所へ 佐源太についての問い合わせに対する回答 天明2(1782)年 文書№593
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※ 佐源太が新田開発を願い出た翌年、代官所から平太郎達3名に問合せがあり、問われた内容とそれへの回答記した文書。もしかすると担当役人が交代して、新たに担当することになった役人が佐源太の状況を見て心配になり、問い合わせたのではないだろうか。地代金を増額させた前任二人のやり方にも不安をもったのかもしれない。
<問いと回答>
問① 佐源太が費用自分持ちで工事をすることになっているが、新田開発には少なくない費用がかかるはず。近年、佐源太は困窮していて、上関の儀右衛門方に手代奉公している様子だが、開発費用の出どころがないのではないか、開発費用に差支えるようなことはないのか。知っていることを詳しく答えるように。
回答① 佐源太は内々に金子を持っているようです。儀右衛門方に手代奉公しているのではなく、福嶋潟の新田開発が人手不足て手伝ってほしいと儀右衛門に頼まれてやっているのです。
問② 佐源太はかねてから締まりのない人物のように聞いている。今回の新田開発が江戸表まで上申された後で、費用に窮して途中で止められたのでは困ったことになる。若し、そのような風聞とは違ってしっかりとした財産を持っていて、たとえ、途中で止めたとしても弁償用の土地をもっているのか。また、資力が乏しくて支払等に難儀しているように見えないか。これまた、知っていることを正直に答えるように。
回答② 弁償用の土地は、佐源太に米の取れ高35石8斗2升2合の土地があり、ほかに、保証人の平太郎と孫八郎の分合わせて156石5斗9升6号の土地があります。このことは、去年、蓮見・渡辺両人へ書き上げて提出してあります。佐源太一人にどのようなことがあっても、新田開発費用に差支えることはありません。
※ 佐源太は、この年(天明2年)正月、貝附地内の米沢街道が荒川の出水で削られた災害復旧工事請負も、同じ上関の代官所(上杉藩)に願出ている。(文書№690、504) その上、文書⑤からは福島潟の新田開発にも携わっているようだ。相当の事業家のようであるが、代官所の役人ならずとも、大丈夫なのかと心配になる。担当役人も少々心配になって、保証人・平太郎たちに確証をとっておきたかったのではないだろうか。
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 佐源太の子十兵衛から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾 享和元(1801)年 文書№567
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※ この文書は、佐源太が小見前新田の新田開発を願い出てから20年後のもので、文中「親佐源太」とあるので、差出人の十兵衛は佐源太の子であることが分かる。
<内容>
小見前新田は、先年、親の佐源太が、開発行き立たず、貴殿へ譲渡した所。
この度、そこに(利惣次が)用水路を造るというので(十兵衛の土地を使うため)、十兵衛は地代金5両受取った。
用水路は、十兵衛の田地の崖の下きわを通す計画。その際、崖の岩は切り取らないでほしい。
 連名人は村方三役。牛屋村金次が、中策人。

※ 文中に「先年」とある、佐源太が小見前新田を譲渡した年は、渡辺家文書により天明6(1786)年であることが分かっている。つまり、佐源太は開発を願い出た5年後に、そこを手放したことになる。同文書には、譲渡の理由として「天明6年の年貢と地代金が払えないので仕方なく、60両で譲渡し、それで年貢と地代金を皆済できた」とある。開発免税3年の期間が過ぎて年貢の負担が重かったのだろう。地代金は3年年賦にしてもらったはずだが、遅滞していたようだ。
※ 文中「貴殿へ譲渡」とあるが、渡辺家文書には「利左衛門へ譲渡」となっている(関川村史)。利惣次は利左衛門の子。
※ ⑤で代官所が心配していたことが現実になった。それでも、最も心配していた途中放棄ではなく、5年間で新田は納税できる状態まで完成していた。だからこそ、60両で譲渡出来たということだろう。
※ 譲渡されて15年後、利惣次は用水路の拡張か新設を必要として、そのために十兵衛の土地を使うことになったのだろう。牛屋村金次が中策人となっている。天明6年の譲渡は「久保村庄屋半右衛門の口入で」とある。金次も同じように両者の間に立って交渉した人なのかもしれない。中策人の用語は不明。
※ 平田家文書にたびたび登場する佐源太。「戸籍異動通知」や「入会山盗伐」では小見村庄屋として、「貝附街道工事」では請負人として、「小見前新田」では開発人として。そして、この文書⑥によって、ようやく佐源太が十兵衛の親であることが分かった。小見の十兵衛家は、平太郎の祖・平内の甥にあたり、平内と同時期、あるいは平内の後を追ってか、寛永(1600年代前期)の頃、米沢上杉家の禄を離れて小見に土着した平田一族で、以来400年、現在まで連綿と繋がっている。
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 小見村役人から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾書 享和元(1801)年 文書№121
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※ 小見村役人から上関利惣次宛に出された文書で、⑥と同じく、利惣次が小見前新田に用水路を引くに当たって地元小見村が了解したことを示している。
※ この文書の享和元年は、天明6年に佐源太から利惣次に小見前新田が譲渡されてから15年になる。文中「貴殿御持分畑田形用水路」とあるので、利惣次は、譲り受けた土地の内、畑だった所を田に替えるため新たに用水路を引くことにしたことが分かる。この文書には、利惣次の工事内容が、⑥よりも詳しく記されてある。

<内容>
(1)用水路は、荒川だけでなく吹の沢からも引く。小見村だけでなく滝原・上野山両村も天明年中に書付を出しているので了解するはず。用水路は崖際を通し、岩は切り崩さないこと(⑥に同じ)が条件。荒川に造る堤も、川向の土地であっても差障りないこと。これは双方納得の上で取極めたこと。
(2)洪水防止の堤の内側、平太郎の船蔵より内側で小見前新田と小見村の境へ用水路の堀を掘るのも御自由に。船蔵の外と堤の際に堀を掘るのも、天明年中に出した書付の通りで、少しも差障りない。
(3)旱魃で堀の用水が不足する年は、小見村からも人足を出して用水を多く引き取るようにするので、その節は、小見村の田へも用水を分ける計画になっている。用水の堰工事は、両岸の土地にも差障りはない。
 小見前新田外の川上へ荒川が寄ってくるようだと、大変なことになる。これについても、天明年中の書付通り、小見村で工事を願い出、堤が大破しないようにする。
 勿論、利惣次が自分の費用出しで堤を丈夫にしようとするのは御自由に。その際、工事場所や河原の石取りなどは差支えないので、十分丈夫になされたらよろしい。
 この度、地代金として20両を、平太郎と村方で受取ることになったので、用水路は勿論、何でもこのことについては差障りないとの取極め書を出すことになった。
 小見前新田と三ヶ村請け新畑に、利惣次持分の畑を田に替えるための用水路を小見村地内へ引くことについて、それがたとえ、御年貢地に掛ったとしても、唯今、地代金20両受取る上は、以上の項目について天明年中に差出した取極め書の通りで、いささかも差障りはない。
 総百姓相談の上でこの取極め書を差出すからには、毛頭も相違はない。
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 利惣次の子冨之助から平太郎へ 小見前新田を渡辺三左衛門に譲渡するについての承諾願
 享和2(1802)年 文書№710
 原文と釈文・読下し文は ⇒こちら
※ ⑥⑦で利惣次が新たに小見村地内に用水路を引くことにした翌年の文書。冨之助は利惣次の子(「関川村史」)
<内容>
 利惣次は、水原代官所からの拝借金が230両あり、返納金の調達ができず、小見前新田と小見村地内の新畑を下関渡辺三左衛門に譲渡することにした。
 ところが、三左衛門は、新畑は(小見村地内なので)平太郎の承諾印がなければ、不承知だと言う。それで、(平太郎に)押印を頼んだところ、小見前新田は(三左衛門に譲渡しても)差し支えないが、小見村から(利惣次、又は利左衛門に)譲渡した新畑2町7反1畝15歩の内、7反4畝6歩の土地についてはいろいろ訳があって、承諾するのはなかなか難しいのだということで、押印してもらえなかった。
 それでは、三左衛門から金を出してもらえず、代官所へ拝借金の返納もできなく、大変困っている。
 そこで、訳ありのその7反余の土地は、私(冨之助)から代地を差出すので、承諾をお願いしたいと頼んだところ、ご承知いただき押印して頂けた。
 そうしてもらったからには、そちらには何の苦労もおかけしない。私持分の別場所の土地なり、又は地代金なり、そちらのいいようにして片付けたい。これで、三左衛門への譲渡はすべて差障りないことで話合がつき決着した。
 その取極めとしてこの一札を差し入れた。追って代地を取交す際に取り為せ証文とこの手形を合せることにする。

※ ここで問題になっているのは小見村地内にある新畑であって、小見前新田についてはスムーズに利惣次から渡辺三左衛門へ譲渡されることになっているように読める。ところが、次の⑨の文書で、小見前新田の譲渡にも難題が浮上していたようで、その経緯については、「関川村史」にも記述がある(p497)。
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 下関村利助外から平太郎へ 小見前新田の三左衛門への譲渡についての仲介調停
 享和3(1803)年 文書№598
 原文と釈文・読下し文は ⇒こちら
※ ⑨は、⑧のちょうど1年後の文書である。⑧では、小見前新田の譲渡は差支えないとなっている。ところが、この⑨では、かなり面倒な問題が発生したようである。順を追って読み解いてみよう。
<内容>
 先達て、上関村理惣次(利惣次に同じ)から平太郎へ差出した文書にある、小見前新田(の庄屋)兼帯と1町歩の書付の件について、(平太郎から)渡辺三左衛門へ談判・交渉があった。
 そのことが表立っては、平太郎と三左衛門の関係が甚だよろしくないことになる。それで、私たち二人(利助と儀右衛門)が立ち会い、調停することにした。
 庄屋兼帯と一町歩の田のことと、それと工事個所のことは、前から平太郎が差出した絵図面の通りで、少しも異論のないことに決めた。それで、三左衛門から平太郎へ250両を渡すことにしたので、今後は、小見前新田については異議や苦情は出さないことに決まり、私たちも安堵した。

※ 問題になっているのは3点で、(1)は小見前新田村の庄屋役のこと、(2)は1町歩の田のこと、(3)は工事個所のこと。(3)については、平太郎が絵図面を見せて決着した。(2)については詳細不明。(1)については、「関川村史」に経緯が記されている。結局3点とも、三左衛門から平太郎へ解決金を払うことで解決している。
<「関川村史」記述p497の概略>
 小見前新田の庄屋役は、開発後10年間は利惣次が勤め、10年以降は小見村庄屋が兼ねるという申し合せがあった。ところが、そのことを利惣次の子冨之助は知らずに、庄屋役も三左衛門に譲り渡した。それで平太郎は、利惣次との内約の証文を出して三左衛門と掛合った。そのため、仲介人が立ち、小見村庄屋が兼帯する証文は反故にすることで決着した。

※ ⑨の冒頭で小見前新田と小見村地内新畑を三左衛門に譲渡する理由が書いてある。しかし、「関川村史」によれば、利惣次から三左衛門の所有になる経緯はもう少し複雑のようである。「村史」は渡辺家文書を元に記述しているが、ここで取上げた平田家文書は読んでない。今後、渡辺家文書を読む機会を得、両文書合わせて、小見前新田の開発から譲渡に至る経緯の詳細を明らかにできればと、願っている。
※ なお、「村史」は、佐源太による小見前新田開発の内容として、平田家文書の上記③④の高田村・平内新村地先の開発だけを挙げていて、肝心の小見前の①②はスルーしている。佐源太の開発が二口あったことに気づいていない。その状態のまま、渡辺家文書の検討に入っているので、譲渡に至る経緯も粗雑になっているのではないかと危惧される。その意味でも、両家文書を付き合わせた検討が必要である。
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4 9通の文書それぞれの原文と釈文・読下し文
① 佐源太から代官所へ 小見村前河原の開発願 天明元(1781)年 文書№734
原文
釈文
読下し
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② ①の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№654
原文
釈文
読下し
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③ 佐源太から代官所へ 平内新・高田両村地先河原の開発願  天明元(1781)年 文書№545
 原文
釈文
読下し
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④ ③の新田開発についての尋問と回答の記録 天明元(1781)年 文書№695
原文
釈文
読下し
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⑤ 平太郎等から代官所へ 佐源太についての問い合わせに対する回答 天明2(1782)年 文書№593
原文
釈文
読下し
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⑥ 佐源太の子十兵衛から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾 享和元(1801)年 文書№567
原文
釈文
読下し
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⑦ 小見村役人から上関村利惣次へ 小見前新田の用水路承諾書 享和元(1801)年 文書№121
原文
釈文
読下し
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⑧ 利惣次の子冨之助から平太郎へ 小見前新田を渡辺三左衛門に譲渡するについての承諾願
 享和2(1802)年 文書№710
原文
釈文
読下し
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⑨ 下関村利助から平太郎へ 小見前新田の三左衛門への譲渡についての仲介調停
 享和3(1803)年 文書№598
原文
釈文
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