歴史館の古文書WEB分館へ戻る
享和3(1803)年 笹岡町の傷害事件調書一式 平田家文書№34
関川村広報紙2023年6月号掲載
<解説>

1 調書一式について
 笹岡町(現阿賀野市笹岡)で起った傷害事件の調書が、なぜ、現関川村小見の平田家にあったのか。
 小見村庄屋の平太郎は、蒲原郡岩船郡内の惣代庄屋の一人で、幕府領の年貢米を集め江戸・大坂へ届ける役目をしていた。( 事件のあった笹岡町の庄屋も、大坂に出張中であると文書中に出ているので、その一人だったのだろう。)
 そんな関係で、親しく代官所にも出入りし、時には長く滞在することもあったのではないか。そんな折に、この事件に興味を持ち、調書類を書き写したのではないかと思われる。
 ページ数にして48ページもある分厚い綴りで、書き写された元文書は、次の通り(掲載順)。
 ~クリックすれば、その文書へ移動します~
① 被害者平助の供述調書
② 加害者二人の供述調書と加害者の本寺の添書き
③ 証人権四郎の供述調書
④ 証人五人の供述調書
⑤ 笹岡町村役人と本寺の請証文
⑥ 平助を手当てした医師の回答書
⑦ 当事者と扱人の済口證文(和解合意書)
⑧ 代官前沢藤十郎の伺い書
注1・・・⑦の文書は、中間に欠落箇所があります。(綴った紙が1枚抜けたのか、それとも書き写しの際の飛ばしかは不明)
注2・・・
文中に現代では適切でない文言が出てきますが、翻刻ではそのままの文字にし、意訳で適切な表現に直してあります。
※ 事件の経緯を時系列で整理してあります。⇒こちら

2 江戸時代の地方庶民の暮らし
 事件は別にして、この文書から、江戸時代の地方庶民の暮しを縷々垣間見ることができて面白い。
(1) 修験の存在
 村に「修験」という元山伏のような祈祷師が存在していた。当山派は真言宗系、本山派は天台宗系。
 私の住む上関の正満寺も「修験」だったのではなどと思っている。昭和の時代になっても、私の親たちなど、正満寺法印様の祈祷やお祓いをずいぶんと頼りにしていた。
(2) 登場人物
 様々な登場人物が、それぞれに思惑があり、都合があり、行き違いがありで、さながら時代劇の一幕を見ているような面白さ。時代が違っても、人間模様は全くと言っていいほど変わっていない。
(3) 事件処理と所預け
ア いざこざの訴えが、代官所でどのように処理されていくのか、その手続きが具体的に分かる。各自の言い分の違いもそのままに、一つ一つ丁寧に調書を取っていく。これも代官所の仕事。
イ 加害者は、「所預け」。これは、軽微な犯罪人を村役人等に預けて拘束する制度。納税にしても、犯罪処理にしても、代官所は住民の方へ押し付ける。そもそも、水原代官所の役人の数は天保10(1839)年の記録で現地に5人。村役人は代官所行政の一役も二役も担っていた。
ウ 傷害事件は刑事事件だが、示談が成立すれば処罰はなしということか。示談の有無が刑罰の軽重に影響する点は現代も同じ。しかし、事件の原因となった言った言わないの真偽については、全く裁決されない。すべてはうやむやのまま熟談内済。これが、当時のやり方。いいかげんというべきか、おおらかというべきか、まあまあなあなあのムラ社会。
(4) 代官の権限
 記録の最後に、代官前沢藤十郎による伺い書が載っている。宛先はないが、上部機関は江戸の勘定奉行所。現地代官には、決定権がないということになる。御代官様と言われる割には、権限はもっていないようだ。代官の代は代理の代。身分は低く、芝居やドラマの御代官様は、そうとう誇張されている。
もっとも、別の文書で、この当時の蒲原郡岩船郡の幕府領は前沢藤十郎の預り地となっている。勘定奉行直下の代官ではなく、言ってみれば、委託管理を請け負った代官。それだけに、なおのこと権限は弱かったのかもしれない。
(5) 農村の町
 江戸時代の地方行政は、大きく、町と村に分けていた。町は、城下町や、大きな寺社や港のある門前町・港町など。町年寄と村庄屋というふうに役職の呼び名も違っていた。
 このような大きな町とは別に、もう一つ、村が大きくなった町があった。今回の舞台となった笹岡町もその一つ。基本的には村だから、庄屋であり村役人。文書の中でも、村と言ったり町と言ったりしている。

3 事件の概要
 事件は、言った言わないで、お互いの意地の張り合いが事を面倒にしてしまった話。結果的には、傷も浅く、示談で収まっている。
 ただし、関係者(被害者と加害者と証人権四郎)の供述は、入り組んでいて、なおかつ食い違いもあり、一読しても事件の経緯把握は困難。それで、三者の供述を時系列で整理して〈事件発生の経緯〉をまとめてみた(後掲)。
これを読むと、なぜこのように事がこじれてしまったのか、一層、訳が分からなくなる。
 問題は、平助の発言があったのかどうか。その黒白がまったく不明。さらに、権四郎の告げ口はあったのかどうか、それも不明。発言がないのなら、権四郎がきちんと説明すればよいのに、それをしない。あったのなら、詫びを入れて訂正すればよいのに、それもしない。
 推測するに、庄屋は権四郎の告げ口が原因と分かっているから、当人に始末させようとした。当の権四郎は、双方からの風当たりを避けたくて、どっちにもいい顔しようと、まあまあ、なあなあの手に出た。それが問題をこじらせた。そんなところかなと思うのだが、だれも権四郎を問い詰めないのが、これまたヘン。想像だが、平助も龍蔵院も難しい人物で、それが分かっているから、みな腰を引いてしまったのかもしれない。今も昔も、よくあるような話。

4 事件発生までの経緯と事件後の始末
   〈平〉・・・・は被害者平助の供述から
   〈龍/正〉・・・・は加害者龍蔵院と正明院の供述から
   〈権〉・・・・は仲介人権四郎の供述から
    ( )は、筆者の注記
享和2戌年(1802年) 7月
 〈平〉〈権〉・・・・・・・・
組頭の長蔵死亡し、平助と権四郎が組頭代になった。
  (新役人の二人の責任感か張り切りが、事件の伏線)
享和3亥年(1803年) 3月中旬
 〈権〉・・・・・・・・
杉林新開願人(新規開発の願い出人)のうわさを聞いた。
  (そもそもの事件の発端は、このうわさ)
3月14日頃
 〈権〉・・・・・・・・
権四郎と平助が庄屋の八郎兵衛方へ行き、新開願人があるなら村にも問題が起きる心配があるのではないかと、申し入れた。
三月中旬頃
 〈龍/正〉・・・・・・・
自分たち二人が村の空地の新開願人だと平助が言い出し、村役人が寄り合いしたと聞いた(4月15日事件当日、二人は平助に、権四郎から聞いたと言っている)。
修験の身分で願人になる筈もないが、その噂は、春からあったようで、祈祷の御用が減っていたのはその噂のせいだ思った。
これでは、修験の身分も立ち難いので、庄屋の八郎兵衛に、平助問い質しのことを申し入れることにした。
3月23日
 〈権〉・・・・・・・・
修験二人(龍蔵院・正明院)が八郎兵衛方(庄屋)へ来て、自分たちが新開願人だと平助が言っているそうなので問い質してほしいと申し入れた。
 〈龍/正〉・・・・・・・
八郎兵衛は二人の申し入れを承諾し、早速、平助を問い質すと言った。
その夜、平助を呼んで問い質したが、はっきりしない言い方だったと聞いた。が、八郎兵衛からは、平助は留守だったので明日の夕方まで待ってほしいと連絡が来た。
(前段の平助呼出しが実際のことで、八郎兵衛の二人への回答は、引き延ばしの為の方便ではないか)
 〈権〉・・・・・・・・
二人の申し入れを受けた八郎兵衛から、権四郎に指示があった。
噂なので問い質してもはっきりしないだろうし、面倒なことになっても困るので、穏便に取り払うべきだと。
(八郎兵衛は、平助の態度から、事は面倒になると感じて、真相を知っている権四郎に仲介をさせたのではないか)
3月24日
 〈権〉・・・・・・・・
正明院方へ行き、噂なので面倒なことを言わずに、自分に預けてほしい、そうすれば、二人の身分も立つようにするから、よく考えてほしいと申し入れた。
正明院は承知したが、龍蔵院に相談してから答えると言った。
 〈龍/正〉・・・・・・・
正明院方へ権四郎が来て、平助の一件は自分に預けてほしいと言った。
しかし、その噂は平助が言い出したと聞いているので、平助と一度もやり取りしないで、権四郎に預けるわけにはいかないと断った。
3月25日
 〈権〉・・・・・・・・
正明院は、権四郎に、龍蔵院が不承知で、二人とも納得はできていないと言った。
このことを、権四郎は、八郎兵衛に伝えたら、もう一晩、交渉して話をつけるように指示があった。
3月26日
 〈龍/正〉・・・・・・・
権四郎が龍蔵院方へ来たので、同じように答えた。
 〈権〉・・・・・・・・
権四郎が龍蔵院方へ行き、八郎兵衛の意向を伝え、穏便に済ませてほしいので、自分に預けてほしいと、いろいろ説得したが、龍蔵院は納得しなかった。
3月27日
 〈龍/正〉・・・・・・・
権四郎が正明院方へ来て、自分の手には負えないので、もはや立ち入ることはできないと言った。
権四郎が中に入って、この問題に対処してくれると思っていたので、自分たちは八郎兵衛方へ行き、これまでのことを話し、平助を問い質してくれるよう申し入れた。
すると、八郎兵衛から、家内に病人がいるので、委細は権四郎に任せたからそちらに行くようにと言われた。
それで、権四郎方へ行き、そのことを話したら、一両日待ってほしいというので、それに任せたままにしておいた。
 〈権〉・・・・・・・・
権四郎は、龍蔵院と正明院に、もはや自分の手には負えないと話した。
すると、二人が権四郎方へ来て言うには、平助問い質しのことを八郎兵衛に申し入れたのだが、八郎兵衛の妻が重病なので、権四郎に申し入れるのだと言い、平助を立ち会わせて問い質してくれるようにと言った。
八郎兵衛からは何も言われてなかったが、権四郎は、八郎兵衛の妻が病死してしまったので、もう一両日待ってくれるよう二人に使いを出そうと考えた。
しかし、自分が立ち会って平助を問い質したところで、事の真相が分かる筈もないので、もはやほかにやりようはないと考え直した。
 (権四郎は、板挟みで、言った言わないはうやむやにしたかったのでは)
4月2日
 〈権〉・・・・・・・・
それで、権四郎は、龍蔵院と正明院に、平助立ち会い問い質しのことを断った。
その後、二人とのやりとりはやめた。
平助が、龍蔵院と正明院が新開願人だと言ったことは、自分(権四郎)は聞いていない。(これは、責任回避か)
 〈龍/正〉・・・・・・・
権四郎は、自分の手に負いかねると断ってきた。
4月4日
 〈龍/正〉・・・・・・・
権四郎方へ行き、そのように言われては村役人はいないと同じ事になるので、どうか平助を問い質してくれるように申し入れたら、権四郎は承知した。
4月6日
 〈龍/正〉・・・・・・・
権四郎は、またしても断りに来て、この上はもう勝手にしてほしいと言った。
4月8日
 〈龍/正〉・・・・・・・
このまま放置されては、こちらの身分が立たないので、仕方なく、平助方へ行き、自分たちが新開願人だと平助が言い出したそうだが、それは根拠のないことなので、村役人の寄り合いを開いて、自分たちが願人ではないことを話してほしい、そうすれば自分たちの思いも晴れるので、と頼んだら、平助は承知した。
4月9日
 〈龍/正〉・・・・・・・
平助が正明院方にきて、そんなことを言った覚えはないから、寄り合いはできないとと言うので、八郎兵衛と権四郎が証人だと言い聞かせたら、それなら寄り合いをすると言った。
 (平助の態度が二転三転するのは、迷いからか)
その後は、すっかり平助の言葉に任せきりにしていた。願人ではないという証明を代官所にお願いするのも恐縮で、村の人々にさえ分かってもらえれば身分が立つのだからと思っていた。
4月15日
 〈平〉・・・・・・・・
朝四ツ時頃、龍蔵院と正明院が来て、言ったこと
・ 二人が、杉林の新開願人だと、平助が言いふらした。
・ なぜ、根拠もないことを言いふらしたのか。
・ そのような噂が流れては修験の身分に差し障り、迷惑だ。
平助が、答えたこと
・ 杉林新開の噂は聞いていたが、二人が願人だなどとは聞い
  たこともない。
・ 自分が、それを言い出したこともない。
二人の言い分
・ 平助の同役権四郎から聞いたことなので、権四郎を読ん
  で確かめよ。
 (ここで、二人は権四郎から聞いたと言う)
平助の言い分
・ 自分には一向に覚えがないので、確かめたければ、二人の
  方で権四郎を連れてくるべきだ。
そうしたら、龍蔵院が脇にあったタバコ盆を平助に投げつけ、額月代の内に傷を負わせた。
 〈龍/正〉・・・・・・・
4月15日朝五ツ半時過ぎ
二人で、平助方へ行き、寄り合いのことを催促したら、自分は何も言っていないので寄り合いの必要はないと言い、悪口雑言があった。
修験の身分ではあるが、あまりに不法で、カッとなった龍蔵院が脇にあったタバコ盆を平助に打ち付け、傷を負わせた。
 〈権〉・・・・・・・・
龍蔵院と正明院が平助に手傷を負わせたと知らせが来て、行って見た。
平助の額月代の傷を確認して、二人は帰らせ、平助は医師に手当させた。
4月16日
代官所手代玉木儀四郎が取調べに来た。
龍蔵院と正明院は、笹岡町と本寺に所預けとなった。
 (この時すでに、笹岡町庄屋は年貢納米で大坂出張か)
4月18日
 代官所から勘定奉行へ、事件の報告
4月(末頃)
 上内竹村庄屋遠藤和三郎扱いにより和解・済口證文
5月(初め)
 代官所から勘定奉行へ、示談の伺い書提出
 ページのTOPへもどる
1ページめ
原文
釈文
読下し
意訳
 3ページめ  2ページめ 
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
5ページめ   4ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
7 ページめ  6ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 9ページめ 8 ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
11ページめ  10ページめ 
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 13ページめ  12ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
15ページめ  14ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 17ページめ  16ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
19ページめ   18ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
21ページめ   20ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 23ページめ 22ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 25ページめ  24ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
27ページめ   26ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 29ページめ  28ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 31ページめ  30ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 33ページめ  32ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 35ページめ  34ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 37ページめ  36ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 39ページめ  38ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 41ページめ  40ページめ
原文
釈文 
読下し 
意訳 
43ページめ   42ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 45ページめ  44ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
47ページめ   46ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 48ページめ
原文 
釈文 
読下し 
意訳 
 ページのTOPへ