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平田甲太郎家文書<上関村庄屋利惣次病死による後役争い>
 文書① 内熟済口證文 享和2(1802)年 文書№514
 文書② 内取極證文   享和2(1802)年 文書№626
 広報せきかわ 2023年8月1日号掲載 
<解説>

ア 事件の概要
 上関村庄屋利惣次が享和2(1802)年7月に病死。その後役庄屋を誰にするかで、争いが起きたようです。
 庄屋役は村の話合いで人選し、百姓の総意として代官所へ任命を願い出ることになっています。ところが、利惣次の倅冨之助を押す勢力と百姓代の儀右衛門を押す勢力があって、話がまとまらない。
 文書①の末尾、記名連印のところを見ると、「訴訟人茂兵衛・同断佐藤太」、「相手方平左衛門・同断儀右衛門」となっています。茂兵衛と佐藤太が、後役庄屋が決まらないのは平左衛門と儀右衛門のせいだと水原代官所に訴えたのでしょう。
 佐藤太は上関村組頭傳蔵の倅で、傳蔵が病気の為の代理。平左衛門は同じく組頭平吉が病気の為の代理(文書①では平吉が病気とは書いてないが、文書②には病気とある)。
 つまり、冨之助派は茂兵衛と傳蔵、儀右衛門派は当人と平吉ということになります。傳蔵も平吉も庄屋に次ぐ役の組頭。その二人の意見が分かれて、4ヶ月経っても後役が決まらないという異様な事態です。
 では、記名連印の最初に並んだ6人は何かというと、五人組とその組頭とあります。当時は、何事も五人組の連帯責任で行われていました。だから、訴訟側と相手側の五人組が、合意成立の証人として名を連ねたのだと思われます。

イ 扱人の介入
 庄屋は、代官所の大事な末端行政機関です。それが未定では放置できません。両派の対立で、埒が明かないと見た代官所は扱人を介入させ、和解合意するよう働きかけたのでしょう。
 扱人は、上内竹村庄屋(現新発田市上内竹)遠藤和三郎・七嶋新田庄屋(現阿賀野市七島)彦右衛門・小見村庄屋平太郎。この3人が仲裁して合意が成立し、この二文書が作成されました。文書①の前段には次のように書かれています。

「上関村の村内の者が、庄屋後役のことで争っていて代官所の取り調べを受けている。取調べの結果次第では大変なことになるかもしれない。それに、第一、代官所に御苦労を掛けるなど恐れ多い。だから、自分たちが仲介して話合いをまとめるので、取り調べは猶予してほしいと代官所に願い出たところ、代官所の深慮で私たちの願い出を聞いていただいた。それで、両派の者へ詳しく言って聞かせて、この度、和解合意することができた。」
 形式的建前的な書き方です。実際は、何とか収めてくれと代官所から頼まれたのでしょう。3人は、他の平田家文書の中にも扱人として登場している水原代官所管内の大物庄屋。人望もあって、代官所からも百姓衆からも、頼りにされていた人物だったのでしょう。

 それと、推測ですが、二人の組頭・傳蔵と平吉の対立が深くて、この二人がいては合意が難しいと見た周囲が、二人を外すために病気を理由にして、それぞれ代理を出席させるよう根回ししたのかもしれません。対立する当事者2人が同時に病気になると言うのもヘンです。それに文書①で平吉の病気を書いてないのも、その辺りの事情が匂います。合意への第一障害を取り除こうと、扱人の計らいがあったような気がします。


ウ 合意の内容
(ア) 文書①「内熟済口證文」の合意事項
 合意事項は6項目列記されていて、記載順に概略次のような文意になります。

(1) 上関村庄屋は落合村も兼ねている。その庄屋は冨之助とし、儀右衛門は立会庄屋とする。この両人で話し合って役を務めること。諸帳面・諸文書は、冨之助宅に置き、代官所の御用も冨之助宅で行うこと。
(2) 
これまで儀右衛門が務めてきた百姓代の役は、村方百姓が話し合った上で、茂兵衛が務めること。
(3) 税金や諸割当てなどは、冨之助、儀右衛門、組頭2名、百姓代が、立ち合いの上で決めること。
(4) 利惣次が庄屋在勤中の諸会計は、扱人が立ち会って清算し過不足のやり取りは済ませたので、以後、これまでの会計については双方ともどうこう言わないこと。
(5) 上関村は奥羽国境で、商人が売買の荷物を持って通行する際の番所通行切手は、上関村で発行して判銭(手数料)を取ってきたが、この役は、これまで通り冨之助が行い、儀右衛門は手を出さないこと。
(6) 水原代官所への、冨之助と儀右衛門の任命願いは、帰村して、村中で連判状を作成し提出すること。(文中に「帰村の上」とあるので、合意文書は、記名の13人が水原の代官所内かその近くの会場で作成したことが分かる。)

※ 儀右衛門が就くことになった立会庄屋は、ネット検索では、江戸時代の文書にたまに出てくるようです。が、その意味内容ははっきりしません。
 庄屋の上に位置する役か、逆に下に位置する役か。上役であれば複数の村を束ねる大庄屋が該当するが、この時代の上関村を含む幕府領では大庄屋制度はとっていない。下役であれば、副庄屋とか庄屋代理か。(因みに生成AIのMicrosoftBingは上役の説、チャットGPTは下役の説を回答している。しかし、いずれも典拠がはっきりしないので確認できない。)
 ①と②の二文書を合わせた感じでは、相談役か監査役のような役目のように思われます。儀右衛門を名誉職に祭り上げて、問題の解決を図ったように読み取れます。

(イ) 文書②「内取極證文」の合意事項
 文書①で庄屋役が決まったので、今後の細かいことについての取り決め證文です。

(1) 
春秋神事の神主宿は、冨之助と儀右衛門宅で交互に務めること。
(2) 
庄屋給米(給与)は、冨之助の分から儀右衛門へ分配するのが筋だが、この分は儀右衛門から富之助への与荷(よない)として、儀右衛門は受け取らないこと。(与荷とは、余分の手当の意味で、今で言えばサービスのような感じでしょうか。)
(3)
 庄屋引高(村が負担する庄屋経費)の15石は、これも冨之助から儀右衛門へ分配することになるが、これ又(給米同様)、富之助への与荷として、儀右衛門は受け取らないこと。
(4) 儀右衛門は立会庄屋になるのだから、冨之助同様に諸人足の負担はしなくてよいのだが、高持百姓(年貢を負担する本百姓)なのだから、村方へ与荷として、これまで通りに(ほかの本百姓たちと同様に)負担すること。とはいえ、儀右衛門の方にもし人手不足等特別に理由がある場合は、村方で話合い差支えないようにすること。
(5)
 大高持ちの百姓(田を多く持っている者=多額納税者)は、今後、庄屋・組頭・百姓代の村役に就けるようにすること。

 (2)(3)で、給米や経費を庄屋である富之助の分から儀右衛門に分配するということは、文書①の項で書いたチャットGPTの回答のように、立会庄屋が庄屋の下の補助的立場であることを示しているようです。
 ただし、儀右衛門がそれを受け取らず、いわばサービスのように冨之助に与えること、また(4)でも同様に、村へのサービス分として本来受けなくてもよい人足を負担することなどからすると、儀右衛門の立会庄屋は、単に冨之助の下の立場というのではなく、相談役的な名誉職としての位置づけのように読み取れます。

エ 合意内容の中で気になることについての考察(推察)

 本来この争いの解決は、文書①の(1)と(3)の合意があれば済むはずです。
 (6)は、早く任命したい代官所の意向であえて盛り込んだと理解できます。
 しかし、(2)(4)(5)は異質のような気がします。なぜわざわざ盛り込んだのでしょうか。もちろん、その必要があったからでしょう。それはなぜかです。

(ア) まず、(4)(5)の合意について
 (4)で、「利惣次在任中の会計については双方申分無いこと」と確認したのは、裏を返せば、このことが後役決定でもめた要因だったのではないかと思われます。
 儀右衛門派は明朗会計を求め、扱人が会計に立ち入り監査、過不足を清算した。それによって納得ができたので、合意が成立したということではないでしょうか。その上で、今後の混乱を避けるために、(5)で「番所切手発行手数料については、儀右衛門は手を出さないこと」とくぎを刺したのでしょう。
 扱人は核心部分にきちんと介入し、清算を明らかにしたからこそ仲裁ができたのです。それができるほどの実力者たちということになるのでしょう。


(イ) 次に、(2)の合意について
 儀右衛門が立会庄屋になれば空席となる百姓代は、後で村へ帰ってから相談して決めればよいだけです。それなのに、この合意文書に、しかも、合意の2番目として、茂兵衛を百姓代にすることをわざわざ盛り込む意味は、何でしょう。
 そのなぞを解くカギは、文書②の(5)にあるように思われます。
 それを読むと、これまで村方三役(庄屋・組頭・百姓代)に就けるのは高持(本百姓)の中でも、決まった少数の家だけだったようです。それを改めて、これ以後は、高持の大きい百姓は、だれでも村方三役に就けるようにすべきだと確認したのが、(5)の意味でしょう。
 茂兵衛を百姓代にするという確認は、このことに関係しているのではないでしょうか。つまり、庄屋後役争いの背景に、村方三役に就ける家が少数に固定していることへの不満があったと思われるのです。その不満は両派どちらにも交差していたのでしょう。それを解消して、巾広く冨之助の就任を受け入れてもらうために盛り込まれたのが文書①の(2)と文書②の(5)だと考えられます。
 扱人というのは、そこまで事情を察して配慮するからこそ、頼りにされるのでしょう。

 たった二通の文書ですが、当時の上関村の状況がいろいろ推測されて、面白い文書です。

① 内熟済口證文 享和2(1802)年 文書№514
原文 冒頭
釈文 冒頭
読下し 冒頭
原文 つづき
釈文 つづき 
よく見出し つづき
原文 つづき
釈文 つづき
 読下し つづき
原文 末尾
釈文 末尾
読下し 末尾
② 内取極證文   享和2(1802)年 文書№626
原文 前半
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読下し 前半
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