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平田甲太郎家文書<上関村庄屋利惣次病死による後役争い>
 ① 内熟済口證文 享和2(1802)年 文書№514
 ② 内取極證文   享和2(1802)年 文書№626

<文書の解説>

 文書№514「内熟済口證文」

 享和2(1802)年のこと。上関村庄屋利惣次が7月に病死すると、その後役庄屋を誰が勤めるかで、争いが起きたようです。利惣次の倅留之助を押す勢力と儀右衛門を押す勢力があって、水原代官所に訴え出る騒ぎになっています。

 そこで、上内竹村庄屋(現新発田市上内竹)・七嶋新田庄屋(現阿賀野市七島か)と小見村庄屋の3人が扱人(仲裁人)になって、合意にこぎつけたのがこの文書です。


<合意内容>

() 上関村と落合村兼帯の庄屋は留之助。儀右衛門は立会庄屋とする。この両人で話し合って役を務めること。諸帳面・諸文書は、留之助宅に置き、代官所の御用も留之助宅で行うこと

() これまで儀右衛門が務めてきた百姓代の役は、村方百姓が話し合った結果、茂兵衛が務めること

() 年貢や割り当て金などは、留之助、儀右衛門、組頭2名、百姓代が、立ち合いの上で決めること

() 利惣次庄屋役中の諸勘定会計は、扱人が立ち会って清算し過不足のやり取りは済ませたので、以後、これまでの会計については双方ともどうこう言わないこと

() 上関村は奥羽国境で、商人が売買の荷物を持って通行する際の番所切手は、上関村で発行して判銭(手数料)を取ってきたが、この役は、これまで通り留之介が行い、儀右衛門は手を出さないこと

() 水原代官所への、留之助と儀右衛門の任命願いは、帰村して、村中で連判状を作成し提出すること

 文中「帰村の上」とあるので、この文書は、記名の13人が代官所内かその近くの会場で作成したもののようです。庄屋等の村方三役は、各村からの推薦で代官所が任命していました。代官所行政を執行する重要な役職ですので、未定では代官所も困ったでしょう。扱人の選定、示談合意は代官所の主導です。

 儀右衛門が着いた立会庄屋は、今でいえば監査役や相談役みたいなものでしょうか。ネットで検索すると、江戸時代の文書にはまま出てくるようですが、役割や意味ははっきりしません。


 文書№626「内取極證文」

で庄屋役が決まったので、今後の細かいことについての取り決め證文です。


() 春秋神事の神主宿は、留之助と儀右衛門宅で交互に務めること

() 庄屋給米(給料)は、留之助の分から儀右衛門へ分配することになるが、割り増し分を請求してはならないこと

() 庄屋引高(経費)は15石、これも留之助から儀右衛門へ分配するが、これも割り増し分の請求はしないこと

() 儀右衛門は立会庄屋になったのだから、留之助同様に諸人足の負担はしなくてよいのだが、田を多くもっているのだから、村方への割り増し分として、これまで通りに負担すること。とはいえ、儀右衛門の方にもし人不足等特別に理由がある場合は、村方で話合い差支えないようにすること

() 大高持ちの百姓(田を多く持っている者)は、今後、庄屋・組頭・百姓代の村役に着けるようにすること

 文中の「為与荷」は、「与荷として」としました。与荷は余荷(よない)、割り増し分とか余分の意味で使われるようで、その時々で意味が違ってくるのでしょう。()()は、余分に請求しないようにという意味でしょうか。()は、いってみればサービス分としてという意味のようです。

 留之介の「留」の字は、時々「冨」の字で書かれています。№514は明らかに「留」の字で、留之助としましたが、№626は「冨」が混じり、多くなります。別の文書№710の署名も「富之助」となっています。富之助が正しくて、留之助ではないのかもしれません。この二文書でも、儀兵衛が儀平だったりしています。「とみ」も「とめ」も発音で区別できずに字も混在したのかもしれません。江戸時代はおおらかなのです。

① 内熟済口證文 享和2(1802)年 文書№514
釈文
読下し
② 内取極證文   享和2(1802)年 文書№626
釈文
読下し
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