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平田甲太郎家文書<銅山試掘に当っての取り決め証文安政2(1855)年 文書№697
 広報せきかわ2023年7月1日号 掲載
<文書の解説>

小見・上野山・滝原三ヶ村入会山の湯ノ沢という所に銅山の脈がありそうだということで、試験掘りの工事を行うことになった。その際、鉱山関係者が三ヶ村に提出した取り決め約定の証文である。
歴史館の平田甲太郎家文書の中では、鉱山に関する文書は珍しい。


三ヶ村の承諾を得て、先ずは現場を平らに均して飯場小屋を建てることにし、その際、三ヶ村へ金15両を払うことで合意した。もし、試掘の結果、銅が出ることになって本格採掘に至れば、儲けの10%は三ヶ村の取り分にすることで、規定書を取交したとある。
さて、結果どうなったか?今のところ関係する文書が見つかってなく、定かではない。


1 文書中の用語について

差出人の5名は鉱山の専門家のようで、鉱山用語なのかもしれないが難解な語句が多く、ネットで調べてもヒットしないものも多い。それで、ネット情報を基に、次にように推測してみた。

(3行目)「銅山樋見當り」について
鉱脈探しは沢筋を歩き、崖などから染み出す水や生える植物などを手掛かりにするらしい。露頭の地層や岩の割れ目などに樋を差し込んで、流れ出る水を何らかの方法で分析し、銅の成分を発見したことを言うのではないだろうか。

(3行目)「銅山諸入要用之品荷分ヶ」について
必要と言う意味での要用という言い方はあるようだ。「諸入り要用の品」と読むのだろうか。荷分けは一般用語で、荷物の分類整理。

(4行目)「問掘り」について
鉱山採掘は一般に試験採掘を行うというので、その意味にとった。

(4行目)「願立」について
神仏への願いの意にも読め、それが最初の行事なのかもしれない。しかし、領主である幕府つまりは代官所への願い出のことともとれる。三ヶ村の入会山(共同利用地)とはいえ、採掘には領主の許可が必要だろう。農地開発なら願人とか願出とかいうところを鉱山では願立と言うのかもしれない。

(10行目)「盛山」について
音読みか、訓読みか不明だが、盛りという意味で、本格的な採掘で銅がでるようになることをこのような用語で言うのかもしれない。

(10行目)「設ヶ」について
「儲け」の当て字とも思えるが、古文辞典では「設け」と「儲け」は同義語のように扱っているものもある。

差出人の肩書
「福田所左衛門支配所」について・・・福田所左衛門は当時の水原代官
「山見立人」について・・・文字通り、山を見て選び定める人であろう。
「山崎」について・・・鉱脈の発見者を「山先」あるいは「山崎」と言ったらしい。佐渡相川町には、金山発見者にその名を与え、そこから山先町という地名があったとのこと。
「山師」について・・・鉱山の発掘事業者であり経営者。
蔵光(幕領)は現新発田市、三日市御領(藩)は現新発田市上館に藩庁、村松御領(藩)は現五泉市村松に藩庁があった。
幕府領は天領とも言い公領、大名や旗本の領地は私領で、それを御領と言っていたことが分かる。なお、江戸時代に「藩」という用語はない。

2 文書の時代背景

この文書の安政2年といえば、13年後には明治維新となる幕末動乱期。大砲、造船、何かにつけ鉄や銅などの鉱物資源が必要とされた時期。
そのために銅山の開発も奨励されていたのかもしれない。しかし、当時の大砲などは青銅製から鉄製へ変換が進んでいたから、必ずしも武器等のための銅山開発とは限らないかもしれない。
それよりも、江戸時代初期から、我が国では、長崎で銅の輸出が盛んにおこなわれ、一時は世界トップクラスだったという。時代が進むと銅の産出が衰え輸出量も減少したとのこと。明治になって、改めて銅山の新開発(足尾、別子等)が行われている。
安政2年の頃には、列強から開国を迫られた幕府は、通商を逃れるべく和親条約で切り抜けていた。しかし、いずれ通商条約を結ばざるを得なくなることも見据え、有力輸出品の銅の増産を企図していたのではないだろうか。
ただし、実際には、生糸の輸出が圧倒的で、次が茶。銅はそれほどの輸出量にはならなかったようである。

3 湯ノ沢について

三ヶ村入会山の湯ノ沢とはどこかと、関川村発行「山岳渓流地図」で三ヶ村の近くを探したが、該当する地名や沢はない。
他の文書(№531)から、荒川と大石川の出合にあった中島にもこの三ヶ村の入会地があったことが分かっているので、どこか離れたところに湯ノ沢があった可能性もあるが、今のところ不明。

※ このとき、水原代官所役人が小見村庄屋平太郎の案内で事前見分しています。
 その際の関係文書は⇒こちら
 
原文
釈文
読下し
意訳
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