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平田甲太郎家文書<スクーネル船乗廻し御用願 安政3(1856)年 文書№105
 広報せきかわ2023年12月1日号掲載
<解説>

1 スクーネル船について

スクーネル船とは、2本以上のマストを持つ西洋式帆船のことをいう。
安政元(1854)年のこと、来日していたロシア使節プチャーチンの乗船(軍艦)が沈没した。下田湾に停泊中、安政元年大地震による津波被害に遭い大破、漂流して相模湾内で沈没したという。
プチャーチンの使節団には500人もの随行員・乗組員がいて、造船の技術者も連れていた。それで、プチャーチンは、帰国のための船の新造を幕府に願い出、許可された。その船がスクーネル型の帆船だった。
幕府は、日本人船大工を造船作業に参加させた。それまで日本にはなかった西洋式帆船の建造技術を入手するチャンスと見たのだろう。

プチャーチンの帰国船完成後、幕府の目論見通り、日本人船大工は、続々とスクーネル船を建造する。その中の一艘を函館奉行所にも配置したという。
もっとも、函館奉行所は、それとは別に、独自のルートで技術者に西洋式帆船を建造させていたという。北海道と本州を行き来する交通手段として、西洋式帆船には、北前船ともいわれた一本帆柱の和船にはない優位性があった。波を切って進むスピードもあったし、何よりも、逆風でも帆の向きの操作で進むことができる。

この文書は、初建造の2年後のもの。函館奉行所が管理する同型船1艘について、運航の委託を願い出たものである。
初めて知った西洋型帆船を造ってしまうのもすごいが、それを乗り回して、海運業を営もうとする人たちがいるのだから、当時の造船、操船の習得力と技術力には驚かされる。

2 この文書の概要
6枚の紙を折って綴り合せた冊子で、次に示す3通の文書が写されている。
文書① 函館奉行所へ スクーネル船運用の願
文書② 運用した際の航路別の運賃見積と必要経費
文書③ 函館奉行所から 願い出人への申し渡し書

小見村庄屋平太郎は、水原代官所管内蒲原郡岩船郡の年貢米納米の惣代庄屋の一人。現代風に分かり易く言ってみれば、納税組合の幹部とでも言えばいいだろうか。
惣代庄屋は、当番で新潟に滞在することもあった。それで、そんな折に、新潟奉行所にあったこの文書の写しを写させてもらったのではないだろうか。
こうやって時代の最新情勢をはじめ、他地域の様々な出来事や情報を把握しておいて、自地域の人々に伝えるのもリーダーとしての庄屋の大きな役目だったのだろう。

3 各文書の内容
文書① 函館奉行所へ スクーネル船運用の願
願い出人は、昇平丸船頭の多左衛門と品川の裏河岸に住む平作。
多左衛門は、文書③に塩飽(しわく)島の船乗りとあり、文書①には、塩飽島の船乗りたちに船の運航をさせてほしいとある。
平作は品川の裏河岸家持とあり、家持は、町に家屋敷を構え納税諸役の義務を果たしている町人。
船の運用には元手の資金が必要になるが、奉行所は出さない。だから、平作はそれを提供する資本家なのではないだろうか。それに、船の運航には、積荷の荷主を集める必要がある。また、文書②に、品川に積荷を下ろすことになっている。これらからすると、平作は、積荷を手配したり、船から下ろしたりする荷捌きの商売人なのかもしれない。


船の運用に当たっては、公用荷は無料、その代わり商人荷で稼ぎ、収益金を奉行所に上納する。
遠海の航行練習に努めるとあるので、塩飽島の船乗りたちが、初めてのスクーネル船操船を練習しながら運航するのだろう。
塩飽島を調べると、瀬戸内海の塩飽諸島はもともと水軍の地で、塩飽衆は操船や造船にたけた人々であるという。

文書② 運用した際の航路別の運賃見積と必要経費
以前に大よその見積もりを出しておいたが、この度、試乗した上で、確かな見積もりを出した。収益金は以前より多く上納できる見込みなので、何卒、自分たちに運用させてほしいとの願で、収支見積りを次のように提出している。

ア 運賃見積
1艘で400石積みと見積り
   ( )内は、100石当りの単価で、その4倍の運賃収入を見込んでいる。
一番上下
 エトロフから、鮭を積んで新潟まで運ぶ  運賃128両 (100石につき32両)
 新潟から、米・酒・塗物・木綿外を函館まで  運賃 40両 ( 〃 10両)
二番上下
 カラフトから、〆粕(魚油の搾りかす)を大坂まで 運賃140両( 〃 35両)
 大坂から、古着小間物木綿油酒塩外を函館まで 運賃40両( 〃 10両)
三番上下
 小樽から、ニシン・カズノコを江戸まで     運賃132両( 〃 33両)
 江戸から、木綿古着小間物油樽外を函館まで  運賃 40両( 〃 10両)
四番上下
 蝦夷地から、塩切鮭を江戸付近へ         運賃120両( 〃30両)

総収入見積り 640両

イ 必要経費(全て1年分)
 ①船頭給金 30両
 ②水主13人分給金 195両
 ③糧米 47両と銀3匁
 ④塩味噌外諸入用 60両
 ⑤積下しとはしけ 20両
 ⑥道具類 100両

総支出見積り 432両と銀3匁
 ※ ①~⑥の計は452両と銀3匁になるので、原文は五と三の写し間違いか?

ウ 差引   177両3分と銀3匁
 ※ しかし、アとイの差は、この数字にはならない。                                 
文書③に上納金は177両余とあるので、ウの金額はこの通りと思われる。
アとイの差とウの金額の違いは10両弱。もしかすると、これは、資金を提供した平作の取り分なのかもしれない。
文書③に、必要経費は差し当たり自分持ちで出しておいて、収益金から差引くとあるから、事前の資金がどうしても必要になる。
とすれば、差額はあえて表に出さないでおいて、暗黙の了解で資金提供者の利益分としたのだろうか。

文書③ 函館奉行所から 願い出人への申し渡し書
願い出の者たちへ、スクーネル船一艘の運用を申し付ける。
公用荷は無料、年々の収益金は170両余ずつ函館奉行所へ上納すること。
碇綱(いかりづな)その他必要な分は、差し当たり、自分持ちで用意し、収益金から差引く。
支配人を同乗させるから、そのことを心得るように。
船を大切に扱い、損傷がある場合は、検査を受けて早々に修理すること。
商人荷の運送は非法なことをせず正直に行うよう、水主をよく取り締まること。

※ 文書②の運航計画は、江戸へ着いて終わっている。文書③では、年々御益金170両余づつとある。とすると、運航は1年限りではなく、翌年は江戸から函館へ戻ることから始まるのかもしれない。

原文
 
釈文
読下し
 
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