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平田甲太郎家文書<享保9(1724)年 御侍衆御通行の越度> 文書№642
この年の秋、御検見様に対して不敬の振る舞いがあった。御検見様は、秋の作柄を見て年貢高を決める役人。農民の側に何か不満でもあったのだろうか。理由はどうあれ、武士への不敬は放置できない。江戸時代は、武士の権威と武力で社会の安定が保たれていた。だから、武士へ敬意を払うのは当然のこと。それが欠けたら安定した社会の存続にかかわる。というわけで、即座に厳重注意の通達が出され、それを受けて、領内村々役人一同が念書を認めました。不敬の当事者だけでなく、自分たち村役人の罪でもあるから、今後、村人への指導をしっかり行いますと。
この時の領主は、館林藩で代官所は海老江にありました。「関川村史」には、享保11年館林藩時代の小見組は22ヶ村とあります。その内、落合と打上を除く20ヶ村の村役人が記名押印しています。
宛名はありませんが、「証文」となっていますから宛先はあるはずです。多分、最終的には、小見組大庄屋平太郎殿と書いて完成させるつもりだったのではないでしょうか。
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