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平田甲太郎家文書<寛政2(1790)年 所払い回避の反省文> 文書№691
<解説>
 この文書は分かりやすく、内容は広報紙に掲載した通りなので、特別の解説は不要と思います。ただ、平内新村の市三郎が、なぜ小見村の平太郎・甲太郎父子宛にこの文書を出したのか、その背景について解説します。(以下は、主に平田家系図「奥州会津平田氏系譜」平田大六氏蔵に依っています。)

1 文書の宛先・平太郎家について
 小見村の平田平太郎家は、上杉景勝が徳川家康に敗れて米沢領主となった後、上杉家の禄(給与)を離れ小見に土着した平田平内から始まっています。平内は、水利の悪い荒川右岸段丘上の原野の開拓に専念し、平内新村、滝原村を開いています。
 平内が小見に土着するについては、祖父・平田常範に由縁がありました。常範は、関ケ原合戦(1600年)の前年、会津領主の景勝が、旧領の越後各地に騒乱を起こすことを企図した「越後一揆」の指揮官の一人として下越後へ進出し、小見村に駐屯します。
 しかし、関ケ原で家康が勝者となって越後騒乱の企ては失敗、常範は米沢へ引き揚げるのですが、下越後進出の際に多くの配下(一族郎党)を連れてきていて、それらの中には、米沢へ戻らずに現地に残った人たちもいます。平内が小見村に土着するについては、そのような地縁血縁があったからと思われます。これら一族郎党の人々が、平内の新田開発に大いに与力したことでしょう。
 以来、平内の子孫は代々平太郎を名乗り、一族は、荒川右岸の山間部や川原荒地の新田開発に力を注ぎます。(平田甲太郎家文書には、新田開発関係の文書も多数あります。)
 なお、平田家では、家の始祖を会津領主芦名家四宿老の一人で鑑ケ城(福島県塩川町に同名の城跡あり)の城主・平田盛範を初代としており、平内は平田家六代目になります。
 平内の次の7代平太郎(この人から平太郎名が世襲されます)は、滝原、辰田新、上野山の新田開発を行い、寛文7(1667)年に、初めて小見組大庄屋になります。小見組は、女川組と呼ばれた時代もあり、女川地区と川北地区を合わせた旧女川村一帯で、大庄屋はそこを管轄する行政の代表者です。
 その後、幕府領内では大庄屋制度は廃止されますが、大名の預り領になったときには復活しています。また、幕府領の大庄屋は表向き廃止になっても、その地域では依然大庄屋としてみなされていたようで、様々な場面で地域の代表者、大物庄屋として活躍しています。
 因みに、前村長平田大六氏の家は、平内の弟八兵衛(上杉家臣)の子十兵衛が父の死後、小見村に移住したのが始りとされています。つまり7代平太郎の従弟ということになります。

2 文書の主と宛先との関係について
 №691の文書の宛先になっている平太郎は、平内から数えて5代後の11代当主で、この文書の3年後に死去します。ですから、この文書の頃の実質的な当主は、その子甲太郎が務めていて、宛先は二人連名にしたのでしょう。甲太郎が12代平太郎を継ぎます(この人物が村上藩を相手に「田麦堀割訴訟大騒動」を起こした当事者です。)
 平内新の市三郎家は、平内の子(7代平太郎の弟)市三郎が始祖です。つまり、平内は開発した村を平内新田村と名づけ、そこに子の市三郎を住まわせて、代々、新田村の管理代表にしたということになるでしょう。
 文書の宛名、平太郎・甲太郎に肩書がないのは、公的立場ではなく親戚代表・総本家に対して誓約書を差出したからということになります。

3 平田一族の帰農について
 上杉家は会津から米沢に移され領地激減、それでも家臣を減らさなかったと美談に言われていますが、平田一族のように、藩の窮状下、自ら禄を返上して百姓となり新天地を切り開こうとした家臣も少なくなかったのではないでしょうか。その辺りのことは、小見の平田一族を例に、米沢市の上杉家研究でも、もっとアピールしてもらいたいものだと思っています。
 百姓になるということは、相当の覚悟が必要だったと思うからです。
 たとえ禄を離れて浪人になったとしても、武士身分はそのままです。他家に仕官(再就職)の望みもあります。しかし、百姓になるということは、武士の身分を捨てること。当時の身分格差は絶大です。自ら身分を落とし、刀を捨て鍬に持ち替え、条件の悪い土地の開拓の先頭に立つ。開拓者たちは、そこに、身分に代えがたい夢やロマンを持ったのかもしれません。
 集団を束ね荒地を開発する。これは元々、開発領主たる武士の本業でした。戦国末期、城下に住むようになって兵農分離が進みます。平田一族の帰農は、武士本来の姿への先祖返りだったのかもしれません。平田家文書に残る新田開発関係の文書を読むにつれ、そう思えてなりません。
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