<文書①~2025年8月号~の解説>
文書①は、大草太郎左衛門からの通達文で、内容は前段と後段に分かれる。
大草はおそらく水原代官で、前段の文章は幕府からの通達、後段は代官の添書きということになる。この文書は紙で残されているが、実際は、高札に掲げられた文であることが、文書②の記述で分かる。
村人に示すのであるから分かり易い文章であるが、4行目の「捕違い苦しからず」と7行目の「野山人数」の二ヶ所は、意味が分かりにくい。
「捕違い」は「捕らえ違い」か「捕り違い」か。捕らえ違いと読めば、人違いの逮捕つまり誤認逮捕を容認していることになるのだが、前後の文脈で読めば、管轄取り違いの逮捕を容認したようにも読み取れる。これも文書②で分かるのだが、あえて両方の意味にとれるように書き換えたのではないだろうか。
「野山人数」は、前後の文章につながらない。おそらく、「時々野山人数で見廻り」などと読ませようとしたのだろう。文書②を読むとここも意図的に改変している。
いずれにしろ、①の通達文が村人に示されたのだから、村広報紙の連載51(2025年8月号)では、まず、この通達文を紹介した。
しかし、興味を惹かれるのは、上述の二ヶ所で書き換えがなされたことにある。そのことについては、広報紙の連載52(2025年9月号)で紹介する予定にしている。
文書②が、代官所経由で届いた幕府からの通達「御触れ」の全文である。村々回覧の御触れを大急ぎで写し取ったのだろう。
①の通達を高札にして村人に示すことになった経緯が、この文書からよく分かる。
近年の野火の横行は看過できないと、老中水野出羽守から各奉行へ指示が下されたのがそもそもの始まりである。それで、幕府の通達を村々の高札場だけでなく要所要所に掲げるようにというのが通達の目的になっている。
そのため、高札に掲げる通達文(制札)が、後段に書かれているのである。面白いのは、これが「案」として示されている点である。
ということは、これを基にして、地域の事情で多少改変してもよいということになる。日本全国への通達であるから、幕府はこのように柔軟な姿勢をとっているのだろうか。
小見村に残された文書が、この「案」を二ヶ所で書き換えてある。それも地域の事情ということになるのかもしれない。
この御触れが代官から出されたのは、閏三月で、実際に小見村で掲示されたのは①で、四月になっている。この間にいろいろ検討がなされたのだろう。
文書③は、②の制札案の部分だけを写し取ったもの。
これをこのまま高札として掲示するか、それとも多少改変するか、庄屋は、いろいろ考えたのだろう。勿論、一人ではなく、地域の庄屋たちで相談したことは十分考えられる。そのために使ったのが③の案文だろう。
さて、二ヶ所の改変箇所について、庄屋衆はどう考えたか。それについては、広報紙9月号発行に合わせて解説をすることにする。
村の庄屋の裁量、腕の見せ所である。
<文書②~2025年9月号~の解説>
文書②は、文書①の元となった幕府からの通達文。
この二つの文書を比べると、2か所、異なっていて、庄屋の段階で書き替えられている。
その箇所と書き替えの意図を、広報紙の連載52(2025年9月号)で紹介した。
ここでは、文書②の内容について、少し細かく解説する。
この文書、「前書き」と「本文(制札案)」と「後書き」の三段で構成されている。
(1) 前書き・・・前半部と後半部に分かれる
前半は、今回の幕府お触れの趣旨が書かれていて、本文「制札案」の内容の概要になる。
後半は、このお触れが出されたいきさつが書かれている。
「水出羽守殿」とは、水野出羽守のことで、「野」を書き落としたわけではなく、このように略記するのが普通だったようだ。
この当時の水野出羽守とは、水野忠邦で、幕府老中4人の1人。文政13年は12月に天保に改元されるのだが、水野忠邦は「天保の改革」で歴史に登場する人物。
今回のお触れは、老中水野忠邦から奉行衆に言い渡されたものだと書いてある。奉行衆とは、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行、つまり幕府三奉行のこと。それぞれの所管地に高札を立てさせるようにとの指示。
地方の幕府領を所管するのは勘定奉行。なので、この文書②は勘定奉行所から代官所経由で小見村へ届いたことになる。関組への回状だっただろう。
(2) 本文
制札案となっている。制札とは高札のこと。「案」なので、地域の実情に応じて多少の改変は認められていたことになる。
それで、実際の高札文(文書①)は、書き替えられた。とはいえ、書き替えは最小限、しかも遠慮がちにという感じで行われている。
特に「見回り」の箇所など、もっとはっきり「村人交代で」などと書いてもよさそうなものだが、ずいぶんぼかしている感じがする。このあたりが、江戸時代の特徴なのかもしれない。はっきりさせず言外でと。腹芸みたいな。
(3) 後書き
原文には、大草太郎左衛門の押印があった。文書②は写しで、「印」とある。何者なのか、はっきりした史料は見つけていないが、ネットで調べると、各地の代官をやった幕府役人の家柄のようだ。
だから、きっとこの頃の水原代官だったのだろう。肩書も書かず、役所名も書かず、名前だけでわかるだろうと、そんな書き方。
代官所は勘定奉行所からの文書を各村へ流す、いわば通過機関。実際の行政はすべて、村で行われた。何しろ、水原代官所の役人は5人程度で、江戸勤務の者を入れても十数人という資料(税務大学校)がある。
水原代官所管内の石高は10万石、それを実際に統治しているのは、管内各村の庄屋衆。この人たちが実質的には代官所の要員ということになる。その経費は、すべて村で拠出。幕府は一銭も出さず。
それなのに、「もしいいかげんにしたら、村役人(庄屋たちのこと)ども、必ずお咎めを仰せつけらるべきものなり」などと居丈高。このあたりがいかにも江戸時代という感じ。
何しろ応仁の乱から400年も続いた乱世を鎮めた江戸幕府。それから二百数十年も泰平の世が続いて、文政13年。
農村には普段ほとんど武士はいない。農民による自治の世界。天変地異は別にして、農村の安定はひとえに幕府の武威のお陰。御上の重さを利用しない手はない。