歴史館の古文書WEB分館へ戻る | |||||
平田甲太郎家文書<下関村上関村街道宿場出入一件> | |||||
文化7年(1810年)8月 済口證文(和解書) (文書№670) | |||||
<この文書について> 越後米沢街道十三峠道の越後側起点に当たる現関川村には、江戸時代、宿場が、上関村、下関村、大島村の三ヶ所ありました。街道の荷送りは、宿場の人々にとって大きな収入源です。わずか5㎞の範囲に宿場が三つもあるのは、それだけ物流が盛んだったからでしょう。また、上関村の次の宿場は玉川村(山形県)で、その間には険しい峠(鷹ノ巣峠・榎峠・大里峠)があったことも、ここに複数の宿場が必要だった理由と考えられます。とは言え、三つも宿場があればそれだけ競合も激しくなります。 この文書は、上関村と下関村が街道の荷物の継送を巡って争った際の和解合意證文です。 上関村は十三峠道の起点を押さえる要衝で、中世には上関城が関所の役目をし、近世になっても陸・川の番所が置かれて街道の大きな役割を果たしていました。そのため、元々の宿場として特権意識があったようです。新興勢力の下関村がそれに異を唱えての訴訟です。 両村宿場の基本は、月半分づつの交代制で、武家の荷(公用荷継送は宿場の義務)は、当番でない方の宿場が継ぎ送りすることになっています。半月交代制は、山形県側の宿場でも多く取り入れていて、負担軽減の意味があったとされています。 下関と上関の半月交代制は単純でなく、複雑で入り組んでいたようです。この和解文書は、半月交代の例外規定を明文化したことになります。 <原告・下関村の主張> 下関村は次のように訴えます。 ひと月の内、上十五日は上関当番、下十五日は下関当番で a 上関当番の時は、大島からの荷は下関で止めずに上関まで送る b 同様に、下関当番の時、玉川からの荷は上関で止めずに下関へ送る これが取り決めだ。それなのに、 下関当番の時でも、上関は、玉川からの荷を上関で押さえて 下関の人馬に、上関まで荷を取りに来させる これでは、まるで手伝い扱いにしていることになる 取決め違反だ。 このままでは、下関の宿場は成り立たない。 <被告・上関村の主張> これに対して、上関村は次のように答えます。 半月交代とは言うけれど、 元々上関が宿場で、昔から、荷は上関で継ぎ送りしていて 人馬不足の時に、下関から問屋馬指が上関に荷を取りに来て 上関下関それぞれで継ぎ送りしてきた。 ただし、大島からの商人荷だけは、 下関当番の間は、大島から下関へ継ぎ送り、下関から玉川へ運ぶことになっている。 それ以外は、当番に関係なく、上関で継立し 玉川からの荷を下関まで送ることは前々から全くなかったのだ。 問屋・・・宿場の荷物継ぎ送りの責任者 馬指・・・問屋の部下で、馬や荷を差配する実務を担う <背景> 上関・下関の宿場半月交代制は、慶長19(1614)年に、下関村からの訴えにより当時の領主であった村上藩主が裁定した古くからの決まりであり、下関の主張はこれに則っている。 しかし、上関村には、それ以前から元々自分の方が宿場だったという意識があるし、単純な半月交代制でない慣行が、長年続いてきていたようだ。 玉川からの荷を上関でおろさせることについては、合理的な理由があった。 十三峠の最難所・大里峠を越え、さらに榎峠、鷹ノ巣峠を越えてきた玉川の人馬は、上関に着いてそこで荷をおろして引き返したかった。帰りもまたその峠を越えなければならないのだから、わずかな距離とはいえ、下関まで延長するのは勘弁してもらいたいのが本音だろう。だから、上関は強気になることができた。 それにしても、下関から上関へ荷を取りにいかなければならないことだけで、宿場の成否にかかわるというのは大げさなように思われる。面子もあるだろうが、それだけで訴訟までいくというのは腑に落ちない。 後で出てくるのだが、荷をおろさせるとそこに庭銭が発生する。庭銭は、荷扱料や保管料のこと。運送業の利害がからんでの訴訟というのが真相のようだ。 訴訟人下関の庄屋は渡辺三左衛門、相手方上関の庄屋は儀右衛門。本家と分家の関係だから、何とか話し合いで決着しようと努力したに違いない。 それでも訴訟までもつれ込んだということは、運送業に携わる人たちの利害がからんでいたからに違いない。まさに、宿場の成否にかかわる問題だったのだ。 <仲介人による調停> 民事訴訟は、当事者による和解合意が原則。代官所はそのための仲介人を選定します。 仲介人は、「噯人」と書いて「扱い人」と読みます。 小見村庄屋・平太郎、平林町庄屋・哲五郎、七嶋新田庄屋・彦右衛門、水原村庄屋・熊倉嘉左衛門の4人。いずれも幕府領岩船郡・蒲原郡の大物庄屋たちです。 御上様(代官所)に御苦労をお掛けするのは恐れ多いので、私たちで仲裁しますと、これは常套句です。 そして、和解合意に達すると、「済口證文」という文書を作成し、代官所に提出します。 御上様(幕府=代官所)の御威光のお陰で、合意に達することができ、有難き仕合せと、これも常套句です。 <合意内容> 合意内容の全てを箇条書きすると次のようになります。 ① 上十五日は上関当番、下十五日は下関当番 上関当番の間は、武家荷は下関の馬で継ぎ送る 下関当番の間は、武家荷は上関の馬で継ぎ送る ② 玉川から継ぎ送られてくる公用・商用の荷は ①の取り決め通りだと、下関の主張の通り 当番の村で継ぎ立てることになるのだが、 往復十里余もある峠を越す難所があるため ①の通りにすると、人馬が大変苦労する。 そこで、次のように決めた。 ア 玉川からの荷は、下関当番の時でも、上関でおろさせ、下関の人馬で継ぎ立てる イ 大島からの荷は、当番の村でおろさせ継ぎ立てる ウ 当番一村で賄う人馬は、大島へ運ぶのは九匹十九人まで 玉川へ運ぶ人馬は四匹九人まで、 それ以上必要になったら、その都度、雇い出しして、 その賃銭は両村で半々割合にする。 ③ 下関当番の時 a 下関が出した人馬と玉川から来る人馬が、途中で荷を交換した分と b 紅花・青苧や商用荷は 上関に下ろさず、下関まで送ること ④ 両村が直勤で継立した時は、両村の問屋馬指が共に指図すること ⑤ その外、武家の宿泊に差支えが出ないように取り図ること ⑥ 御朱印等の大通行に限っては、当番だけでなく人馬を詰めて差支えないようにすること ⑦ 玉川から米沢藩年貢米が上関蔵所に送られてくる時、 空牛や荷物は、日々半々に分けて、下関へやること 半々に分け難い時は、その翌日の牛で差し引き、不公平の出ないようにすること ⑧ その外、米沢藩買い上げの鉄も、半々に分け、 大島から上関へ送る分は、下関で止めないこと ⑨ 青苧・紅花は、牛で運ばれる分も含めて 下関当番の時でも 上関で荷をおろさせ、下関の人馬で継ぎ立てること ⑩ その際の庭銭(荷扱い保管料)は、一駄二十文のところ 十文は、下関当番の時は下関が受け取ること ただし、下関から玉川へ継ぎ立てる人馬が途中荷を交換するときは 庭銭は全部下関の取り分 ⑪ 下関へ引き下げた牛は、下関に泊まる間は勝手に牛宿を立ててよい 帰りの牛荷を付け通しても、上関で差し繰りしないこと ⑫ 下関が当番の時、大島から玉川へ継ぎ立てる荷で、上関の人馬が運ぶ分は、 玉川への往復が難義なので、人馬が難儀な思いをしないように 上関の人馬を下関まで引き下げさせないで、大島が直接上関まで運ぶこと ⑬ 米沢藩から下関の渡辺三左衛門・渡辺利助へ下さる扶持米は、 どこの牛馬で運ぼうとも、上関では差し繰りしないこと 結局、十三峠中最大難所といわれた大里峠の存在が、これらの複雑な取り決めの原因だったようです。峠を越えて来た荷は、一刻も早く上関で下ろして、継ぎ送りたかったのでしょう。 また、大島村には川港があって舟荷の陸揚げ場としての役割があり、それはそれで両関村との複雑な問題もあったようですが、残念なことに、平田家文書にはそれに関係する文書はなさそうです。 |
|||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読み下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読み下し | |||||
意訳 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
ページのTOPへ | |||||