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平田甲太郎家文書<米沢街道「赤谷橋」の所属・管理に関わる四文書>
関川村広報紙に連載① 2021年6月号
① 延享 2(1745)年6月 大嶋村庄屋三太郎差出文書 (文書№735)
② 延享 4(1747)年6月 大嶋村庄屋三太郎差出文書 (文書№630)
③ 享保14(1729)年5月 四ヶ村庄屋連名文書(下書) (文書№644)
④ 享保14(1729)年5月 四ヶ村庄屋連名文書(正文) (文書№579)
<三通の文書について>
三通とも赤谷橋に関しての文書で、初めに①が出され、その2年後に②が出さました。は、②より18年前に書かれた文書ですが、②に添付して提出された文書です。
①について
赤谷橋は、米沢街道の重要な橋で、大嶋村、土沢村、赤谷村、辰田新村で管理していました。四ヶ村とも幕府領で庄内(鶴岡)藩の預所だったのですが、この文書の3年前、寛保2(1742)年から、赤谷村と土沢村は白河藩領になりました。それで、大嶋村庄屋が、橋の所在地は他領になったけれども今まで通りの管理でよいかと、庄内藩の幕府領預所を管理する川端役所(鶴岡)へ伺を出したのがこの文書です。
「関川村史」には、庄内藩の支配所は水原代官所となっていて、この文書の「川端役所」の所在が分からず苦労しましたが、ネットで「鶴岡タイムス2019.6.1号 人物でたどる鶴岡の歴史」を見つけ、ようやく判明しました。鶴岡の役所とやり取りしていたことになります。
関川村は、宝永6(1709)年に村上藩領から削られて、それ以降、他藩領になったり幕府領になったり、他藩預所になったり、領主が度々変わって大変だったようです。
②について
それからの2年間で、何回か役所とのやり取りがあったのだと思います。②の文書の内容からすると、赤谷橋から離れた地域の大嶋村がどうして赤谷橋の管理・修繕等に関わるのかという問いがあって、それへの回答文書と思われます。
大嶋村は街道の宿駅で、隣の下関宿へ宿場荷継送りのため昼夜となく頻繁にこの橋を通行しているので、管理修繕も負担しているのだという内容です。
海老江役所から川端役所への引き渡しとは、享保14(1729)年に、関川村の大部分が館林藩領から幕府領の庄内藩預地となって、支配代官所が変更になったことを言っています。
この文書から、2年前に洪水があって橋場が流され荒川の河川敷になってしまい、新たな場所に架け直しが必要になっていることが分かります。その場所には今も「橋場」の地名がありますが、赤谷橋がその地名の由来だったのでしょうか。

③について
享保141729年の領主交代の際に、赤谷橋を管理するヶ村で申し合わせた証文です。領主交代の際には、村鑑といって村の明細帳を差し出します。そこへ、4村それぞれが管理する赤谷橋を書いたのでは誤解が生じる恐れがあるので、四ヶ村の村役人の合意で大嶋村が代表して書いたのだけれども、管理修繕はこれまで通り4村共同でやるのだという念書です。
④について
③の文書と同文。③が下書きで④が正文
① 延享 2(1745)年6月 大嶋村庄屋三太郎差出文書 (文書№735)
 
釈文
 
読下し
 
意訳
 
② 延享 4(1747)年6月 大嶋村庄屋三太郎差出文書 (文書№630) 
 釈文
 読下し
 意訳
③ 享保14(1729)年5月 四村庄屋連名文書 (文書№644) 
 釈文
 読下し
 意訳
④ 享保14(1729)年5月 四村庄屋連名文書 (文書№579) 
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