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平田甲太郎家文書<渡船の舟賃について「覚」 正徳5(1715)年 文書№669>

<解説> この文書は、「渡し舟の舟賃と運航についての定め」です。

1 この文書を出したのは?
 ただ「役所」と書いてあるだけです。
 どこの役所からでしょうか。手がかりは正徳5(1715)年にあります。
 宝永6年に村上藩が15万石から5万石に減封され、関川村のほとんどは村上藩領から幕府領になります。それもつかの間、3年後の正徳2(1712)年には、幕府領から館林藩領になります。
 館林藩は、新たな領地となった越後国岩船郡と蒲原郡を管轄する代官所を海老江に置きました。よって、この文書の「役所」とは、海老江の代官所のことになります。
2 舟賃は、川水の量で変わる
 常水、つまり平常の水量で、人一人、五銭。馬は馬方共に七銭。
 それが、中水、満水になると、七、十、十五と割増しになります。
 どの程度で中、満なのかは分かりませんが、まさか、危険な程度の大水では舟は出さないので、安全なぎりぎりの程度が満水で、その中間が中水ということでしょうか。
 銭(せん)は一文銭のことで、一文(もん)と同じです。江戸時代では文が一般的になるようです。
 幕末の万延元(1860)年、上関住人・孫三郎一行の伊勢・金毘羅参り「道中記」には、渡し舟賃は十六文~二十文とあり、150年弱で3~4倍になっています。年3%のインフレ率だと100年で3倍、ということは、江戸時代は順調な経済成長をしていたと見ることができるようです。
 もっとも、幕末の開港以来諸物価は高騰したといわれているので、150年平均しての上昇では無いかもしれませんが、孫三郎たちの淡々とした旅の様子からは、庶民の生活に影響するほどの物価高騰があったようには思えません。開港直後(2年後)なので、まだそれほどの影響は生じてなかったのかもしれません。
3 無料で乗れるのは?
 「武士と奉公人以外、舟賃を取るべし」とあります。つまり、武士とその奉公人は無料です。
 身分社会で武士は、政治・行政の公務を担う特権階級です。武士は必ず主人持ち。主人は領主で、公的存在そのもの。その主人の命令で行動するのが武士。だから、武士の旅は常に公務。という理屈になるのでしょう。
 また、「領内の者は人馬共に舟賃を取間敷事」とあります。間敷(まじき)とは禁止の意味です。
 渡し場は幕府や領主が定めた公設で、経費は地元の村が負担しています。船頭の手当も村から米などで出していました。東海道などの旅人が多い所では舟賃収入があてにできるので、民間業者が請け負う形態もあったそうです。しかし、主街道以外の村道では、舟賃収入は、そうあてにはできなかったでしょう。
4 「舟が出るぞー」はなかった
 「武士奉公人はもちろん身分の低い者でも、通る人がいたら、いつでもすぐ出てきて、一人でも舟を出すこと。旅人を差し支えさせてはならない」とあります。定刻、あるいは乗る人がある程度集まったら舟を出すのではなく、いつでも、「船頭さん、頼む」「あいよ」と、こんなふうだったようです。まるで都会のタクシーです。
5 一銭でも余計取ったら処罰する
 「きっと曲事(処罰)申付けるべきものなり」と厳しい規定です。こういう禁止事項は、それをする者がいるから定めるものです。人・物の交通を盛んにしなければ経済は発展しません。だから領内の安心安全な交通政策は領主の務めです。
 江戸幕府は、街道を整備し、宿場の制度を設けて人流物流を盛んにしました。時々天災による不況はあったものの、おおむね順調な経済成長を果たせたのは、交通政策の成功が大きな要因だったと思われます。
6 江戸に伺って定めたものだ
 代官所が勝手に決めたのではないと、わざわざ断っています。この時の館林藩主は、第6代将軍徳川家宣の弟、松平清武。親藩中の親藩。藩主は江戸に居て藩政の中心は江戸にあったのでしょう。代官所の役人にしても、我が殿は将軍(この時点では前将軍)の弟で本拠地は江戸だという意識があったのではないでしょうか。
7 荒川に橋が架かったのは、いつ?
 陸地測量部(現在の国土地理院)の地図で最も古いのは大正2(1913)年の地図になります。そこには、現在の国道113号線に該当する道路に全て橋が架かっています。山形県に通じる旧米沢街道は、明治に入って大改修が行われたからです。
 荒川の左岸と右岸をつなぐ現在の温泉橋、小見橋、高田橋が架けられたのは、それよりもずっと後になります。
  温泉橋=大正11(1921)年
  小見橋=昭和3(1928)年
  高田橋=昭和8(1933)年
      「ふるさと百年史」(平成十六年・関川村発行)から
釈文
読下し
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