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平田甲太郎家文書 <山林の暮し 「ナタとられ詫状」 2通>
① ナタ取られ詫状 年不詳(元禄12(1699)年か) 文書№681
② ナタ取られ詫状 元禄5(1692)年 文書№189 

女川左岸に、見事に発達した河岸段丘
5段の段丘の最上段近く、馬のイラストの辺りがこの文書に登場する若山村
その右奥の山地が、小見村の裏山へつながる
  関川村広報紙2021年11月号掲載
① ナタ取られ詫状 年不詳(元禄12(1699)年か) 文書№681
 若山村の人が、故意か過失か小見村の山へ入って薪を取ってしまい、ナタを取り上げられた一件についての詫状です
 このような場合、ナタを取り上げるのは「御尤も」なことで、再発防止を固く約束してナタを返してもらうというのがこの当時の仕来りだったようです。当時の山林は、どこの村にとっても大事な燃料の供給源です。若山村と小見村は互いの裏山が繋がっている関係ですので、厳重に境界を守ったことでしょう。
 文書の年は不詳ですが、「関川村史」p290には小見村庄屋吉右衛門(元禄16年)とあるので、その近くの卯年というと元禄121699)年ということになります。

 元禄の頃は、現在の関川村一帯は村上藩領でした。村上藩は、領内統治に組制をとっています。組は、村をいくつか集めた行政の組織です。そこを取り仕切るのが大庄屋です。
 小見組は女川組とった時期もあるように、女川流域一帯と荒川右岸の村々を統合する範囲です。平田家文書の同じ時期(元禄1216)の複数文書に、小見組大庄屋平太郎の名が出ています。
 
それで、どうやら、平太郎が小見組の大庄屋を務めているときは、小見村庄屋は兼ねずに、別の人物に村庄屋を務めてもらっていたようです。平太郎以外の小見村庄屋が出てくるのは、それが大きな理由のようです。
釈文
読下し
② ナタ取られ詫状 元禄5(1692)年 文書№189 
 この文書は日付が元禄51692)年と明示されています。
 ①
の文書が元禄
121699)年だとすると、それより7年前にも、同様の事件が起きていたことになります。「今後もし同じことをした場合には、どこへ訴えてもらって構わない」と書いてあります。それでも、結局7年後に同じことが起き、同じように鉈を取り上げて、詫状で済ましています。
 小見組の総元締めは小見村の平太郎ですし、若山村も同じ組内の仲間。そうそう御上に訴えて事を荒げるつもりはないのでしょう。だからといって、他村の山を荒らすことは許されることではないので、お互いに村内の三役が日頃からしっかり注意していて、村人によく言って聞かせるという辺りが現実的な対策だったのかもしれません。
 ナタとられ詫状はこの二通だけのようなので、そうたびたび起こっていたわけでもなさそうです。


 この文書では、ナタは一人二丁ずつとられています。おそらく、小見村に一丁、上野山村に一丁で一人二丁ということではないでしょうか。
 
それメナタというのがどういうナタかは分かっていません。もしかしたら、単に「〆てナタ六丁」、つまり三人分として計六丁という意味なのかもしれません。
 ただ、文書の裏に「若山村 山刀もらい手形」と書込みがあります。ここから推測するに、当時、普通にナタと言えば、山刀と表現されるような尖端が刀状に鋭くなったものだったのではないでしょうか。だとすると、メナタとは、それと違った形状のナタで、メが女なのであれば、山刀ようには鋭くないナタ、つまり現在では普通の、先端が四角くなったナタを言うのかもしれません。
 なお、尖端がカギ形になって石を叩いても刃に影響しない作りのナタは、現代でも、石突ナタとかトンビナタとかいわれているようですが、これは女ナタのイメージからは離れるような気がします。
  
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