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平田甲太郎家文書<関組庄屋連名上納金延納願 天保4(1833)年 文書№703
 当時幕府領だった、関組(一部を除く現在の関川村一帯)各村の庄屋23名が連名で水原代官所に提出した、上納金の月送り延納要望書です。
 江戸時代の税は年貢米が知られていますが、それ以外にも各種の税がありました。さらに、臨時的な税とされていますが金銭で納める上納金があって、月割で納めていたようです。

 連名の最初の4行「長政新田、紀伊国新田、小見前新田、和平」の部分は、後からの書き足しのように見えます。この3新田村は渡辺三左衛門家の所有でした。和平は、三左衛門家の番頭で渡辺家の新田村の庄屋を務めたとされています。関組の願出に同乗(便乗)させてもらったものでしょうか


 3新田を除き、
この文書に載った関組の村数は、兼帯を含めると27ヶ村になります。兼帯村名は書かれてありませんが、近くの村でしょうから、若山村兼帯は新保村と上野新村、沼村兼帯は畑村と大内渕村になるでしょうか。
 現在の関川村の範囲内には、幕府領のほかに、村上藩領と白河藩領がありました。村上藩領は、中束、蛇喰、中(南中)、宮前。白河藩領は、その時々で変動して複雑なのですが、土沢、赤谷、山本、鍬江沢、内須川、勝蔵、打上、湯沢、安角、大石がそうだと思われます。

 
「関川村史」には、寛政12(1800)年に、村上藩領と白河藩領を除く上関組は31ヶ村とあります。この文書の時には、関組となっていますが、あと4村足りないことになります。抜けている村は、高田、落合、聞出、沢になるようです。この4村がなぜ載っていないのかは分かりませんが、何かの都合で、上納金が課せられてなかったのかもしれません。

 それはともあれ
、天保4年は全国的に飢饉と米価高騰で大変な年でした。江戸四大飢饉の一つといわれる天保の大飢饉が始まるのがこの年からと言われています。が、その数年前から、越後国はじめ全国各地で、一揆や打ち壊しが起っています。文中「漸々是迄露命相続仕候儀」とあるのも大げさではない状況だったと思われます。必死の御願いだったのでしょう。結果がどうなったかは、今のところ記録が見つかっていません。
 なお、広報紙に書いた上関共同墓地の塚のことですが、幼い頃の記憶では、飢饉の死者の埋葬塚だと聞いたように覚えています。しかし、近くの安養寺境内に、宝暦大水害の無縁仏塚があるという伝承もあるそうですから、あるいは、双方の位置と謂れが交叉し、混同されてしまっているのかもしれません。

 ところで、税務大学校のWEB資料によると、天保10年当時の越後国内幕府領代官所は、脇野町、出雲崎、水原の3ヶ所で、それぞれの支配石高は5万石、7万石、10万石となっています。
 水原代官所についていえば、中程度の大名並みです。ところが、役人数は、江戸詰めが11人で、現地水原にはたったの5人。どこの代官所も同様です。
 幕末村上藩が5万石で藩士700人(河合敦「窮鼠の一矢」)と比べれば、格段の違いです。藩は常備軍、代官所は徴税、それがこの違いでしょうか。藩が常に財政難だった理由もこれで分かるような気がします。
 代官所管内の行政実務は、徴税も一般行政も、ほとんどすべて各村の庄屋等が担当していたわけですから、この程度の役人数で間に合うのでしょう。効率的と言えるのかもしれませんが、それだけに、庄屋・組頭の存在が重要だったということになります。
釈文
読下し
意訳
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