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平田甲太郎家文書<戸籍異動に関わる通知書 三通> 
① 「さた」除籍通知状 安永6(1777)年 文書№657
② 「しと」入籍通知状 安政4(1857)年 文書№758
③ 「乙吉」除籍通知状 嘉永2(1849)年 文書№658
 戸籍異動通知書 三通
  ①  さた除籍通知 安永六(一七七七)年 平田家文書№657
  ②  しと入籍通知 安政四(一八五七)年 平田家文書№758
  ③  乙吉除籍通知 嘉永二(一八四九)年 平田家文書№658

<解説>
 江戸時代の村は、現代の集落です。戸籍の管理は、それぞれの村(つまり、集落)ごとに行われていました。戸籍は納税や夫役(人足出し)等の基礎になる重要事務。その管理責任を担うのは村の庄屋です。婚姻や養子縁組等で戸籍が異動すれば、庄屋から庄屋への異動通知書によって除籍・入籍が行われます。平田家文書には、戸籍異動通知書が三通残っていました。
 ①は、下関村庄屋半十郎から、小見村庄屋佐源太への通知
 ②は、小見村庄屋平太郎から、聞出村兼帯片貝村庄屋吉十郎への通知
 ③は、小和田村庄屋利助から、小見村庄屋平太郎への通知

 ①と③の表題は「為取替申手形之事」で、除籍する村から出されたもの。②の表題は「為取替申請手形事」で、入籍する村からの「請手形」、つまり受入れ通知になっています。同一人物についての除籍・入籍が対になった文書は残っていませんが、一方向の通知ではなく、除籍と入籍と双方向の通知で確認を取リ合っていたものと思われます。
 通知書の形式は定まっていませんが、以下の内容は、共通に押さえられています。

 元村の親(戸主)の名、当人の名、年齢、縁付先の戸主の名、戸籍異動理由

 これだけあれば、戸籍の書き換えはできるということでしょう。縁付先の○○方というのは戸主の名であって、嫁入り、婿入りの場合の結婚相手の名前ではありません。また、単に「縁付」では、養子なのか嫁入り婿入りなのかも分かりません。それらは、入籍村が承知していれば良いことで除籍村には関係ないということでしょうか。
 異動の理由は、②と③の文書は「縁付」とあります。①の文書の理由は、本文二行目中頃に書いてあって、読みにくい文字ですが、「遣申候」(遣り申し候)と読めます。嫁に遣るという言い方は一般的です。ただ、②、③の「縁付」と比べるとやや品に欠ける気がします。それで、ここは、「加之候」と読んで、「嫁し候」の意味と捉えることもできるかな、などと思っています。
 江戸時代の戸籍帳は、宗門改帳とか人別改帳と呼ばれます。元々は別のものだったと言われますが、どちらも同じ戸籍帳を指していて、宗門人別改帳とも呼ばれます。禁教のための檀家制度と領民確認のための戸籍が合体した形です。

 ともあれ庄屋さんには、読み書き算盤の事務処理能力も必要で、一人何役もこなす大変な仕事だったようです。

<付け足し>
1 ①の文書の、十六歳で平田家に嫁入りした「さだ」の生涯については、広報紙9月号掲載の中心テーマにしました。
 さだの夫昌平の父12代平太郎(田麦堀割訴訟の主人公)は、文政3(1820)年に病死します。その際、小見村百姓一同は「忰昌平を後役に」と代官所に願い出ています。さだの嫁入り後53年して、ようやく夫昌平が平太郎を継ぐことになります。詳しくは<文書№595>で。
 なお、平田家当主は代々平太郎を襲名し小見村の庄屋を務めていますが、この文書の時の庄屋は佐源太になっています。ほかに、安永4(1775)年の文書にも、小見村庄屋佐源太の名がでてきますので、この時期何かの都合で臨時に庄屋を交代することがあったようです。佐源太については、広報紙8月号で紹介しました。

2 面白いのは③の文書の小和田村庄屋利助の印。その右側に、代印であることを断っています。?の文字が判読できないのですが、「印形御改」とでも読むのでしょうか。もう一ヶ所は「参り」と読めるようです。何かの理由で印鑑が御役所へ行っているためと書いてあります。それで、屋号の印、今で言えばゴム印みたいなのを使ったということです。
 現代の押印習慣は江戸時代から続いてきたもので、他の連名押印文書の文字を見ると、署名は必ずしも本人でなくてもよかったようで、とにかく印があれば形は整ったもののようです。
① 「さた」除籍通知状 安永6(1777)年 文書№657
            読下し                                     釈文
② 「しと」入籍通知状 安政4(1857)年 文書№758
③ 「乙吉」除籍通知状 嘉永2(1849)年 文書№658 
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