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平田甲太郎家文書<明治維新関係文書>
計36通の関係文書が、下記の4形態になっています。
それぞれの表題をクリックすれば、そこに含まれる各文書のリストがあり、さらに個々の文書の原文・釈文・読み下し文が掲載されています。
1 明治元年諸触書書留帳 明治元(1868)年 平田家文書№42
      23通の文書が1冊に綴られている
2 明治元年諸書留帳 明治元(1868)年 平田家文書№47
      10通の文書が1冊に綴られている
3 維新急回状 明治元(1868)年 平田家文書№40
      2通の文書がつながっている
4 有志の徒(ともがら) 明治2(1869)年 平田家文書№771
      1通の文書
 
「広報せきかわ2026年4月号」で紹介した文書について

上記の36通の文書のうち広報紙で取り上げた文書は、次の6通になります。丸数字は広報紙本文の数字に合わせてあります。(③は2通)
以下に、6本の文書の内容を簡単に紹介します。(各文書の題目(書出し文)をクリックすれば、該当文書の原文・釈文・読み下し文にリンクされています。)

「今般御即位御大礼」文書№42①
文書は3段構成になっている。
前段・・・
「御即位御大礼を済ませられ、先例の通り年号を改めなされた。これまでは吉凶の象兆(前兆)に従ってしばしば改号したが、今後は御一代一号に定められ、よって慶応四年を明治元年とすると仰せ出だされた」とあり、日付は九月。発出者名はないが本来なら、新政府の「行政官」とか「太政官」とかが書かれるはず。民生局で略したのかもしれない。
中段・・・
「右の通り仰せ出でられたので早々触れ知らすべきもの也」とあり、十月付の「村上民生局」の追い書き。明治改元は1868年9月8日で、その通知が10月に村上に届いたことになる。
後段・・・
「町方は町年寄が軒別にしらせよ、在方は庄屋や組頭が村中残らず知らせよ」というもので、民生局に詰めていた町方年寄や郡方惣代たちの添書きと思われる。

「九月二十二日は聖上御誕辰相当に付」文書№42⑭
2段構成で、前段は・・・
「九月二十二日は聖上(天皇)の御誕辰(誕生日)で群臣に宴会を賜り、天長節を執り行った。民と共に喜び合いたいというお考えから、刑罰の恩赦が行われた。よって一同祝日の式典を行いお祝いをするように仰せ出だされた」八月付で、この文書には発出者は「行政官」とある。これは、新政府の行政機関。
後段は・・・
「右の通り仰せ出でられたので・・・」と、上の①と同じ決まり文句。十月一日付で村上民生局と町方年寄・郡方惣代の連名の形態。
<補足>
天長節について調べてみると、それまで宮中行事であった天長節が、国民的国家行事となったのが明治のこの通知からで、明治6年に太陽暦導入で11月3日になった。その後、大正天皇の誕生日が新たな天長節になり、昭和天皇の誕生日が天長節になったときに、明治天皇の誕生日11月3日が明治節として復活した。戦後、昭和23年の祝日法執行で、天長節は天皇誕生日となり、明治節は文化の日となった。少し煩雑だが、こういうこになる。

③-ア「以廻状申上候然は当辰御年貢」文書№47②
民生局に詰めている郡方惣代から十月二十六日付の通知で、「廻状を以て申上げ候」は、各村へ回せということ。
前段は・・・「今年(明治元年)の年貢は別紙の割付通りだから、期限までに納めるように」
後段は・・・「先般布告があった通り、今年の年貢は半納で割付けてあるから、一同ありがたく受け止める様に村々へ知らせよと(民生局から)言われたので、このことをご承知おきください」
<補足>
前段に「年貢初納量」とあるが「この年初めての年貢は」くらいの意味だろう。旧幕府時代と同じに割付状によって納税する仕組みを踏襲していて、きちんと納めよという念押し。
注目されるのは後段。「年貢半免の布告がすでに出されていて、それに基づいて年貢割付が行われた」と知らせている。その上で、「ありがたく思うように村々へ伝えよ」というのが、この文書の趣旨になる。
明治初年の年貢半免については、次の文書で解説する。

③-イ「当戊辰の御年柄に就」文書№40①
表書・・・民生局に詰めていた土沢村庄屋清八から出された至急回状で、上野新村から回すようにとある。(文書の最後尾に付箋があって、回覧の順序と回覧済の印が押してある。)
本文は、明治元年十二月付の村上民生局からの文書。
前段・・・今年は特別のお情けで本年貢を半免にしたので、この割合については、親作小作とも二割分を受け取るように通達した」
後段・・・「であるから、管内の全百姓は御高配をありがたく受け止め、これからは、村の者同士仲良く穏やかに暮らすように」
追書き・・・十二月五日付で郡方惣代名の「右の通り・・・」という常套句。
添書き・・・・十二月六日付で「別紙の通達があったので、よく意味を理解し、思いやりの御心を一同ありがたく受け止め、百姓みな誠実にこれをお受けして穏やかに仲良く暮らすように、と指示があったので村民全員に漏らすことなく言い聞かせること」
発出者名はないが、表書きの清八の添書きになる。しかし、「御仁恤の趣」や「配(拝)し奉り和順仕るべく様」など文中に使われている仰々しい文言からすると、ひな形が示されているのだろう。
なお、民生局には地元の百姓が出仕させられていて、その代表格が町方年寄と郡方惣代で、清八はその下の役員ということになる。
<補足>
この文書の前段にある「親作小作とも二割を頂戴する(受け取る)ように」の解釈が難しい。
a 年貢半免なのに二割というのは一見矛盾することについて
半免つまり五割引と表向きは表明したものの実は二割引だったと考えることもできる。実際、口約束だった地域もあるということなので、二割引きでも年貢免除が実施されただけありがたいことになる。しかし、そうだとすると、後段の「然る上は」以下の文はかなり厚顔無恥過ぎる。まして村から来ている清八が、ここまではとても書けないだろう。5割が2割になったら感謝どころか、恨み辛みの話になって逆効果。だから二割の意味は別にある。
アの文書にあるように、年貢割付状(納税通知)が出されるのは10月で、その後、何回かに分けて納税される。イの文書は12月で最終納税時期。だから、5割の内3割分はこれまでの納税で差し引いてあるから、残り2割が差し引き分だというのが、この文書の意味だと考える。
b 親作小作ともの意味
親作小作は地主と借地人のことだが、まだ土地私有制ではないので、あくまでも耕作権の貸借関係を表した言葉。ここで、双方とも二割頂戴せよと強調した意味は、年貢半免の効果を小作人にも行き渡させる意図があったことになる。せっかく半免しても、小作人からはこれまで通りの地代を取っていたのでは、地主だけ大儲けになる。多分、アの文書にある「先般布告の」半免通知にもこのことは書いてあっただろう。が、人の世のこと、強欲な地主がいて、あえて再度強調したのかもしれない。
年貢半免が本県以外にあまり例がないことは、新潟県発行「新潟県のあゆみ」(平成2年)に詳しい。

「覚 人足二分詰」文書№42⑳
この文書の内容は、広報せきかわに書いた通り。
<補足>
「人足二分詰」とは、二割動員のこと。十軒につき二人は、宿場の人足動員としては、かなり高負担の動員になるようだ。10月15日は、戊辰東北戦争がほぼ終結した頃なので、薩摩藩兵が戦地からの引き上げで通ったのだろうか。
明治維新後になると「会所」という言葉がよく出てくるようだ。もちろん、それ以前にも、水原の会所とか出てくるのだが、関川村内でこの言葉が出てくるのは、明治維新後の文書だけのようだ。維新直後の混乱期を地元の庄屋たちで相談して乗り切るために、各村をまとめた組の役所として機能したようだ。

「癸丑以来有志の徒」文書№771
文書内容の概略は「広報せきかわ」で紹介した通りだが、箇条書きにして解説する。
・癸丑(きちゅう=嘉永6年=ペリー黒船来航の年)以来、勤王の志士が、惨殺、幽囚、困苦難し、帰るところを失った者がある。
・今や、勤王がなって功績をあげた者たちが褒賞を受けているときに、(天皇は)彼の者たちのことに憐れみを及ぼされて、死亡の者は祀り、その妻子や生存の者には禄を与えるように仰せつけられた。
・府・藩・県ともその御意を受け止め、管轄する地域内をくまなく調べて該当する者を報告せよ。
・万一これを怠ったら、朝廷の意志に反することになるから、しっかりと受け止め、その者の姓名、郷里等詳細に調べて今月中に報告すべしと、さらに仰せられた。
<補足>
この文書は年がなく、ただ2月となっているが、文末に再発の文書であることが書いてあるので、明治2年になる。
明治になると、文字の形が、前代とすっかり変わっている。明治新政府は旧弊打破を目指して、それまで主流だった御家流といわれた崩し字を使うのを止めさせ、この文書のような字体に代えさせた。書き写す方も、新字体をまねたから、明治新時代の文書は、見た目も新時代の文書になった。
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