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福岡代官所から上関村庄屋宛
福岡代官所は1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)まで現阿賀野市(旧水原町)に置かれた会津藩の代官所です。幕末、動乱の京都守護職を勤める会津藩の財政を支えるため、越後国内の多くの村が会津藩領とされました。関川村内の約半数の村も会津藩領となり、上関村もその一つです。しかし、下関村は従来のまま幕府領で、水原代官所の管下でした。だから、それに遠慮して会津藩代官所管下の上関村庄屋へ伝言依頼したもののようです。福岡に代官所の施設が出来たのは1864年(元治元年)で、この文書はその頃のものではないでしょか。 
 
因みに個人的なことですが、ここに登場する伝蔵は私の母の4代くらい前の先祖です。と言っても、母の実家が庄屋家だったと言いたいわけではありません。上関村の庄屋は世襲制ではなく、その時々の適任者が就任する制度をとっていたようで、昔も今も民主的な村だったといえるでしょうか。思いもかけず母の先祖名が記された文書に出会えた密かな喜びを述べたかっただけです。伝蔵家の文書類は、その後の火災や水害ですべて喪失しています。渡辺邸に残されていたからこそ保全されたということになるのでしょう。有難いことです。
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郡役所から岩船郡大庄屋宛 元治2(1865)年3月
解読には、村上史楽会の本間哲朗会長様から沢山のご指導を頂きました。
歴史館の田村さんのその後の調査で、渡辺邸の文書リストに、同時代に渡辺友之輔なる人物が存在したことが分かりました。調べたら、平田家文書にも出ています。為之輔は、友之輔と読む方が妥当のようです。会津藩領となって郡役所が置かれ、郡の大庄屋を務めていたのが渡辺友之輔。どこのだれなのか、平田家文書の解読を進めるうちに見えてくるような気がします。 
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渡辺友之輔から渡辺三左衛門宛
読めない箇所が多く、ほとんど本間会長様のお力をお借りしました。改めて御礼を申し上げます。
為之輔は友之輔のようであることは、上の通りです。上の文書の報告ですので、同年の文書です。田村さんが見つけた渡辺家文書の友之輔は、渡辺三左衛門家の分家とのことで、そうすればこの文書の意味も分かるように思います。
 
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