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「村上町行事所日記」流し読み
崩し字解読でお世話になっている本間哲朗先生が会長の村上史楽会で、この「日記」を刊行していて、この度6冊(巻10~巻15)購入しました(させられましたカナ?)。年行事所とは、江戸時代の村上町役場のことで、そこの公文書「御用留・御用日記」を現代の漢字に翻字したものです。だから、崩し字を読む苦労はありません。ただ、漢字ばかりの羅列ですし当時独特の言い回しや用語があって、本気に読むには少々労力がいります。
ですが、気楽にペラペラとページをくくって斜め読みしているだけでも、ところどころ興味ある単語が目に止まります。その部分だけでも、ちょっと目を通していると、なかなか面白いことが書いてあります。もちろん、正確に読み取る必要はなく、大体の意味が分かるだけでも十分楽しめます。江戸時代の一地方の庶民の暮らしがリアルに浮かんできて、なにやら人情時代劇の世界にいるような気分になれます。そんな出来事を拾って以下に紹介します。概略を意訳してあります。
興味を持っていただけたら、一冊1000円で購入できますので、ご連絡ください。現物は歴史館でもご覧になれます。
 
 「見出し」 ( 下の見出しをクリックすれば、その記事の所へ飛びます)
三面川に死骸・・・面倒なことにはかかわりたくないと思っていたら・・・
娘が売られた・・・売り飛ばされた父親と売り飛ばした悪党の一件・・・
町なかで鉄砲・・・疫病流行り、町々邪気払いの鉄砲をぶっ放す・・・
行き倒れ照会・・・村上の町人、旅行中に仙台で行き倒れか・・・
治安正直社会・・・お金を落とした人はいませんか・・・
事業意欲旺盛・・・チャンスは逃さない、さすが商売人・・・
~以下、おいおい追加していきます~
 
天保3(1832)年
面倒なことにはかかわりたくないと思っていたら (巻13-p6)
<3月22日> 御役所(藩の役所)から呼び出しがあって告げられた内容は、「下度川(三面川)の〆切に中間町・長七の死骸があがった。家の者の話では、当人は19日に女房の里・鵜渡路村へ普請に行き、その日は帰らず泊ったと思ったが翌日も帰らない。それで人をやって尋ねたら、その日のうちに帰ったと言う。所々尋ねたが分からず、今朝、死骸を見つけたと、役所へ報告があった。そこは村上の持分なので、町役人が立会に出るように」と。それで、久保多町、加賀町の町役に聞いたら、どちらも、そこは村上町の分ではないというので引き取った。
(・・・普請の上がり酒でも飲んで川へ落ちたのでしょうか。気の毒ですが、ま、ここまではなくもない話。町役人も当方には無関係と、面倒なことにはかかわりたくないということでしょう。ところが、翌日それはとんでもないことだと話は急展開・・・)

<3月23日> 昨日の場所は村上町の分だ。元々の境は川の中央だった。それが川を〆切って堀川へ流れを落としたので元の川が細くなって、堀川を本流だと思うようになった。その向こう岸だから下度村の分だとしたが、これだと大変なことになる。将来、境論争になったら、下度村から昨日のことを証拠に出されたらどうする。昨日の報告は大いに心得違いだと、御役所へ申し上げた。
(・・・概略はこうですが、記事には昨日の間違いの理由を長々くどくどと書いています。川の境界は12,3年前に調査があって明らかにしたのに、その後、水流が変わったり下度村側の川原が耕地になったりして、勘違いしたのだと。一晩経って、町役人の誰かが、これは大問題だと気づいて慌てたのでしょうね。今でもよくある話・・・)
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娘を売り飛ばされた父親と売り飛ばした悪党の一件 (巻13-p16、p20、p26)
<4月26日> 羽黒町・七右衛門から、親類、組頭、年寄連名で願書が出された。
(・・・以下は、願書の内容です。町役場を通して藩役所へ差出すのだと思います・・・)
「私の娘きさが、加賀町目明し菊次に奉公していたが去年10月、家風に合わないから暇を出すと、菊次方に前からいる私の兄・作兵衛を通して連絡があった。何とか2月まで勤めさせてほしいと頼んだが、11月5日に作兵衛が来て言うには、娘は湯沢村の常蔵の所に行っているので、兄弟の誰かを迎えにやった方がいいと。その時は、ちょうど私は留守にしていて、その後8日になって、二男を湯沢村へ迎えにやった。ところが、常蔵の家内が言うには、昨日までいたのだが今朝常蔵が連れて出て、どこへ行ったか分からないと。
すると12月頃、常蔵がきさを売って金にしたと風聞があった。菊次が、作兵衛を常蔵方へやって調べさせたら、その通りだと分かった。それで、どうか娘を取り戻してくれるよう頼んだら、菊次と作兵衛とで湯沢村へ行った。常蔵の家内が言うには、夫は2日前に出奔したと。
仕方なくそのままにしていたら、2月に常蔵が帰ってきたと聞いた。すぐに菊次に娘を取り戻してくれと頼んだが、菊次は内外取り込み中で延び延びになっていた。すると、小町・鹿蔵が、常蔵に頼まれたとやって来て、娘の件は金で済ましてくれないかなどと私の困窮を見透かして言う。そんなわけにはいかないと、親類と相談の上、忰・銀太郎を鹿蔵同道で湯沢村へやり常蔵を取り調べたら、娘は新潟・毘沙門嶋与平次へ金15両で売ったが、その金は同腹の者へも分けたので弁金する力もないなどと我儘非道の挙動で、この上強く掛け合えば、悪党・常蔵のこと、どんなことをするかはかり難く、私は近年困窮はしていても、御法度に背いて娘を売婦にしようなどと少しも思っておらず、娘を悪党につれていかれて嘆かわしくてたまらない。それで、恐れ乍ら水原の御役所(代官所)へ訴えて常蔵を取調べていただき、娘を取り戻したい。ついては、添え状を頂きたくお願いします。」
( ・・・ここまでが願書の写して、以下は日記の本文・・・)

この願い出を受けて、(町役場が)29日に七右衛門と菊次を呼び出し、聞き糺したところ、願書の通り違いないことが分かった。ただ、菊次が言うには、きさの奉公は七右衛門に頼まれたのではなく、(菊次の所に前からいた七右衛門の兄の)作兵衛が自分の姪だから使ってくれと言うので去年8月からこの2月まで給金9貫文で置いたのだが、去年10月下旬、きさが自分の用事で塩町へ行くと言って出た間に、作兵衛に心根の分からない娘だから暇を出すと断り、その後七右衛門が2月まで置いてほしいと頼んだことは私には通じていなかった。だから暇を出してからどこに行ったのかは分からなかったが、10日ばかりして湯沢村常蔵から、きさは自分の所にいるから早速迎えに来るよう作兵衛へ連絡があったのだと。
(・・・湯沢村は幕府領なので、水原代官所へ訴える。そのためには、村上藩の添え書き(添簡)が必要だということ。それにしても、七右衛門と菊次と、少し言い分が違う。常蔵はすぐ返したかったが、作兵衛を間に挟んで両者の情報には行き違いがあったのか? それはさておき、この続きはどうなったか。日記をくくって、関係するところを拾ってみると・・・)
<5月4日> 羽黒町・七右衛門よりの願書は、奥書・印形しないで水谷良蔵様へ御添簡をお願いした。七右衛門と菊次を取り調べたところ願書内容に相違なく、かつ七右衛門は、この問題で費用がいくらかかっても仕方がないからぜひお願いしたいと強く願っているので、いかが取り計らうべきかお伺いしたいと申し上げたところ、まずは、その願書を預り置くと仰せられた。
(・・・正式の願書は、町役人の奥書押印で御上の役所へ上げるもの。七右衛門の願書は、内々の扱いで藩の役人へ伝え、願書は藩役人の預りとなった。藩役所が「良し」となれば、正式文書にして上げるという手筈なのだろうが、さて、その結果は?・・・・)
<5月10日> 羽黒町・七右衛門の御添簡願のこと、娘の居所が分かっているのだから、まずはそこへ行って受け取るようにするべきであって、御上に御苦労をおかけしないようにするべきで、それもしないで手を尽くさずに御添簡を願い出るなど相成るまじきと仰せ付けられた。もっとも、居所が知れないのであれば、これまた仕方のないことで、きっと居所を知っているだろうから、やはり(先方へ)出かけて行って手を尽くしてから、願い出るようにと、仰せ聞かされた。このことを、助左衛門と九郎左衛門に伝えた。
(・・・もっと自分たちでやるべきことがあるだろう、それをやらないで安直に御上に頼るな。なんとも非情な回答です。この件は、この後の日記を探しても出てこないので、公の扱いとしては終わったということでしょうか。もしかすると娘の側にも事情があって、単純なかどわかしや人さらいの悪事ではないという理由なのかもしれません。最後に出てくる人物二人は、最初の願書の連名者でしょう。それにしても、湯沢村・常蔵のもつネットワークに驚きます。電話も車もない時代、村上から新潟まで、人とのつながりを持って自在に活動しています。それに比べたら、役所の頑ななこと。当時は、藩領や幕領は独立国に近く、互いの支配領域を越えた公的活動は煩雑な事務になるのでしょう。七右衛門たちは、もどかしい思いでいたに違いありません。庶民のそんな思いが全国に積もり積もっていて35年後の明治維新となったと考えれば、全国統一中央政府の出現が理解できます。歴史は、庶民大衆の不満が発酵して英雄がそれを敏感につかんだ時に動く。これが歴史の法則のようです・・・)
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疫病流行り、町々邪気払いの鉄砲をぶっ放す (巻13-p38~p40)
<5月27日>  去年の暮から疫病が流行り出し、この頃は町中に広がった。御役所に邪気払いの鉄砲をお願いしたところ、以前流行の時に公儀からから出された薬法書もあるからそれを町中に知らせるよう仰せ付けられた。それで「日記」を調べたら控えがあったので、それを寄合の時に知らせた。
(・・・と記して、以下に享保18(1733)年に出された薬法11項目を列記。興味ある内容もありますが、長いので省略して、次は町々の年寄への申達内容の写し・・・)
廻状を以て申達する。しかれば、町方に疫病流行につき、邪気払いの為鉄砲をお願いしたところ願いの通りに仰せ付けられた。明28日天気次第、昼時より町々へ御廻りなされるから、町々、蓬刈り取り置くように。もっとも、一町に一放し(一発)なので、もし町の長い町で二放し願いたい町は今日中に申し出ること。御道順は次の通り。
(・・・以下、町の順番はじめ、鉄砲当日の細かい手筈など、長い記事が続く。28日は、前夜来の雨も上がり無事鉄砲打ち放しの記事がある。興味深いのは、「蓬(ヨモギ)を刈り取り置くように」との指示。特に説明はないから、そう言えば当時の人にはみな分かっていることなのだろう。単純に端午の節句と同様、邪気払いのためだろうか。それとも別な意味があったのだろうか。調べてみると、鉄砲と蓬には深い関係もあるようだ。鉄砲に必要な火薬は、当時は蓬などの植物に屎尿などをかけて発酵腐敗させるという手法でアンモニアから窒素を抽出し、火薬の原料である硝酸を造ったということなので、空砲をぶっ放して高価な火薬を消費する代償として、蓬を調達させたのだろうか。いずれにしろ、鉄砲師範を中心に仰々しい隊列が大仰に町々鉄砲をぶっ放して進み、それを正装した町役人が迎えて道端に居並ぶ光景が目に浮かぶ。皆、耳に手を当てたりして・・・)
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村上の町人、旅行中に仙台で行き倒れか? (巻13-p56)
<7月5日>  御役所より御達しがあった。この度仙台から引き合い(問合せ)があって、庄名町の岩船屋権八という塗職人が善光寺参りから江戸に出て仙台へ回り、そこで病死したという。庄内町に権八という者がいるか、忰は八十松というだが、調べるようにと仰せ付けられた。庄内町へ伝えたところ、権八も八十松もいないと言う。それで御役所へ申し上げたら、書付にして差出すようにと仰せ付けられた。
(・・・この記事に続いて、庄内町から提出された書付の写しが載っていて、そこには、「5月19日に仙台城下南材木町浅野屋利蔵の屋敷前に病気で倒れていて、名前と身元を話しただけで、他にはよく話せない中風の大病で、投薬のかいなく病死した」ことが書いてあるので、記事以上の内容が役所から庄内町に伝わってたようだ。結局該当者はいなかったので、聞き違いか言い違いだったのだろうが、それにしても、こんなふうに丁寧に照会がなされていたことに驚く。道中手形には。どこで行き倒れてもそのまま埋葬してかまわないなどと書かれているのが普通だったといわれているが、骨だけでも家族の元へ返したいという当時の人々の思いだったのだろう。善光寺参り、江戸見物、仙台見物と、なかなかの旅行者だが、どこの誰だったのか・・・)
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お金を落とした人はいませんか? (巻13-p131)
<12月18日> 御廻状をもって御達しがあった。「追手門先に金子を拾った者がいるので、落とし主がいたら申し出るよう、(各町へ)通達するように」
(・・・拾った金はきちんと届け出る、それをきちんと広報する。なかなか、江戸時代の治安はしっかりしている。教育と刑罰の相乗効果だろう。現代と変わらない。この後、関係する記事があるかと探したが見つけられない。誰も申し出なかったのか・・・)
 
天保4(1833)年
機を見て敏 チャンスは逃さない (巻13-p190)
<7月5日> 塩町・甚之助から藩役所への願出書の写し。<概略>「この度、柳生戸街道が切り開かれたので、出入諸品取扱いを仰せ付け頂きたい。口銭の内、歩合通りの冥加金を上納します。私の家は元来小国の出で、先方には縁者もいるので、ぜひお願いします。」この願書を見ていただいたところ、(藩役所の)お預かりとなった。
<7月6日> 昨日の甚之助の願書は御聞き届き成り難いと取り下げられた。その上で、街道の荷物取扱いする者がいなくては、やってくる人も迷惑するとの話もあるから、当分、甚兵衛が世話するようにと仰せ付けられたので、甚兵衛へ即日伝えた。
(・・・柳生戸が起点の出羽街道、村上藩がこの年に開いたのだろうか。早速商売の場にしたいという申出、さすがは商人。しかも、小国町にはつてがあると、なかなかうまい。藩としては独占権を与えるわけにはいかず、「ま、やってみればいいさ」というところだろうか。需要のある所に供給あり、経済の原則。事業意欲旺盛な商売人はいつの時代も世を開いていく・・・)
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