北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
6 初代城主は、いつ、どこから?

(1) 三潴左衛門尉、遥か筑後国から

 上関城主三潴氏の始りは、三潴左衛門尉(みつま・さえもんのじょう)という人からといわれ、「関川村史」には、次のように書かれています。
 「鎌倉幕府は、筑後国三潴荘(福岡県三潴郡三潴町)出身、三潴左衛門尉を桂関の関吏に任命したと伝えられている。」

 記録された文書は残っていなくて、言い伝えだけです。しかし、一般の人が文字を書くということがほとんどなかった時代、口伝(くでん)は確かな記録手段でしたから、三潴氏にかかわるこの言い伝えも信憑性のあることと考えたほうがよいと思います。
 三潴は、三潴荘(みづまのしょう)の地名を名字に名乗ったもので、左衛門尉とは、朝廷から授けられた官名です。実名は伝わっていません。これは、当時、実名で人を呼ぶことはなく、地名と官名で呼ぶのが普通のことでしたので、伝わらないのも不思議ではありません。

 筑後国(ちくごのくに)三潴荘は、今の九州福岡県の三潴町で、現在は市町村合併により久留米市になっています。その九州の人が、遥か離れた上関の地にあった桂関(かつらのせき)の関吏(せきのつかさ・関の守将)として派遣されたというのです。


 鎌倉時代のいつのことか、なぜ遥か九州の地から上関に来ることになったのか、これについては全く不明です。この謎を探るには、この時代の状況から最も妥当な時期と理由を推測しなければなりません。詳しくは「補足7」に述べます。

 以下は、筆者の推測に基づく想像です。今から828年前のことです。

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信越国境の峠を越えて
 時は文治(ぶんじ)元年(西暦1185年)、秋遅く、信越国境の野尻坂峠を越えて越後国府への道を急ぐ若侍一人、峠を下った先の関所に入り大声で名乗りを上げる、朗々としたその声。
 「筑後国の住人、三潴左衛門尉(みつまの・さえもんのじょう)と申す。鎌倉の大殿の命により、北越後は桂関の関吏として赴任する途中、まかり通る。」

 若侍の名は、三潴左衛門尉、筑後国三潴荘から、鎌倉の大殿源頼朝(みなもとの・よりとも)の命を受け、北越後の桂関の関吏(せきのつかさ)として赴任するため通過するとの口上。
 供侍二人に荷駄の馬一頭を従えて、年若ながらも、堂々とした立ち居振る舞い。10日ほど前に鎌倉を立ち、この日ようやく目的地の越後国に踏み入ったところ。

 関所では、既に越後国府から事前の達しがあり、丁重に慰労の言葉を掛けられて通過。その関所を出たところで、一人の武士が左衛門尉の前に出てひざまづき、口上を述べる。
 「若、お待ち申しておりましたぞ。長旅、さぞやお疲れのことでございましょうが、ここまで来れば、越後国府までは、あとわずかでございます。」

 侍は、左衛門尉の幼い頃からの守役で三潴家の老臣、口上に続けて話すには・・・・
 「郎党の者10名ほど、すでに越後国府にあって、諸手配に走っております。また、御一族様ならびに残りの郎党40名ほど、蟄居潜伏の各地より続々と桂関を目指しております。早い者は、間もなく彼の地に到着して、諸手配に走り回る手筈となっております。」

 若侍は鷹揚に頷きかえし、
 「おお、そちも息災であったか。諸手配のこと、まずは重畳。夕暮れも近い、越後国府へ急ぎ参ろうぞ。」

 蟄居潜伏(ちっきょ・せんぷく)とは罪人のような言葉、なぜなのかは、おいおい分かってくること。


越後国府から桂関へ
 左衛門尉一行は、越後国府(今の上越市直江津)に着いて、一旦旅装を解き、宿舎に入る。
 翌日からは、国衙(越後国の役所)に赴き、越後守(えちごのかみ・)安田義資(やすだの・よしすけ)をはじめ在庁官人たちへの挨拶と赴任の諸手続きに数日忙殺される。

 この年の8月に、源頼朝から越後守に命じられたばかりの安田義資からは、特に北越後の警備の重要性について、左衛門尉に詳しく話があった。それによると・・・・

 この年、文治元年(1185年)3月に壇ノ浦(だんのうら)の合戦で平氏は滅亡したものの、治承(じしょう)4年(1180年)からの5年にわたる源平の戦乱で、越後国の支配者は城助職(じょう・すけもと)から木曽義仲(きその・よしなか)に代わり、この二人も戦乱の中で敗走あるいは討死し、越後国は支配者空白となり荒廃の状況にある。
 そこで、この年8月朝廷は、越後国を頼朝の知行国(ちぎょうこく・支配国)とし、越後守に安田義資を任じた。越後国を鎌倉幕府の直轄国として、復興を急ぐことになったのだ。そのため幕府は、頼朝の御家人(ごけにん・家臣)たちを越後国各地の地頭(じとう)に任じて、次々と手を打ってはいるが、油断はできない。
 越後国内には、まだ平氏方の残党もいて、特に北越後には氏の一族郎党が多数残っている。その上、10月には頼朝の弟義経(よしつね)が兄に反抗して挙兵し、討伐されたが、その後行方が分からない。陸奥の藤原氏を頼って落延びようとしているに違いないという噂もある。越後国内の治安維持、食糧増産、交通路確保、そして越後と奥羽の国境警備、これらは喫緊の最重要課題だ。

 義資からの話のあらましは大概そのようなことで、左衛門尉の役割は思っていた以上に重いものがあった。

 重大な使命をもって、左衛門尉主従一行は北越後桂関を目指して国府を旅立つ。
 越後の晩秋は、鉛色の空の日が多く、海も荒れる日が多いが、たまに好天に恵まれることもある。そのような幸先の良い日を選んで、直江津から船に乗り順風に運ばれて日本海を北上、荒川河口の海老江の津に上陸して桂関に到着。


桂関にて
 桂関には、国内各地に散らばっていた一族郎党が三々五々集結しており、すでに左衛門尉が関の守将に就くための諸準備が着々と進行中。すべては、守役だった老臣の手堅い手配によるもので、必要な物資・武具等も各地から集められていた。

 桂関の関吏はそれまで、平氏方の氏の配下の者が勤めていた。氏は、下越後一帯を支配下に治めていた強大な氏族であったが、氏の長である城助職(後に長茂(ながもち)と名乗る)は、前年の元暦元年(1184年)に幕府の捕虜になっていて鎌倉で蟄居謹慎中だった。このため、氏の一統も無謀なことはできず、従順に左衛門尉に桂関を引き渡してはくれたものの、関所の施設は荒れ放題、めぼしい物品はすべて何処かへ運び去られた後という始末だった。

 左衛門尉の一族郎党は桂関の立て直しに全力をあげた。また、関の上流域が桂関の領地となっていて、そこの領民とともに、食糧増産のための農地開発に力を注いだ。左衛門尉は、もともと筑後国三潴荘の開発領主の出であったから原野の利水事業には詳しく、荒川の氾濫原を農地に開発していった。これによって領民の信頼も得、国衙領である荒川流域から産出される鉱物資源や水産・林産資源の確保も順調に進み、安田義資から期待された役割を着実に果たすことができたのだった。


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 こうして、三潴左衛門尉は、上関城主三潴氏の始祖となったのでした。以後、慶長3年(1598年)に上杉氏会津国替えで上関城が廃城となるまでの413年間、左衛門尉の子孫が上関城主であり続けたことになります。

 ところで、左衛門尉の時代には、まだ、戦国末期のようなきちんとした縄張りの上関城は作られてなかったでしょう。
 城山の麓には関所のための役所や屋敷は整えられていたでしょうし、城山の上には、関所の倉庫群が建てられ、砦のような防護施設も作られていたことでしょう。ただ、まだ城といえるものはなかったと思います。ですから、正確に言えば、左衛門尉はまだ城主とは呼ばれない状況で、桂関の宰領で家臣領民からは「殿」と呼ばれる存在だったと思います。

 桂関が城らしくなるのは、周囲に山城が作られていく南北朝の動乱とその後に続く越後の戦国時代になってからではないかと思われます。


城氏の叛乱
 左衛門尉着任から16年後の正治3年(1201年)4月、北越後で大事件が発生しました。氏の一族が奥山荘(おくやまのしょう)鳥坂山(とっさかやま)城に籠もって、鎌倉幕府に反抗する兵を挙げたのです。

 これには、いきさつがありました。上で述べたように城氏の長・城長茂は、鎌倉で捕虜となって謹慎していましたが、その後、頼朝が陸奥国(むつのくに)の藤原氏を攻撃したときには、頼朝に従って参戦し手柄を立てるほどの御家人となっていました。それが、その頼朝が死去し、長茂を庇護していた有力御家人の梶原景時(かじわらの・かげとき)も滅亡してしまうと、鎌倉に居場所を失ったのでしょうか、この年1月、京で反幕府の兵を挙げ、敗れて吉野に逃げて殺害されてしまうという事件が起きました。

 この長茂の挙兵に呼応したのでしょう、4月になると、氏の本拠地であった奥山荘鳥坂山城(胎内市)で、長茂の甥資盛(すけもり)とその叔母(長茂の妹)板額御前(はんがく・ごぜん)らの氏一族が、反幕府の旗を掲げて蜂起したのです。
 幕府は直ちに、奥山荘の隣加治荘(かじのしょう)の地頭で、このときは上野国(こうずけのくに)にいた佐々木盛綱(ささきのもりつな)に命じて鎮圧軍を派遣しました。盛綱軍が鳥坂山城を攻撃した戦いは、板額御前が女性ながらに弓の名手で奮戦したことで知られています。この戦いに、幕府側として関郷から内須川左衛門尉が参戦したことが記録に残っています。(くわしくは補足6に述べてあります。)

 鳥坂山の戦いの際には、直接参戦することはなかったにしても三潴左衛門尉は、出羽国側から氏への加勢が押し寄せてくることのないよう、また、氏方で出羽国方面へ逃亡する者を逃がさないよう、桂関の警備を一層固めたことでしょう。さらには、関郷で氏残党が騒乱を起こすことのないよう警戒を強めたことと思います。
 左衛門尉着任後、最も緊張の走った出来事だったでしょう。

 間もなく、城氏一族の叛乱は、佐々木盛綱軍の働きによって鎮圧されてしまいます。

 氏は、秋田城介(あきたじょうのすけ)の平繁茂(たいらの・しげもち)の子孫が越後に土着して、奥山荘を中心に開発を進め、下越後一帯に大勢力をもっていた豪族でした。永承6年(1051年)11月、陸奥の鬼切部の戦いで大敗して、越後国へ逃れ来た城氏一族が荒川支流女川の流域から開発を進めたのが、奥山荘のはじまりともいわれています。女川流域にある光兎山(こうさぎさん)への登山道の途中に奥山と名づけられた山がありますが、ここが奥山荘の名称の起源といわれています。

 さしもの大豪族氏も時の流れには勝てず、鳥坂山の戦いの後、板額御前の勇名を残して滅亡し、その勢力は越後国から一掃されてしまいました。この後、越後国は左衛門尉をはじめとして鎌倉幕府の御家人たちによって治められていくことになります。


 それでは、なぜ、三潴左衛門尉は遠い九州の地からはるばる上関の地へ赴任してくることになったのでしょうか。その理由を探って物語を先に進めましょう。



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