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2021.5.27(木)国際情報大学公開講座の講義資料です

プロローグ


十三峠最難所大里峠の大蛇伝説


越後米沢街道十三峠道の魅力

~起点関川村における歴史的意義~

2021.5.27()  渡 辺 伸 栄

越後米沢街道十三峠道には、今も興味深い史跡が残り、そこには
先人が織り成した数々のドラマが潜んでいます
とりわけ、峠道の起点として発展してきた関川村にとって、
街道で暮らした人々の足跡は貴重な歴史遺産です

そんな古街道に歴史を訪ねる楽しさを語ってみます

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1 十三峠道とは

1) 越後米沢街道

新発田起点、黒川、大島、下関、上関、大内渕、玉川、小国、米沢へ


 「越後志料」関川村史


ほぼ現代のR113 沿い・・・違いは峡谷を避ける山越え道であること


2) 羽越国境の山岳地帯を越える十三の峠


最高点は宇津峠   高低差は大里峠=最難所


<峠とは、山を越える道 しかし・・・>


 峠は山頂を避ける・・・稜線の最低鞍部につくる

   さらに切通して斜度を減らし、坂道には石畳を敷く

   旅人が歩く道・・・それだけでなく

   越後米沢街道は、
     人・牛・馬が荷物を運ぶ物流の大動脈
     ・・・嘉永の改修では、道幅3


2
 十三峠の地政学的位置  ~中世 伊達氏の野望~

1) 出羽内陸と越後平野を繋ぐ

米沢盆地、小国盆地、関川盆地、越後平野の位置関係


日本海と荒川は、海川の水運と塩の道

立ちはだかる山岳地帯

米沢盆地を領有した伊達氏の狙い

大永元年(1521年)伊達稙宗、大里峠開削

 <今年は奇しくも大里峠500年>

「越佐史料 巻三」著者 高橋義彦(吉田東吾の実弟)
 刊行 大正14~昭和6

出典は「米沢里人談」 享和元年(1801)刊


2) 北越後と米沢伊達氏の関係

・ 応永30(1421)年 越後応永の大乱(守護と守護代との戦) 守護方、伊達に援軍要請

・ 応永31(1424)年 伊達一族滑沢、守護代方の黒川館を襲撃 黒川基実切腹

・ 永正61506)年 越後永正の乱(守護と関東管領との戦) 伊達、黒川方面出兵

・ 大永元(1521)年 大里峠開削 稙宗の野望(稙宗 晴宗 輝宗 政宗)

・ 大永21522)年 陸奥国守護職(前例なし…吉川弘文館「日本中世の歴史」)

・ 天文91540)年 養子騒動 稙宗の子を越後守護上杉定実の養子に画策
  越後騒動 米沢大乱


大里峠開通以前の古道



分岐点の沼に追分石
     古道は、沼、金丸、八ツ口、越戸、輿庭(沖庭)、小渡へ

3) 伊達政宗の小田原参陣とその後

・ 天正17(1589)年 芦名討伐6月黒川(会津)入城

・ 天正18(1590)年

  4/5 母による政宗毒殺未遂 4/7 弟小次郎刺殺 (遅参言い訳、つくり話説)

   小田原参陣へ出立

  4/15大内で引き返し (関東北条氏勢力下…遅参言い訳?)

  5/9 100騎で黒川城再出立  米沢城に立寄り越後通過<十三峠越え>

  6/5 小田原到着

  6/9 秀吉謁見 114万石から72万石に減封 黒川城没収米沢城へ

・ 天正19(1591)年 岩出山へ移封 蒲生氏郷会津入部

・ 慶長 3(1598)年 上杉景勝・会津移封



4) 上関城と三潴氏

ア 出羽内陸部への要衝上関に「桂の関」が置かれた (関川村史)

上関の位置


道の駅「桂の関」


イ 鎌倉幕府は、三潴左衛門尉を「桂の関」の関吏に任じた
                ・・・上関城城主三潴氏の始
(関川村史)

  桂の関に築かれた上関城は、伊達口の守り

 林内に今も残る遺構 小規模ながら整った城構え

 景勝の会津移封により廃城となるまで、代々の城主は三潴氏

ウ 三潴出羽守政長の活躍  「謙信公御書集」より



永禄4年(1561年) 謙信は3月~小田原包囲 8月~川中島 11月~越山(関東)

12
月、将軍義輝よりの使者大館藤安が越後に到着

謙信を関東管領に任命し、義輝の諱の一字「輝」を下賜、政虎⇒輝虎

御礼として謙信は、三潴出羽守を使者とて京都に派遣

太刀一腰・御馬一疋・黄金二百両を将軍家に献上

三潴出羽守、将軍義輝より御刀(肥前国吉)一腰拝領、無事帰国

 黒田日出男「謎解き 洛中洛外図」(岩波新書)は、この記事が謎解きの鍵

国宝洛中洛外図は、信長から謙信へ ⇒ 米沢上杉博物館に       


エ 慶長3年(1598年)上杉景勝会津移封

 上関城は廃城となり、出羽守の子三潴左近助長能は、小国城代に

 小国城址探訪・・・今も残る土塁、その傍らに住む武士の子孫




3 近世 宿場の発達  ~宿場で暮らす人々 街道を往く人々~

1) 陸の番所(口留番所)と川の番所(瀬番所)


  上関城の地に、江戸時代を通して陸と川の番所


口留番所の役人は代々清水氏・・・上関共同墓地に「清水様の墓」
 

「関川村史」の記述・・・と一致

 6代近右衛門政峰は浄蓮院清誉西進居士

 9代近右衛門政益は水原代官とともに江戸出張中、文久2年(1862年)10月没


寛政13年(1801年) 瀬番所の高札   (「近世関川郷史料三」から)

 禁止令
  ① 武具の出入

  ② 鉛の他国出し
  ③ 焔硝の他国出し
  ④ 他国の米穀の川下げ
  ⑤ 陸方役物船積上下
  ⑥ 船の無断通行

2) 宿場の発達と物流
 前提理解①・・・宿場=旅人の泊地 < 物流の拠点(宿場=「駅」)
           公用の物品を無料継送+特権として宿屋と運送業(駄賃稼)

 前提理解②・・・宿場=大島(川港)・下関(発展)・上関(番所2、船着場)


 ア 下関町の発達


(「歴史とみちの館」のジオラマ)

イ 上関と下関の争い

文化7年(1810年)の「済口證文」(歴史館所蔵・平田家文書)



両村宿場の基本は、月半分ずつの交代制
武家荷(公用)は、非番の村が担当=負担軽減

ところが

下関当番なのに、
を越えてきた荷を上関でおろさせたと、下関が訴訟

上関の言い分は、元々上関が宿元で、月半分交代なのは大島から来る荷だけ


それ以外は全て上関でおろして継立てて来た

    ↓

仲裁人を入れた熟談の結果、複雑な例外規定を取り決めて、合意となった(済口證文)

  その要因が・・・十三峠中最大難所の大里峠の存在

   峠を越えてきた荷は、一刻も早く上関でおろして継送りしたかった

① 玉川からの荷は、下関が当番でも上関でおろし、下関の人馬で運ぶ

 しかし

② 下関当番の時  下関の人馬と玉川の人馬が途中交代した分と

   紅花・青苧・その他売り荷は、上関でおろさずに下関へ送る

 さらに

③ 米沢藩の年貢米が上関蔵所へ来る場合

   空牛や他の荷を積んだ牛日々半々に分けて下関へ継ぐ

   半々に分け難い時は、翌日の牛で差し引いて平等にする

   下関まで来た牛が玉川へ帰るときの荷は、上関で差し繰りしない・・・などなど


ウ 大島と両関の争い ~陸運と川運の競争と共存~

「近世関川郷史料三」(関川村発行)に、
大島村川港関係の係争文書9通(重文渡辺邸所蔵・渡辺家文書)



(ア) 競争

 大島村の基本は、川港で荷揚げさせ、陸を運んで駄賃収入を得ること

  これに対して

 大島川港を通過して、上関の舟着場まで舟で運びたい人たちがいる


 寛保元年(1741年) 訴訟 ⇒ 幕府の裁定

    米・酒は百姓産物で川運送自由

    その外の商い荷物は、大島村で陸揚げし駄賃でもって宿継ぎすること

 それでも

 延享3年(1746) 上関下関両村から、巡見使へ願書

   上流山方の者が、木材を下流へ運び、
   帰り舟で材木、干鰯、塩、茶等自分荷物積上るのに

   幕府裁決以来、大島で舟留めされて困っている

   特に、肥鰯、小糠、荏粕、材木、屋根小羽・板木・酒桶木・輪竹は、
   馬附に成り兼ね、
川上20ヶ村困窮している

   古来の通り、旅人の荷は別にして、
   自分渡世物は船積自由にできるようにしていただきたい


() 共存

  明和2年(1765年)、大島村、下関村、上関村から幕府勘定所への文書

    米沢藩の越後出し米を上関から海老江湊まで川下げされては、村方渡世なり難く
    陸送にしてほしいと大島村から願出た
    それで
    米沢藩では、川船運送は止めるということになった
    なので
    三村から幕府への願いは取り下げます


エ 大島宿の生命線・赤谷橋



 延享4年(1747年)、大島村庄屋三太郎から川端(鶴岡)御役所宛 (平田家文書)

   赤谷橋が荒川の洪水で川原になったので、新たに橋場になる場所を決めたこと

   架替え費用は白河藩(赤谷村・土沢村の領主)

   人足は、前々からの通り、大島村・辰田新村・赤谷村・土沢村が負担すること

   なぜ橋から遠い大島村が関わるかというと

   橋の東は辰田新村、西は土沢村、川は赤谷村なのだが

   大島村の者が、米沢街道のこの橋を昼夜「宿場往来」するから


 宿場往来とは、荷物の継送りの事

  大島村の任務
       ・・・川港に陸揚げされた荷物を次の宿場下関・上関まで送り届けること

  もし、橋が通れない事態が生じたら一大事、宿場の稼ぎに影響




3) 峠を行き交う人々

  ア 物流の担い手

  () 牛馬

    基本は、街道は馬
  
   しかし、米沢藩が小国蔵米等輸送円滑化のために牛を奨励し、牛稼ぎ増加

   元治元年(1864年) 宿駅馬方助成願書(「近世関川郷史料三」)

    近年牛が多くなり、馬方は12疋で御伝馬、御鉄、御出米を公用運送しており
    売荷を付け送り(継送)する駄賃稼ぎの余地がない
    そこで、問屋へ、牛や人の運送にも課税して馬方を助成するよう申し入れた

                  問屋・・・宿場で荷物運送の差配をする所=駅

  () 背負荷

   享保19年(1734年) 評定所(幕府)への訴訟と裁定(「近世関川郷史料三」)

    岩船町商人の訴え
     商荷は人足を雇って通運していたのに
     3年前から上関下関が無体に直背負荷物を差押え
     宿継の賃銭を出させられて難儀している

    上関下関の返答
     軽荷の直背負は別にして、二つ付き三つ付きの重荷は継送してきたが
     近年直持ちが多くなり、継人馬減少して困窮している

    評定所の裁定
     通馬、通人足、荷主直持は自由が通例、無体に下ろさせ宿継は不法

  () 行商人

   越後桃崎浜からショイコ(運び屋)が、
   小国町まで毎日のように乾物、塩魚などを運んだ

    夜中に桃崎浜を出、片貝か沼で昼食、
   大里峠を一気に越え、萱峠の宿で泊、翌朝小国

   帰荷は、煙草、麻布(青苧)、小豆、ぜんまい、わらび粉、わらび、栗など

   帰りは上関で泊、翌朝桃崎浜

「小国の交通」(小国町発行)より


十三峠に限らず、峠越え古道は行商人の道


関川村内の古道探索

 名倉古道(古米沢街道)
後醍醐天皇側近藤原藤房が旅の途中祀ったという名倉観音跡

 イ 旅人
 () 良寛

詩編2「米沢道中」「宿玉川駅」


文政4(1821)年秋~翌文政5(1822)年秋(6465才)、十三峠を越えて米沢往復したことを
川内芳夫氏が、著書「良寛」(考古堂)で論証



上杉治憲(鷹山)~明和4(1767)年襲封・文政5(1822)3月卒72才~の治世に惹かれた旅


十三峠の泊地は、玉川の玉泉寺・・・ならば、その前日は?


関川村土沢の寺来宝院に伝わる良寛の書

玉川の前日は来宝院に泊・・・に、違いない

() イザベラ・バード         日本奥地紀行

宇津峠の案内板



明治11年(1878年)7

10日 黒川
    子どもたちは朝から晩までキュウリをかじっている、母の背の赤ん坊ですら

11日 沼
    滝のような雨の中、防水紙の合羽で、日本の中央大山脈のふところにいる

12日 市野々
    額に汗してパンを食べ生活費を稼ぐ、この国でまだ物乞いを目にしていない

13日 小松
    (赤湯に着いて)米沢の平野はエデンの園、自立した東洋の
アルカディア

それで、山形県では、「十三峠=イザベラ・バード」(の感)

  明治14年(1881年)県道新潟山形線(現在のR113)着工(18年完成)の3年前



() 旅人のセーフティネット

① 「助け」の制度・・・ 宇津峠、萱野峠、黒沢峠に助け宿

  不慮の病気・災難にあった旅人を収容・手当する宿屋兼茶屋
  ・・・米沢藩が扶持を給与

 (「小国の交通」小国町発行)

② 宿場の役割    「村上町年行事所日記」から

  寛政111799)年
    村上町の女二人(一人は4才の女子連れ)が伊勢参りの帰途
    下諏訪宿で悪者にかどわかされそうになり宿場の人が救助
    「宿場送り」で村上まで送り届けた
    人足一人つけ路銀なく宿場持ちで
    村上藩は金三百疋を下諏訪町へ送った

    逆に送り届けた記事も
    寛政51793)年、南部二戸郡からの参宮者3人を継送り


    外にも、旅先での行き倒れ照会の記事が折々記録されていて、
    旅に出る人々の多かったことが知れる


「関川歴史とみちの館」古文書解読会  万延元年道中記

上関と下関の男たち5

万延元(1860)年1119日出立~万延21861)年26日帰国
3ヶ月の旅



日本の街道は世界で一番安全だった・・・幕府の施策 (金森敦子「伊勢詣と江戸の旅」)

旅人の保護=街道の発達=物流の発展=社会の発達


4) 豪農渡辺家と米沢藩              重文渡辺邸


ア 米沢藩上杉鷹山の藩政   藩主17671785後見~1822死 藩政55

・ 「天明三年の大凶作大飢饉には、他藩と違い領内には一人も餓死者がなく、むしろ隣国の飢民を救助する程であった」(川内芳夫「良寛」p200

・ 「徳川中期に全国一貧乏国で、藩を幕府に返還しようとするほど困窮した米沢藩にあって、領民を何よりも大切にし、七家騒動のような大障害を乗り越え、多くの改革で起死回生をした鷹山政治は、殆ど他に例を見ない程充実したものであった。」(同書p227

イ 渡辺家の支援


寛政3年(1791年) 米沢藩中老莅戸善政(鷹山腹心)宛   渡辺家当主と親戚3名の連署


当地へ御出張されてのお話で、藩が大変なことは分かりましたが、当方も不時の物入続きで手詰り、当惑しています。
ですが、先年、中殿様(鷹山)との約束なので
三千両差上げることにしました。

享保から文久まで 莫大な金融支援 宝暦から本格化

関川村は、米沢藩預り地

宝暦3年(1753年)~寛政元年(1789年) 上関に陣屋(出張所)

寛政10年(1798年) 渡辺三左衛門、勘定頭格450石知行取り 

ウ 今も残る渡辺家への下賜品(御礼の品)     鷹山直筆の書


上杉景勝書簡

幼児用弾弓


太刀と拵え(上杉博物館の展示目録)


5) 戊辰戦争  慶応4年明治元年(186898日改元)

  1月 鳥羽伏見の戦い

  5月 下関、米沢藩の前線基地

  6.6 藩主上杉斉憲、下関に出張  新発田藩主と会談失敗(6.7) 6.29 米沢帰陣

  7月 官軍新潟上陸

  8月 米沢藩、下関撤退  新政府軍、下関進駐

  8.12 榎峠戦 激戦死傷者多数 大里峠へ撤退

激戦の地・榎峠


   官軍会議所の看板(下川口の民家に設置)

戦死者の慰霊碑


 8.20 上関 渡辺利左衛門、降伏勧告の密使

 8.28 沼村で両軍講和

 9.4 米沢藩降伏


 京都での三潴清蔵(上関城主三潴氏の子孫)

 4.19 米沢藩京都留守居三潴清蔵、太政官から菊花紋大隊旗受領


 5月~9月  渡辺家当主の隠遁 米沢領内(現飯豊町)蟄居


6) 十三峠道の終焉

  ア 新道開削

    明治14年(1881年)県道新潟山形線着工

    同18年(1885年)完成 馬車道

        十三峠道から荒川沿いの道へ 現代のR113

    大正12(1923)自動車道

  イ 鉄道敷設

    大正12(1923) 坂町-今泉 測量開始  明治23(1890)の計画から33

            遅延理由  大震災1923大正12  不況1920戦後恐慌

            村上方面からの別案  柳生戸越え  桃川峠越え

    大正15(1926) 米沢-今泉 開通

    昭和6(1931)  坂町-越後下関 開通  今泉-手の子 開通

    昭和11(1936) 小国-越後金丸 全通  着工以来123ヶ月 


4 十三峠道は、花と景観と伝説と史跡の道

   歴史の道百選(文化庁´96) 日本風景街道(国交省´08

① 鷹ノ巣峠

     入口 





② 榎峠   入口


戊辰の古戦場






③ 大里峠       入口の板碑

 

畑集落跡



銅山跡

柄目木


峠の祠

敷石



凶霊供養塔 安政21855)年建立

天明元(1781)年1217日昼頃  病気の旅僧を米沢へ搬送中雪崩 死者9、蘇生7    

嘉永71854)年1217日午後 同じ場所で雪崩
             子連れの夫婦通行中、母と7才の子が犠牲に


④ 萱野峠    入口  三大大橋の一つ玉川大橋


地産地消の敷石



龍が遊ぶ山  足野水の馬の伝説


⑤ 朴ノ木峠    ブナの美林
 

峠の眺望 飯豊連峰

峠の聖観音

追分石 寛政91797)年

⑥ 高鼻峠


小国町展望


⑦ 貝淵峠       種沢集落 


車道に削られた崖の上に峠道


⑧ 黒沢峠     敷石の道







(⑨桜峠 ⑩才ノ頭峠 ⑪大久保峠(通行不可) ⑬諏訪峠・・・略)


⑫ 宇津峠
       弘化21845)年の道普請記念碑
  天保61835)年~弘化21845)年 10ヶ年の改修工事

 筆頭奉行の一人に三潴兵内(上関城主の子孫)の名



エピローグ  ~歴史は足下にあり~

大庄屋所からの回状  硝石製造の為の土集めに協力要請

カギは「福岡御代官所」

文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)まで現阿賀野市(旧水原町)に置かれた
会津藩の代官所

幕末、越後国内多くが会津藩領

もしかしたら・・・?

関川村→硝石(火薬)→会津藩→京都→蛤御門の変→戊辰戦争→新島八重

あるいはまた・・・?

関川村→年貢・御用金→会津藩→京都→新選組



・・・おわりに・・・

   「せきかわ歴史とみちの館」(歴史資料館)について


出羽内陸部と越後・日本海を結ぶ道の要として
古代から現代まで変わらずあり続けるわが関川村を表徴するために
館名に「みち」の名を入れています。関川村の歴史資料を保存展示する施設です。
国道113号「道の駅関川(桂の関)」と重文・渡辺邸の間に立っています。

館長の安久昭男さん、学芸員の田村舞子さん お二人には
この度の十三峠の歴史をまとめるに当たり、たくさんの資料提供と協力を頂きました。

国道113号をお通りの際には、ぜひお立ち寄りください。
(入館料300円)お二人が優しい笑顔でお待ちしています。

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