関川歴史館主催山城探索会、第2回目は加地佐々木氏の本拠・加地城。

櫛形山脈の南西端に位置し、R7を走っていても、R290を通っていても、存在は分かっていながら中々行く機会のなかった山城。
今回、地元の地理歴史に精通した講師の引率で、願ってもない形で訪ねることができた。

加地佐々木氏は、鎌倉時代初期に加地荘の地頭に補任され、以後、越後の中世史に数々の名を残した名族で、「上関城400年物語」でも取り上げた正治3(1201)年の城氏の叛乱(板額御前で有名な鳥坂山城の戦)でも、また、承久3(1221)年に後鳥羽上皇に呼応して願文山に挙兵した越後承久の乱でも、幕府軍として駆けつけ、叛乱を鎮めている。

その加地佐々木氏の加地城、幾百年経た後の今も、要害山中に山城の痕跡が数多く残っている。
幾重にも段々状に削り取られた切岸と曲輪、深い堀切(空堀)と土橋、郭の出入り口である虎口など明瞭に見て取れた。虎口は小口から転じたともいわれ、それが示すように、狭く曲がっている。外桝形がついていると思われる虎口も見られた。
いつも思うのだが、山を削り土を盛るそのエネルギーに感心する。命が懸かっていればこそのエネルギーなのだろう。

麓の平地部には痕跡跡形もないが、こうやって、山中に入ると明瞭に留めていることが歴史マニアの山城ファンにはありがたい。

山城の山頂(本丸)に立つといつも、当時の領主になった気分で、領内を見渡せる。この気分も素人マニアにはたまらない。
高山に登って天上界に上がった気分で地上界を見下ろすのも、もちろんいい気分だが、それとはまた違った気分のよさがある。きっと、遥か前代の人々の心境などを勝手に想像できるからだろう。

さて、加地城から少しはなれた住田地区には、大天城跡がある。合併前の旧加治川村の時代に公園として整備されている。
平安時代末の城跡と伝わっているとのことで、いわゆる中世の山城らしい痕跡はない。
ただ、興味深いのは、この城の城主の墓と伝わる石塔が、公園から少し離れた山裾の竹林の藪の中に静かに立っていることだ。
通称「鬼の墓」といわれているとのこと。なぜ鬼の墓かというと、大天城主・青鬼監人(あおき・かんど)からきているらしい。
ところが、講師の方の話では、地元の人は決して鬼の墓とは言わず、青鬼(あおき)様のお墓といい、墓前に行けば必ずお参りをするとのこと。
それは、青鬼氏が住民に敬愛されていた土着の豪族だったことによるという。
幾世紀経ても、口伝えに伝えられてきた口伝・伝承の重さ、意味が分かるような気がした。単なる伝説として軽く受け止めては決してならないことだろうと思う。
一般の人々が文字を使うことのほとんどなかった時代の口伝の重要性、信憑性を知る必要がある。

ともあれ、それやこれやで、今回も、大変楽しい意義深い山城探索会になりました。
博識の講師と歴史館の好企画に感謝です。
人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました
山歩紀行 2013

                 西穂山荘 2011.8.28撮影
  2013年6月21日 山城探索 加地城跡と大天城跡
            加地城跡(要害山)165.6m 新潟県新発田市

加地城の土橋の上に立って堀切(空堀)の深さを見る探索隊
  土橋は空堀を渡す土手状の橋

切岸の脇を登る探索隊
  切岸は曲輪の斜面を切落とした崖

主郭(本丸)の虎口を出る探索隊
  虎口は狭く曲げた出入り口

加地城主郭からの眺め  五十公野丘陵

要害山 加地氏の山城
  麓中央左の墓地が根小屋(居館)跡

大天城跡 公園に整備されている

鬼の墓  大天城主青鬼監人(あおきかんど)の墓
  
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