山の記 2020
綿野舞の記TOPへ
6月21(土)・28日(日) 良寛も バードも越えた 大里峠 
 大里峠 475m 鉄塔(展望台)506m 新潟県関川村・山形県小国町  地理院地図は→こちら
~山の記 目次へ~
 歴史館行事「良寛の歩いた峠を越えて」の第2弾、大蛇伝説で名高い大里峠を越えて関川村から山形県の小国町玉川まで歩く会。今日6月28日(日)は、その本番日。
 前日の天気予報ときたら、予報会社4社、全部別々。最良は降らない、最悪は小雨がずっと降る。他は、小雨の度合いと雨上がりの時刻の違い。関東地方にかかる梅雨前線のぶ厚い雨雲の北の端ッぽの薄い雲が、関川村や隣の小国町をかすめていく。その薄雲の密度を各社測りかねている様子。いずれにしろ、中止するほどの雨ではない。が、降ったらどうするか。危機管理の要諦は、最悪の事態を想定して備えること。もし万一、沢々が出水して徒渉が危なければそこで引き返す想定。送迎の村バス2台の運転手さんが、万に一つの事態になったとしても急遽の迎え時刻変更が可能と、快諾してくださった。日曜日で、朝夕の送迎以外は本来フリーの日なのにもかかわらずだ。まったく、ありがたい対応に頭が下がる。
 結果、天気の神様も大里大明神様も、総勢31名の参加者へ微笑みを投げかけて下さった。8時半の集合時こそ小雨模様だったものの、9時からの林内歩きに雨はなく、12時到着の峠では陽射しを避けて木陰の昼食。13時ごろサアーッと薄い雨雲通過。これも1社の予報通り。その後は曇り時々陽射し。さすがは善男善女、日頃の行いを神様はチャンと見ていてくださった。トシカオモエナイ。
 いやいやそれだけではない。峠までの新潟県側の山道がきれいに刈り払われてあったこと。今日のこの行事に合わせてくれたとしか思えない。今時点では、どなたの行為かは分からないが、とにかく、これもありがたかった。それと、差入を届けてくださった方、ラインでエールを送ってくれた方、見送りの方、さらには今日は留守番本部長の歴史館館長さんの普段からの人々への心遣い。諸々の人々の行いに神様方がほほ笑みを投げかけてくれた、としか思えない一日でした。
 峠の記念写真の面々の表情を見てください。善男善女を絵にかいたような姿ではありませんか。皆さん、お疲れさまでした。そして、ご協力ありがとうございました。
 越後米沢街道十三峠、その中で唯一、羽越国境(羽前国=山形県と越後国=新潟県の境)を画すのが大里峠。古来多くの旅人が越えたこの峠の道を、せきかわ歴史館主催の古道探索会で歩いた。21日(土)は事前下見で、28日(日)が本番。
 探索コースは上の地図の通り。登り4㎞、下り3㎞。途中、歴史・自然さまざまな見所がたくさん。
<28日の行動タイム>
 スタート地点発9:00~9:46畑集落跡~10:02畑鉱山跡(休憩・廃墟見物)10:30~林道終点10:37~11:05柄目木~11:52大里峠13:00展望台13:20 峠発13:30~14:41供養塔14:51~15:02玉泉寺前15:15~15:21バス乗車
 以下、下見のレポートで事前紹介した内容と画像も再掲して、総勢31名の大里峠道探索の様子をレポートします。
 YouTubeに動画もあります ⇒こちら から  
 渡辺伸栄watanobu
8時半に歴史館に集合したときは小雨。その雨が、スタート地点に着いて送りのバスを降り歩き始める頃には、傘いらず。幸先の良いスタート。
瓜の木の花が下見の時のまま、いやそれ以上に咲いていた。木が次々と現れるところを見ると、そう珍しいものではないようだが、ちょうど開花したときに出会えることはなかなかないので、ラッキー。参加の皆さんも、面白い形の花を見て感嘆しきり。
ここが、かつての畑集落の跡。祠が3棟、まだ新しいということは信仰が今も続いているということか。畑集落は、昭和42年の羽越水害後2軒残っていた家が転居して無人となったという。江戸時代より以前、慶長2年1597年の越後国絵図にすでに「はた村」が載っていて、古くから人が住んでいたことが分かる。屋敷や田畑の跡らしき平地が残っていて、ここで平穏な暮らしが営まれていたであろうことが伝わってくる。
畑鉱山の跡。明治7年に銅鉱が発見され、戦時中の最盛期には220人もの人が働いていたという。小国町の文献によれば、それ以前から銅鉱山はあったらしい。道路の脇の薮の中にコンクリート製の廃墟が残っていて、異様な感じが迫ってくる。鉱石は鉄柵で片貝へ運び、そこから川舟で運んだことが同じ文献に載っていた。
道端の藪斜面を登ってみると、廃墟マニアにはたまらない光景に出会える。頑丈なコンクリートの柱と梁、選鉱所の跡か。大休止の時間を利用して、希望の方々を斜面の上に案内した。何しろ昭和20年に閉山になったそうで、74年間放置の廃墟、いつ崩れるか分からないので安全第一に、少し離れて廃墟を覗き込む。廃墟の近くの地面に空の一升瓶が半分埋もれてあった。当時の作業員の人たちが飲んだ瓶か。これも貴重な遺産。ソオッとそのまま置いてきた。
ここが林道の終点。ここから山道に入る、本格的な山歩き。登りもあり、徒渉もあり、片側崖の道もある。それほど危険な道ではないが、うっかりすると大ケガの元、お互い声を掛け合い足下に十分注意して歩いた。
ここから若ぶな山の尾根へ登る道が古い地図にはあって、荒谷沢の川を渡って茅峠を越え、金丸へ降りて荒川を渡り、八ツ口~越戸~田代峠~沖庭神社~小渡(小国町)のコースが、大里峠ができる前の古道だったという。沼には応永4年1397年の大きな板碑が建っている。胎内方面からの名倉古道も沼に通じていて、ずっと昔から、沼は交通の要所だったことが分かる。
ただし、金丸古道(茅峠道)と米沢新道(大里峠道)の分岐は、本来はここではなく、沼集落外れの板碑へ向かう橋の袂の辺りだった。そこに追分の石碑が建っていたのだが、今は、付近の民家の庭に移されて残っていると、これも小国町の文献にあった。それによると、もともとの金丸古道は、今のスキー場の方向に進んで若ぶな山の、向かって左の尾根を越えて荒谷沢へ降りるルートだとある。
玉川ホトトギス。きれいな花。小国町の玉川とは別の京都方面の玉川からついた名だという。結構沢山咲いていて、いい時期に来れた。これもラッキー。
山道を一列になって、黙々と、あるいは賑やかに進む一行。31名が一列になるとかなりの長さで、人員掌握が主催者としては最大の使命。4班態勢にして、班長さんに掌握をお願いした。お陰で何の心配もなく何の事故もなく無事完遂出来ました。ありがとうございました。
柄目木 ガラメキ と読む。いかにも峠の茶屋が建っていたような平地になっていて、後ろの山からは飲み水が出ていたという。今も水の音がしていたが、飲まれるかどうかは分からない。ガラメキのメキは、水の音に由来する地名で、柳田国男の「地名の話」に載っていたなどと、下見の時にその方面の専門家の田村さんに、うろ覚のことを言ってしまった。また専門書を突き付けられるかもしれない。ただ、ガラメキのほか、〇〇メキという地名は各地にあって、東蒲原には棒目貫ボウメキという集落があり、若い頃岩魚釣りによく寄せてもらった懐かしい思い出がある。
往時の石畳も結構残っていて、下見では。これもそうかなと思われるそれらしい石を数か所で見た。それなのに、本番ではほかのことに気を取られて、現場でそれを紹介するのをすっかり忘れていた。ま、歩き出す前の話にはそのことも入れておいたから、見つけた人は見つけたと思う。
大里峠の道は、嘉永元年1848年に大改修があって、巾1間の道を3間に広げ、石畳もその時に敷かれたという。ちなみに、十三峠最高地点の宇津峠には弘化2年1845年の道普請供養塔が建っていて、そこには三潴兵内の名が刻んであった。この人は、中世上関城の城主三潴氏の子孫で、米沢の上杉藩士になっても、越後の関郷につながる道の管理整備を担当していたことが分かる。年数が近いので、大里峠の大改修にもかかわったのではないだろうか。上関城と十三峠と米沢と、ずっと越後米沢街道にかかわってきた三潴家の歴史が偲ばれる。詳しくは⇒こちらを参照して下さい。
ここが名高い大里峠。祠の中には、大里大明神と地蔵尊、観音像などが祭ってある。前回の榎峠にあった観音様と兄弟だという。どういうことか?多分、一緒に同じ石から彫刻したということかもしれない。
この祠の前で、旅の琵琶法師が大蛇の化身に出遭う「大蛇伝説」の舞台。ただし、阿部八郎さんの研究によると、大蛇の話と蛇喰い女の話を結びつけたのは江戸時代・安政2年1855年の中村鶴五郎で、それ以前はそれぞれ別々の話だったということだ。さすがのシナリオライターというべきか。
阿部さんの研究の中で、面白い話がもう一つ。ここで旅人が大蛇の化身に会ったのは、一体いつの時代のことかというと、ほとんどの話は「昔々の事」としている中で、米沢地方に伝わる話には、はっきりと天文4年1535年のことと年代を明らかにしているという。1521年の大里峠の開削の14年後の事になる。米沢の人々にとっては、大里峠の開通が、それだけ画期的な出来事だったということが分かって、面白い。
 

峠に着いた頃、雲間から太陽が出てきた。木陰を選んで、三々五々昼食の長休憩。そこを空撮してみた。樹林の中まで機体を飛行させるほど操縦技術が上達していないため、木陰のグループを撮影することができなかった。次回までもっと腕を磨かなきゃ。
祠の後ろの急斜面を登ると送電線の鉄塔があって大展望台になっている。関川村と貝附の狭戸が良く見えて、そこを眺めていると、湖を造ろうとした大蛇の気分になってくると言われる場所。残念なことに本番の日は、ちょうどこの時間帯13時頃、麓から薄い雨雲が吹き上がってきて視界はあまり良くなかった。このことをピタリと当てた予報会社が1社、さすが有料だけのことはある。
下見の時の展望台からの望遠撮影。正面中央が上関のお城山(上関城址)で、そこから出ている橋が温泉橋。ド~ムとアリーナ、歴史館の屋根も見えている。長くて赤い橋が小見橋。本番の日も、少し霞んではいたがこの風景は見れた。ただし、望遠鏡でもないと小さく見えるから分かったかどうか。各自の視力にもよる。
麓から見た時の大里峠の位置。わかぶなスキー場の向かって右に若ぶな山があって、その山の右側の一番低くなった奥の方に鉄塔が3基見える辺りで、一番右の鉄塔が展望台の鉄塔。その右下が大里峠。
ただし、下関の方から見るともう少し見る角度が右へ寄ることになって、若ぶな山と峠の間にもう一つ低い山が入る。その山が若ぶな山の後ろに繋がって県境の山となる。つまり、若ぶな山は新潟県側に入っていて、大里峠のある県境ラインは若ぶな山の後方を通っていることになる。峠の向かって右の山は県境ラインの沼山。
いずれにしろ、峠は決して高い山の上には作らない、当然のことながら。
これが大蛇が枕にした岩「蛇枕岩」だろう。峠を七巻半したとも伝わる大蛇、さすがの枕。展望台から、行いの良い人だけに見えるそうで、下見はもちろん本番の日ももちろん見えた。
因みに、大里峠には蛇骨が出るという。退治された大蛇の骨といわれるが、実態は、湯ノ花の固まったものらしい。歴史館の前々館長は地学に詳しく、現館長の話によると峠の付近の沢の中から掘り出していたはずということだった。折角の珍品、前々館長さん宅にあるのなら、ぜひ歴史館に展示してほしいと現館長さんにお願いしておいた。 
集合写真を撮るために三脚をセットしたりする間、平田大六さんが講師を買って出て、大里峠の歴史について小講義をして下さった。氏の話はいつも聴きごたえがある。 
下りは鬱蒼としたブナの森の中を歩く。さすがは白い森の国。感じの良い森の道。ただし、いかにも熊がいそうな森。熊追いには、太い棒で木を叩いて出す音が一番効くそうで、下見でも本番でも、ずっとそうしていた。お陰で出会わなかったので、効き目は確かの様。ただ、途中一ヶ所、猿の威嚇に遇った。タケノコの食事中に我らに邪魔をされ大怒りの様子。悪いことをした。
このブナの森の中には、かつて銅山の坑道がたくさんあったそうで、大里峠に最も近い坑道から出た鉱石は畑鉱山まで担いで運び鉄索に乗せたこと。それより下の坑道から出た鉱石は、玉川集落まで担いでおろし、馬車やソリで金丸まで運び、そこから川舟で大島まで運んだこと。また、金丸への運送には玉川の県道が開通するまで桜峠が使われたこと。それらのことが田村さんが探してくれた小国町の文献に載せてあった。昭和30年代のことだという。山道も川も大いに使われていた時代のこと。
山道が終わって林道に出ると、クマイチゴの実。写真は下見の時。この時はみずみずしかったが、その後、獣に食い荒らされた様子だがまだたくさん残っていた。すっぱくておいしい実で、一粒二粒食べてみたが、ほとんどだれも手を出さなかったようだ。サルが舐めたとなれば、やんぬるかな。 
麓に近づいたところに、「凶霊供養塔」が建っている。これも小国町の文献によると、江戸時代・安政2年1855年の建立で、天明元年1781年と嘉永7年1854年の2回の雪崩遭難の慰霊碑。1回目は、旅人の荷送りを頼まれた人たちで、関川村の人たちも大勢いて助けられて蘇生した人の中には、上関の人・助次郎の名が記録されているという。2回目は荒島に里帰りした嫁を迎えに行った帰りに一家が雪崩に遭い嫁と7歳の子供が遭難死。なんとも痛ましい事故。真冬の峠道の悲劇を今に語る石碑。 

お疲れ様でした。玉川到着、ここが玉泉寺、良寛様の旅の宿、ここで読んだ漢詩一首、今日の要項に載せてあって、良寛の旅について、これから田村さんから本日最後の小講義です。なんて、話をしているところ。
玉泉寺は、峠から下った集落の入口に当り、ここには番所もあった。越後から米沢に向けて旅の途中の良寛様が、ここ玉泉寺に宿をとり、「宿玉川駅」(玉川駅に宿す)と題した漢詩を読んでいる。駅とは当時、大きな宿場町のこと。江戸時代・文政4年1822年のことで、ここ玉川は、メーンストリートに面して宿屋や商店が立ち並ぶ大内宿のような賑やかな宿場町だった。良寛様の旅について、館長代理を務めた田村学芸員の本日最後の小講義。 
ページのTOPへ