北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
8 逆境をしたたかに

(1) 御館の乱・新発田の乱

 上関城の四百年の中でも、最も華々しい活躍のあとを残した三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが)の時代も終り、物語はいよいよ最終章を迎えています。

 天正6年(1578年)、越後の龍と恐れられた戦国の英雄上杉謙信(うえすぎ・けんしん)が突然の病で死去します。跡継ぎ候補が二人いました。二人とも謙信の養子で、一人は、謙信の姉の子景勝(かげかつ)、もう一人は、相模国(さがみのくに)小田原城主北条氏康(ほうじょう・うじやす)の子景虎(かげとら)。謙信がどちらを後継者にするか決めてなかったため、家臣の間で激しい後継者争いが起きてしまいました。
 景勝側はいち早く春日山城の実城を押さえ、景虎側は春日山城を出て府中の御館(おたて)城に籠もり、越後国内外の武将が二派に別れて、激しい攻防が行われました。
 様々な駆け引きがあって、ついに景虎側は劣勢となり、翌天正7年(1579年)、景虎は御館城を脱出し関東に逃げようとしますが、途中、景勝軍の猛追撃を受け自害して果てます。

 どちらも謙信が期待して育てていた養子で、また、景虎の妻は謙信の姪で、二人の間の子まで景勝側の兵に殺されてしまったのですから、この結末は、大変な悲劇としか言いようのないものでした。その上、謙信の家臣だった武将たちが二派に分かれて戦ったのですから、その後遺症も大変なものでした。
 景勝は、景虎に勝利した後もなお反景勝の姿勢を示す武将たちを制圧して、越後国を統一するのに3年も費やさなければならなかったのです。その間に、弱体化した越後国を虎視眈々と狙っていたのは、あの織田信長(おだ・のぶなが)です。天下統一を企てる信長は、越後が混乱の最中に隣の越中(えっちゅう・富山県)まで領土を拡大していました。

 御館の乱がようやく収束を見たと思われた天正9年(1581年)、阿賀北の新発田重家(しばた・しげいえ)が、その織田信長と結んで景勝に反抗する動きを示し始めたのです。

 翌天正10年(1582年)、信長は甲斐(かい・山梨県)の武田氏を滅ぼし、信濃(しなの・長野県)まで領土を拡大しました。狙うは、いよいよ越後国です。信長軍は、越中、信濃、上野(こうずけ・群馬県)の3方面から越後へ侵入する構えを見せています。そして、北方には信長側についた新発田重家が、景勝を攻撃しようとしています。
 越後を二分した御館の乱の影響がその後も尾を引き、越後の弱体化を引き起こして、景勝にとって絶体絶命のピンチを招いたのでした。

 ところが、なんとしたことか、6月2日京の本能寺で織田信長が家臣の明智光秀(あけち・みつひで)に殺害されるという大事件が発生します。「本能寺の変」です。これによって、越後国を包囲していた信長軍は一斉に撤兵します。
 景勝は反転攻勢に出ました。まず、信長軍撤退で空白となった越中や信濃に進攻し、その後で、新発田攻めに移ります。しかし、攻めきれず、一旦引上げる途中を新発田勢に追撃され敗戦の憂き目に遭ってしまいます。
 翌天正11年(1583年)、景勝は再度、新発田重家を攻めますが、この年も思うように戦果を上げることはできず、春日山城に引上げます。
 結局、景勝が、本庄繁長(ほんじょうお・しげなが)や色部長真(いろべ・ながざね)を従えて新発田重家を攻め滅ぼしたのは天正15年(1587年)で、新発田征伐に6年間もかかったことになります。

 謙信に逆らった本庄繁長、景勝に逆らった新発田重家、共に阿賀北の猛将としてその名を現代までとどめています。

 
(2) 三潴氏の苦闘 佐左衛門の奮戦と左近大夫の復興

 御館の乱での三潴氏の動向は、一切伝わってはいません。
 三潴左近大夫長能(みつま・さこんのたいふ・たがよし)は、永禄11年(1568年)に上杉謙信から庄厳城の守将を命じられ天正8年(1580年)まで12年間在城したとされています。ちょうど、その最後の3年の間で御館の乱が起こっています。
 御館の乱では、黒川氏が景虎側についたほか、氏や垂水氏の一族で景虎側について奮戦した人たちがいました。
 そんな中、おそらく左近大夫長能は、羽越国境の庄厳城にいて、それまでの度重なる争乱同様、軽挙妄動を控え慎重に世の動きを見極めていたはずと思われます。

 ところが、上関城主三潴出羽守政長は、御館の乱で景虎側についたとみなされ、景勝から領地を没収されてしまいます。謙信の股肱の臣政長としては、謙信の遺志に反するような景虎攻撃には、とてもくみすることは出来なかったのでしょう。
 御館の乱勃発直後、出羽守政長の領地の一部は、景勝側についた安田治部少輔(やすだ・じぶしょうゆ)に与えられてしまいます。
 そして、乱がある程度収まった天正8(1580)年、政長の子・左近大夫長能は庄厳城将の任を解かれ、帰るべき城も領地も失って浪人となってしまいます。

 左近大夫長能が庄厳城将の任を解かれた翌年、天正9年(1581年)、新発田重家が叛旗を翻しはじめます。
 翌天正10年(1582年)、景勝による第1回目の新発田征伐が行われます。

 このときの新発田征伐で、三潴佐左衛門(みつま・さざえもん)が景勝から感状を貰っています。佐左衛門は、川中島で戦った三潴掃部介利宣(みずま・かもんのすけ・としのぶ)の前の代の頃に、三潴本家から分家した家の人といわれています。本家からは独立して、謙信に仕えるようになった家ではないかと思われます。景勝新発田攻めに出陣する8月より前の3月と4月に感状が出されていることから、景勝軍の先発隊として早々に新発田勢との緒戦に参加したことを賞されたのでしょう。
 「関川歴史館」に展示されている鎧兜は、この三潴佐左衛門着装と伝えられているもので、この物語の3章に写真を掲載させてもらっています。

 分家佐左衛門の奮闘は、本家再興の望みをかけた必死の働きだったと考えられます。

 天正10年、新発田征伐に出陣した色部長真に対し、景勝は早速の参戦を賞し山上分と三潴分の土地を与える旨、約束しています。後の文書によって、このとき色部氏に与えられた三潴分の土地とは、酒町村と中目村の計371石分であることが明らかにされています。
 さらに、天正11年(1583年)、景勝小田切弾正忠(おだぎり・だんじょうちゅう)に宛てた文書で、三潴分の土地を小田切に与える旨約束しています。小田切弾正忠は小川荘石間(東蒲原郡旧三川村)に領地をもつ武将で、景勝の命で新発田側を攻撃していたのです。その報償として、どこの領地かははっきりしませんが、三潴分の土地を小田切弾正忠に与えることにしたのです。

 上杉謙信の下、掃部介利宣出羽守政長父子の活躍で得た三潴家の栄光も地に堕ちたといわれても仕方のない状況です。
 しかし、義将謙信の下で働いた出羽守政長にしてみれば、亡主謙信の遺志に背くような行動をとることは、絶対にできなかったと思います。たとえ、鎌倉時代の左衛門尉以来続いた上関城主三潴家が滅んだとしても、義を捨てることはできない、そこに出羽守政長の真骨頂があったように思われます。
 政長の子・長能も、甘んじて父の意を受容れたことでしょう。
 そして、本庄繁長の下に身を寄せ、分家の佐左衛門とも意を合わせてお家再興の機会を探っていたに違いありません。

 さて、天正11年になると、景勝は、本庄繁長(ほんじょう・しげなが)からの三潴左近大夫長能を赦すようにとの願い出を受け入れ、その罪を赦し、荒川の地を知行させることとし、羽黒城の守備につくよう命じます。
 この時期は、これから新発田攻めが本格的になるというときですから、景勝にしても、手勢は多いほうが良かったに違いありません。このことからしても、左近大夫長能の処罰理由は、新発田側についたためではないことが推し測られます。

 そもそも、御館の乱での景勝の行動は、どう見ても謙信の遺志を継いだとは言えないように思われます。
 謙信が我が名を与えた景虎を討つこと自体、まったく謙信の意に反しています。まして、景虎謙信の姪との間に生まれた9歳の子道満丸(どうまんまる)を殺害し、あまつさえ、その道満丸を伴って春日山城へ保護を求めた前関東管領上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)までも殺害してしまったのです。上杉憲政は、謙信の養父にあたります。そして、謙信の姪である景虎の妻をも死に追いやってしまいます。
 謙信に信頼され、謙信の下で活躍してきた三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが)の子左近大夫長能が、謙信亡き後の景勝のこのような行動を是として見ていたはずがありません。もし、出羽守政長が存命であればなおのことでしょう。
 もしかしたら、庄厳城の近くの鮎川(あゆかわ)氏や上関城の近くの黒川氏、氏、垂水氏などが景虎側についていますから、三潴氏親子もそれらと同調する気配を示したのかもしれません。そのことを景勝に厳しく咎められ、所領没収の憂き目にあったのではないでしょうか。
 損得で合従連衡(がっしょうれんこう)を判断する武士が当たり前だった時代、あくまでも謙信への思慕を顕わにした三潴氏親子だったのではないかと考えたいところです。

 ま、当て推量はそれくらいにして、ともかく、左近大夫長能は、辛うじて先祖代々の地を回復できたのです。その荒川の地とは、当時荒川城とも呼ばれた上関城とその上流の領地のことを指しています。
 第3章の本庄攻めのところで書いたように、かつて本庄繁長謙信に逆らって討伐され赦された際、左近大夫長能の父出羽守政長謙信の督軍で何かと世話になったものと思われます。このたびの左近大夫長能赦免請願に繁長が動いたのは、そのときの恩義があったのではないでしょうか。もちろん、物証のない想像ではありますが。


 新発田の乱も終った文禄3年(1594年)の上杉景勝家臣団の定納員数目録では、三潴左近助分として11人183石3斗と記載されています。左近大夫長能のことです。本庄繁長のとりなしで何とか赦されはしたものの、没収された所領の多くは戻らず、父出羽守政長の時代から見たら大幅減封の少禄に甘んじるしかなかったのでしょう。三潴氏にとって本貫の地ともいえる上関城を回復しただけでも不幸中の幸いとしなければならないのではと思います。
 もし、謙信の義に報じたのであれば、何の悔いもなかったことでしょう。
 左近大夫長能は、その後、萩城(三島郡出雲崎町)の城将松本大炊助(まつもと・おおいのすけ)の同心とされています。同心とは、家臣ではないけども松本氏の指揮命令下に入るということで、景勝は、許しはしたものの厳しい扱いにしたのだと思います。

 なお、同じ文禄3年の目録で、三潴佐左衛門は、14石2斗で庄内(しょうない・山形県)大宝寺にいた本庄越前守(ほんじょう・えちぜんのかみ)の同心につけられています。本庄越前守繁長は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の怒りにふれ所領没収、蟄居の罪を受けていて、本庄の家臣団は庄内の大宝寺にいましたから、佐左衛門本庄同心として大宝寺にいたのでしょう。
 このことからすると、佐左衛門はもともと本庄繁長の下についていたのかもしれません。

 さて、そうこうするうちに、慶長3年(1598年)、景勝秀吉から会津への国替え命令を受け、家臣一同を引連れて越後を引き払い、会津、米沢へと移っていきます。景勝は、以前からの領地である佐渡、庄内と合わせて120万石の大大名となり、豊臣政権の家老職となって国政にかかわることになります。

 上関城は、この国替えによって廃城になってしまいました。

 左近大夫長能は上関城の隣の小国城の番将として勤務しています。越後国から出羽国へ替わっても、羽越国境を守る業務についていたことになります。この地の国境警備は、余人をもっては変えがたい三潴氏代々の専門分野とみなされていたということではないでしょうか。
 何しろ、三潴左衛門尉(みつま・さえもんのじょう)以来400年を超える長い時間の積み重ねがあったのですから。

 ともあれ、上関城は廃城となりました。この物語もいよいよ終末を迎えています。最後のエピローグで物語を閉めたいと思います。


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