北越後関郷 上関城 四百年物語
ダイジェスト編 
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  新潟県関川村上関の地に眠る上関城址、そこには鎌倉開府の頃から上杉氏会津移封まで400年にわたるドラマがあったのです。今も残る土塁・空堀などの遺構を見るにつけ、動乱の中世を上関衆とともに駆け抜けた城主三潴氏の活躍が偲ばれます。わずかに残る史料をもとに大胆な推測を交えて、そのドラマを「上関城四百年物語」と題して再現してみました。
 本稿は、長いその物語の概略を記したダイジェスト編です。
   ~~もくじ~~ 

  1 戦国の雄・上杉謙信に仕えた上関城主のドラマ ~戦国時代~
    (1) 謙信股肱の臣・三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが)
      ア 謙信の外交官として上洛
      イ 謙信軍の督軍として阿賀北衆の世話
    (2) 三潴左近大夫長能(みつま・さこんのたいふ・ながよし)の羽越国境警備
    (3) 川中島合戦で大手柄をあげた三潴掃部介利宣(みつま・かもんのすけ・としのぶ)
  2 戦国期の上関城

    (1) 上関城の姿
    (2) 上関城の役割
    (3) 上関城の特異性
    (4) 戦国の三潴氏
  3 初代は遥か筑後から ~鎌倉時代~
    (1) 三潴佐衛門尉(みつま・さえもんのじょう)の伝承

    (2) 来任の時期の謎
    (3) なぜ、遠く九州の地から
  4 代々の上関城主は守護上杉氏の被官として活躍 ~室町時代~
    (1) 上関城主三潴氏、史料に初めて登場 三潴左衛門大夫(みつま・さえもんのたいふ)

    (2) 黒川氏実の所領回復運動に関わった三潴氏
         三潴伊賀守(みつま・いがのかみ) 三潴出雲守道珍(みつま・いがのかみ・どうちん)
    (3) 上野国羽継原の合戦、将軍義政の感状
         三潴弾正(みつま・だんじょう) 三潴帯刀左衛門尉(みつま・たてわき・さえもんのじょう)
    (4) 弥彦神社の改修 三潴次郎右衛門尉(みつま・じろう・うえもんのじょう)
    (5) 三潴飛騨守(みつま・ひだのかみ)、胎内川合戦に登場
  5 上杉景勝時代の苦闘、そして上関城廃城 ~安土桃山時代~

  6 エピローグとして、越後米沢街道に残る三潴氏の足跡 ~江戸時代~


1 戦国の雄・上杉謙信に仕えた上関城主のドラマ ~戦国時代~

(1) 謙信股肱の臣・三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが

ア 謙信の外交官として上洛

 永禄4(1561)12月、時の将軍足利義輝は使者を越後国に送り、謙信を関東管領に任ずることを伝え、自らの名「輝」の一字を与えた。謙信はそれまで上杉政虎と名乗っていたが、それからは輝虎と名乗った。

 将軍義輝は、謙信に一日も早く上洛してほしかった。しかし、この頃の謙信は関東に出陣中で多忙を極めていた。そこで、上関城主三潴出羽守政長に命じて、将軍への使者として京へ派遣したのであった。1223日に春日山城を出発して上洛した政長は、翌永禄5113日、謙信から託された太刀1腰・御馬1匹・黄金2百両を将軍義輝に献上した。政長は、重要な役目を果たして将軍から御刀1腰を賜り、無事帰国した。

      このときから115年後の三潴家の記録には、公方様より肥州国吉之御刀拝領仕、今以所持仕候」と、
      大事に所持していることを記している。


 政長の京派遣の背景には、謙信にとっても義輝にとっても、大変重要な事情があった。

 永禄
43月、謙信は北条氏の小田原城を大軍で包囲した。この時、関東管領上杉憲政は、謙信にその職を譲り上杉家の名跡も継がせた。それまでは長尾景虎と名乗っていた謙信は、このときから上杉政虎と名乗る。鶴岡八幡宮で関東管領就任式を盛大に挙行した謙信は、一旦越後に帰還した後、夏になるとすぐに信濃出陣、9月には武田信玄との一騎打ちで有名な川中島大合戦を行い、その後も関東へ出陣する。まさに超多忙の日々だったが、これら謙信の軍事行動の正当性は将軍からの信任にあったので、義輝との関係は重要だった。

 関東管領の職に就くには将軍からの任命が必要で、将軍義輝も謙信を上洛させた上で正式に任命したいと心待ちにしていた。今、米沢市に残る国宝「上杉本洛中洛外図」は、謙信上洛の際に贈るつもりで義輝が作製させたものとの説がある。(黒田日出男氏)

 この頃の将軍はかつての力を失い、幕府の重臣たちは将軍の命を受け入れず勝手に戦を起こし将軍を京から追放することさえあった。実に不安定な立場に置かれて、いつ謀反にあうか分からない義輝としては、謙信の力をもって将軍権力を強化したいと考えていた。

 ところが、謙信は多忙を極め上洛できない。その謙信に代わって上洛した三潴出羽守政長は、将軍義輝にとっても重要な人物だったわけで銘刀を与え手厚く遇した。謙信にとって最も重要な将軍との連接の役目を担った政長は、いわば越後の外交官だったといえよう。


 ところで、「関川村史」(平成4年、以下「村史」)の三潴氏の事跡には政長の上洛は記されてない。米沢藩士となった三潴家の文書に、政長の上洛は永禄12年正月のこととされていて、このことが記載を躊躇わせたのだろう。永禄12年といえば、本庄繁長謀反の大事件があったときで上関城主の政長が京に上っている余地など全くなかった。その上、この時にはすでに将軍義輝は家臣に殺害されて世にいなかった。

 政長の上洛が永禄4年末から翌5年正月と判ったのは、黒田日出男氏が洛中洛外図の謎を追っていて「(謙信公)御書集」の記事中から見つけたことによる。(黒田著「洛中洛外図の謎」平成8年)「村史」に記載されなかったのも無理からぬことではあった。

 ともあれ、政長は、謙信にとっては最も重要な将軍への使者を託されるほど、謙信から厚く信頼された武将だった。普段は謙信の居城春日山城に勤めていて、上関城は政長の家臣が守っていた。政長の「政」の字は、政虎(つまり謙信)の「政」の字を与えられたもので、主君の名一字を与えられることは家臣にとって大変名誉なことだった。

イ 謙信軍の督軍として阿賀北衆の世話

 永禄11(1568)年3月、北越後で大事件が勃発した。本庄城(村上城)主本庄繁長が、謙信の越中出陣中、無断で春日山城から本庄城に帰り謙信に反抗する行動をとった。繁長は、謙信最大のライバル武田信玄と手を結んだ。越後国の内側から信玄にかき回される恐れがあり、謙信はただちに越中から帰国して繁長討伐の手を打ち、信玄と繁長との連絡を遮断するため国境警備を固めた。

 10月下旬、謙信は繁長討伐軍を率いて春日山城を出発、11月には繁長が奪い取っていた猿沢城を奪還、本庄城を大軍で包囲した。永禄12(1569)年1月9日、孤立無援の繁長は一か八かの夜襲決戦に出た。城下の飯野原で大激戦となり、その戦中10日未明、謙信軍の平林城主色部勝長が戦死した。

 その際に謙信から政長に宛てた文書が残っている。そこには、図らずも勝長が戦死したことは是非もないことだが、色部には後継者として顕長がいるのだから、これをとり立て色部の家が成り立つようにするよう命じている。当時、政長は阿賀北(揚北)衆の督軍の役目を担っていた。北越後の武将たちの戦いぶりを監督し時には世話をする役目で、軍監ともいう。阿賀北衆は勇猛果敢で独立心の強い武将たちで知られていた。繁長のようにともすれば謙信何するものぞとの思いの強い人たちで、味方にすればこれほど心強いものはない反面、敵に回したら手を焼く人たちであることを謙信はよく承知していた。

 その阿賀北衆を監督し世話する役割を謙信は政長に期待していた。政長は、勝長亡き後の色部家が年若い顕長を中心にして立ち行くよう後見人としての役割を果たした。


 謙信から政長には、勝長戦死の前後処置とともに、藤懸城(村上市山北地区の府屋にあったとも、山形県鶴岡市の旧櫛引町にあったともいわれる)に出陣し、大川氏に早く藤懸城を攻撃するよう、これは大事な戦いであることをよく言って聞かせるようにと丁寧に命令されている。大川氏は、兄が謙信側についたものの弟は繁長側について藤懸城に籠もっていたのだが、兄弟間の攻防は結局うまくいかなかったようだ。

 ともあれ、このように政長は謙信に頼りにされ、阿賀北衆の督軍として東奔西走の活躍をしていたのだった。

 謙信と繁長の決戦の勝敗はつかなかったようで、その年の
3月、謙信は伊達氏や蘆名氏の仲介により繁長を許すことにし、春日山城に引上げた。政長は、繁長の降伏後のことも戦後処理の中で力を尽くしたと思われる。

 謙信死後のこと、景勝と景虎の間で跡目争い「御館の乱」が起きた。この時、政長は景虎側についたのだろう、勝者となった景勝から領地を没収された。その後、政長の子・三潴左近大夫長能(さこんのたいふ・ながよし)が、本庄繁長のとりなしによって景勝に赦され、領地は削られたものの繁長の保護下、上関城を確保できた。これは、永禄
12年の繁長降伏の際の督軍政長への繁長の恩返しのように思えてならない。なお、長能浮沈のこの出来事については、「上関城四百年物語」終末の悲話として取り上げる。



(2) 三潴左近大夫長能(さこんのたいふ・ながよし)の羽越国境警備

 本庄繁長反旗の知らせを受けた謙信は、直ちに羽越国境の警備を固めるるよう命じた。繁長が出羽方面を通して信玄と連絡することを阻むため、さらには信玄と通じた出羽の軍が越後に侵入するのを防ぐ必要があった。

 永禄11(1568)8月謙信は、庄厳城(村上市朝日地区笹平)と下渡嶋城(村上市下渡)を至急繁長から奪取するよう諸将に命じた。ここが、繁長のいる本庄と出羽国庄内地方を分断させるための戦略上の要地と見て、押えさせたのだった。

 そして、庄厳城には三潴出羽守政長の子左近大夫長能を入れて守備させた。長能はその後12年もの長い間、庄厳城に詰めて国境警備に当った。当時、羽越を結ぶ交通路は、国境の山々に幾本もあった。出羽内陸部とは、上関城のある荒川通りのほかに荒川の支流女川沿いの山路や長津川沿いの山路も使われていた。長能は、長津川沿いの庄厳城の城将となり、三潴氏の本城上関城から連なる羽越国境山岳地帯の要衝警備にあたった。

 父政長は、謙信から督軍としての重要な任務を命じられていたこともあり、上関城を含めた羽越国境警備の任務は、子の長能と上関城に詰めている守備の家臣団が政長の指揮の下で果たしていただろう。繁長降伏後も、長能は長く庄厳城の城将として油断のならない出羽の米沢や庄内方面の監視と国境警固に努め、謙信の期待に応え続けた。


(3) 川中島合戦で大手柄をあげた三潴掃部介利宣(かもんのすけ・としのぶ)

 三潴出羽守政長が謙信に信頼された背景には、その父掃部介利宣の武勲もあった。

 天文22(1553)年、信濃国で上杉謙信軍と武田信玄軍との戦い、世に名高い川中島合戦が始った。川中島合戦は、この年から永禄7(1564)年までの11年にわたって5回も行われたが、その第1回合戦での謙信から将軍足利義輝への戦果報告書に、上関城主三潴掃部介利宣の大手柄が記録されている。

 報告書は、
828日信州川中島下米宮で武田軍と合戦となり多数の武田軍を討取ったと述べ戦果を列挙。その中に、諏訪次郎右衛門と三潴掃部介の両人で、武田方の朝日奈左京亮と武田飛騨守の軍勢1300を討取ったことがあげられている。三潴掃部介の軍は、当然上関城の軍勢すなわち上関衆だった。


 ところで、この下米宮の戦いは三潴家の記録では天文23年とあるが、現代の学説では最初の合戦は天文22年とされており誤記かと思われている。ただし、川中島合戦の記録は様々にあって、江戸時代には天文23年という説もあったようで米沢上杉藩では23年と記録してきたのではないだろうか。

 5回の合戦のうち、もっとも有名なのは永禄4(1561)年の第4回合戦で、このときには大軍の駆引が夜を徹して行われ、両軍入り乱れて戦う中で総大将謙信が単身敵陣深く乗り込み敵の総大将信玄に太刀を浴びせたという有名な一騎打ち伝説が残ってい。ただし、謙信が単身切り込んだというのは武田側の記録にあるだけで、上杉側の記録には謙信ではなく荒川伊豆守だとされているという。この荒川伊豆守という人については、上関城の対岸垂水城城主垂水源二郎の通称ではないかという説が「村史」に記載されている

 この4回合戦のときには、上関城主三潴出羽守政長が京の将軍との連接役として大活躍していた。第1回合戦では、政長の父掃部介利宣が戦場で大活躍。勇将としての利宣と能吏としての政長、この父子の活躍があって謙信の信頼を深くしたのだろう。それ以外の合戦での活躍は今では記録に残っておらず伝わってはいないが、度重なる信濃や関東への出陣には阿賀北の武将たちも何度も謙信に従って出兵していので、上関城主の掃部介・出羽守父子も、上関引連れて幾度も戦いに参加していたに違いない


2 戦国期の上関城

(1) 上関城の姿

 今に残る上関城址は、戦国時代末の築城技術を示しているとされている。このことは、上関城が今ある形に整えられたのは、三潴出羽守政長やその父掃部介利宣の時代であったことを示している。度々の戦場への出陣や京への派遣などで各地の堅固な城を見る機会は多かったはずで、最新の築城技術を学んできて代々守ってきた上関城を一層堅固な城に築き直していったのだろう。
   
 <左図は「上関城址緊急発掘調査報告」(昭44)から、右図は筆者作成の想像図>

今は、「城跡図」に示した堀跡や土塁跡しか残っていないが、当時は、土塁の上に柵が立ち並び見張矢倉が築かれていて、堀と土塁に囲まれた郭の中には建物が建てられていたはずで、麓には役所や舟泊まりがあり、城主や家臣たちの屋敷が並んでいたことだろう。



(2) 上関城の役割

 一般に城は戦で攻められたときに立籠って防戦するためのもの。しかし、上関城はその目的とは少し違っていたのではないか。籠城戦のためなら、もっと高い山の上が有利だが上関城は低過ぎる。低地の城の場合は、広い範囲に水堀を掘ったり土塁を築いたりして大規模な防衛線を幾重にも敷くが、上関城の周囲は狭すぎる。大勢の敵が攻め寄せてきたときの防衛拠点としては、いかにも小規模過ぎるように見える。

 多分、上関城で守っていたものは、貴重な品々が詰まった倉庫群ではないだろうか。それらの品々の重量、数量、搬出入などを考えると高い山上での保管は困難で、また離れた山城に逃げ込むとすれば、それら貴重な品々を放棄することになる。上関城に峰続きの長峰山に山城の痕跡が見当たらないのは、それを築く必要がなかったからだろう。

 その貴重な品々とは何だったのか、上関城と城主三潴氏の役割から考えなければならない。

 上関城は元々は桂関という関所であって、その役割は羽越国境を固めることにある。三潴氏はその関の守将。関所では、平時は陸と川の交通路を守り安全のための取締りを行う。その費用として、関を通行する人や物に通行税つまり関銭を課す。特に川は様々な品物を運ぶための重要な交通路。上関城から荒川を
20km弱下った河口の港で海船から河舟に積み替えた荷を、流れの比較的緩やかな下流中流は、舟を川べりの人や牛馬で引いて上関城まで上ってくる。ここで舟から下ろされた荷は、牛馬や人の背で山路を上っていく。逆に、荒川上流の山地や内陸部の産物も川や山路を通って上関城へ送られ、さらに下流の港などへ舟で下っていく。

 このように、上関城は交通の要衝で、たくさんの人や物が行き来していたと思われるから、関銭を保管しておく倉庫は重要だったはず。その上、当時の大きな川やその流域の土地は国衙領だったので、その川や土地からの産物は国の財産。鮭鱒をはじめとした水産物や木材・薪炭などもあるが、もっと重要なものとしては荒川上流の山地から産出される金・銀・銅・鉄などの鉱物資源があった。

 三潴氏は国有地を管理する責任者であり、上関城はそのための役所でもあった。

 そこには、徴収した関銭をはじめ貴重な鉱物資源など重要な財産を保管し管理するための施設が必要だった。もちろん、守備のための武器や弾薬、食料などの貯蔵庫も必要で、盗賊などの襲撃を防ぐために厳重に守られた施設でなければならない。それが上関城だったと考える。城に保管した財産は国のものだから、謙信の居城春日山城の麓にあった国府の役所に年何回かまとめて送り届けることも、三潴氏の大きな役割だった。

 これらの役割を果たすために、三潴氏の下には多くの家臣が養われていた。その人たちのための食料を生産する田畑も必要で、上関城より上流の平地で農地を開発して食料の増産にも努めたに違いない。なぜ上流かというと、上関城より下流の土地は他の領主の土地だった。


(3) 上関城の特異性

 上関城より下手には広い平地があり水田が開発されていた。そこは三潴氏の管理する国有地ではなく元々は奥山荘という貴族の私有地で、鎌倉時代の初め頃から地頭職の武士が管理していて下氏や落合氏という地頭系武士の領地だった。また荒川右岸域は同じく地頭系の垂水氏が押えていた。

 この時代の領主たちの土地争いは凄まじいものがあった。だから常に争いに備えて山城を整えておかなければならなかった。山城が必要なのは武士たちだけではない。土地争いは農地争いだから一番被害を受けるのは農民の村人たち。その村人たちが争いの間逃げ込んで隠れているのも山城。上関城の周囲の山城にはそのような役割があったのだが、三潴氏の上関城はそれとは違った役割をもって作られていたと思われる。

 三潴氏の領地は、上関城の上流域にあった。そこは、今でも水田はそれほど広くない土地で、荒川は暴れ川で当時はさらに耕地は少なく、三潴氏の領地経営はもっぱら関所と山地資源にかかっていたから、下手に住む領主たちのような農地争いに巻き込まれる心配はほとんどなかっただろう。

 下氏のような地頭系の領主たちは、もともと田畑からの税、主として米の徴収が主任務だったから僅かの農地でも争いの種になったが、三潴氏は、それとは全く違って国の役人という立場で、もしその役所や倉庫を襲う者があれば、それは即犯罪人。仮に三潴氏の手に負えないほどの襲撃者が現れたとしても、国主である上杉氏から直ちに周囲の武士たちに討伐命令が下る。それは、互いに言い分があって争う領主たちの土地争いとは全く次元の異なった戦になる。

 だから、三潴氏や上関城にとっては逃げ籠もる山城は必要なかっただろう。もちろん、どのような不心得者が現れるか分からない。上関城は最新の築城技術を取り入れて小規模ながらも守備堅固な城になっていたし、国の役所としての威厳も示していたことだろう。


(4) 戦国の三潴氏

 国主である上杉氏の命令が下れば、役人の三潴氏も下氏のような領主たちも戦場に出陣しなければならない。戦で手柄を立てると新しく領地を給与されることもあった。三潴氏は、掃部介利宣や出羽守政長のときに謙信のもとで大活躍していたから、新しく給された土地も少なくなかったと思われる。

 出羽守政長が、謙信の後継争いに勝った景勝から領地を没収されたとき、三潴氏の領地であった酒町村や中目村を取り上げられて色部氏に与えられているから、それ以前の出羽守政長の時代には、荒川の下流坂町やその周辺にも領地を持っていて国衙領荒河保の中心部まで三潴氏の領地になっていたことが分る。

 このように三潴氏は、もともとの領地であった上関城とその上流域のほか各地に領地を持っていて、それらの土地からの収入で謙信からの度重なる出陣命令に応えていたのだろう。


 そして、三潴氏の当主は、普段は謙信の居城春日山城下の役所に勤めていて家族もそこに住んでいた。この当時、家族を謙信の下に置くということは絶対裏切らないということを示す人質という意味も持っていた。三潴氏の家臣の多くは上関城に勤め、兵農分離以前のこの時代、平時には農作業にも従事していただろう。そして、いざ出陣のときには、上関城から城主三潴氏に従って戦場に赴いた。兵士だけでなく、領地内の農民である村人たちにも荷物運搬などの雑役で動員がかかった。皆、勇猛果敢な上関衆として活躍していたに違いない。


3 初代は遥か筑後から ~鎌倉時代~

(1) 三潴佐衛門尉(みつま・さえもんのじょう)の伝承

 上関城主三潴氏の始りは、三潴左衛門尉という人からといわれ、「村史」には、次のように書かれてい。「鎌倉幕府は、筑後国三潴荘(福岡県三潴郡三潴町)出身、三潴左衛門尉を桂関の関吏に任命したと伝えられている。」

 伝承であって記録された文書は残っていないが、一般の人が文字を書くということがほとんどなかった時代口伝は確かな記録手段だったから、三潴氏この伝承も信憑性のあることと考えたほうがよいと思

 三潴氏は、三潴荘の地名を名字に名乗ったもので、左衛門尉とは朝廷から授けられた官名。実名は伝わっていないが、当時実名で人を呼ぶことはなく地名と官名で呼ぶのが普通のことだったので、伝わらないのも不思議ではない。筑後国三潴荘は福岡県三潴町(みづままち)で、現在は市町村合併により久留米市になってい。その九州の人が遥か離れた上関の地に関吏として派遣され、上関城と城主三潴氏の400年の物語が始まる。


 なお、三潴を「みつま」と称するのは「みづま」より古称とされ、三潴氏が古い時代に三潴荘から出たことの一証ともいえる。


(2) 来任の時期の謎

 左衛門尉の桂関来任が鎌倉時代のいつのことか、史料はない。ただ、源平合戦で和田義盛が九州に侵攻しその後三潴荘の地頭に補任されたことと、同じ頃、桂関のある奥山荘の地頭に義盛の弟が補任されたことを唯一の接点として、和田氏との関係で三潴氏が奥山荘の桂関に来ることになったのではないかという推測が「村史」に記されている。

 では、来任したのはいつか。当時の時代状況を探れば、越後国にとっては大変革の年だった文治元(1185)年が最も妥当性の高い時期と推測される。

 治承4(1180)年の頼朝挙兵以来、平氏は負い込まれ翌治承5(1181)年には平氏方の越後守城助職(後に長茂)が信濃で木曽義仲に大敗、越後国支配権は義仲に移る。その義仲は京に乱入して人心を失い、寿永3(1184)1月頼朝軍に討伐され討死する。

 頼朝は寿永2(1183)朝廷から「十月宣旨」により、東海・東山・北陸三道の国衙在庁官人の指揮権を獲得する。翌寿永3年、義仲討伐後直ちに北陸道勧農使を派遣。名目は荒廃農地を復興させ税収を回復させることにあるが、実は国衙指揮権に裏付けられた強力な軍事力をもって平氏方・義仲方の所領を没収することが目的だった。このときに、和田義盛の弟義茂が義仲追討の恩賞として奥山荘地頭に補任されたとされている。

 この頃、奥山荘だけでなく小泉荘の秩父氏(本庄氏や色部氏の祖)、荒河保の河村氏はじめ越後国内の荘園には続々と関東武士が地頭として補任され、その代官たちが赴任していた。文治元(1185)年には、越後国は頼朝の知行国となり鎌倉幕府直轄の東国に位置づけられ、安田義資が国司として国衙を支配・指揮する。越後の旧勢力は一掃された。このような時だから桂関の関吏も代わって当然、むしろ、代わらなければならなかった。

 では、この時に、なぜ九州の名族三潴氏が上関の地に赴任することになったのか。


(3) なぜ、遠く九州の地から


 九州はもともと平氏の地盤で、瀬戸内海を源義経に追詰められていた平氏は九州勢の加勢をあてにしていた。頼朝は、九州に逃げ込まれては面倒と壇ノ浦での決戦の前に弟の範頼を九州に攻め込ませ平氏方の武士を掃討させていた。初めは平氏方だった九州在地武士の多くは源氏軍の勢いに恐れ、その誘いに乗って平氏を見限り続々と源氏方に寝返った。そんな中にあって、三潴氏はあくまでも平氏方として戦ったのではないだろうか。

 三潴荘は京の貴族四条隆季の所領で、当地の名族三潴氏は当然荘官を務めていただろう。四条隆季は、平清盛政権の高官であった。三潴氏は、四条家につながる平氏を裏切ることはせず、武家としての筋を通したと考えたい。そのような三潴氏の振舞いには、当然関東武士も一目置くだろうし、何よりも京で武者同士交流のあった左衛門尉の人物力量はよく知られていたのではないだろうか。

 左衛門尉は、その官名が示すように早くから京の宮廷の侍として勤務し、同じように宮廷の侍として勤める当時の有力武家の若武者たちとは常々交流があったと考えるのが自然だろう。いずれ近いうちに、その罪を許されるよう図ろうと考えている武士たちが鎌倉幕府には少なからずいたのではなかろうか。

 しかし、許しが出るまではあくまでも敗軍の将として謹慎していて、その一族郎党も各地の縁者を頼って離散、敗軍平氏方として息を潜めて暮らしていただろう。やがて、九州の戦で直接対戦した和田義盛などの懇請で頼朝の許しが出、それを待っていたのがかつて京の宮廷侍として知り合っていた安田義資、国司に任じられたばかりの越後で喫緊の課題となっている国境警備に左衛門尉の力を必要としていた。左衛門尉は各地に潜伏する一族郎党に連絡をとり、それぞれの地から遥か遠方をものともせず勇躍して北越後関郷に集結した。

 当時の時代状況から、このように想像しても無理はないように思える。


4 代々の上関城主は守護上杉氏の被官として活躍 ~室町時代~

(1) 上関城主三潴氏、史料に初めて登場

 南北朝の争乱が始った康永3(1344)年、上関城主三潴氏が和田黒川氏の土地争いに関する文書に初めて登場する。「新潟県史資料編」(県発行)にその文書があり(資料№1255)、同書「通史編」では「長尾景忠は、黒川茂長女子尼玄法の所領の奥山荘内三か村に侵入してこれを押領し、康永3年に幕府から咎められ(1255号)」たと記している。


 文書には、三潴左衛門大夫と相共に彼所に臨むようにと書かれていて、黒川茂長の娘の所領紛争に関して、守護の代官である三潴左衛門大夫(みつま・さえもんのたいふ)を証人として実地検証するよう室町幕府から指示されたことが記されている。

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が建武の新政を敷いたとき、幕府方だった武士の所領は没収され、越後では、その後新田氏から足利方上杉氏へと権力が移動する。

 その間の混乱は頻発する土地争いを生んだ。一所懸命の武士たちは所領を増やすため、または失った所領を回復するため、少しでも有利な方へと必死に動いた。尊氏が多くの武士から支持され政権を握ることができたのは、武士たちの一所懸命をより公平に保障してくれるからだった。

 康永3年といえば、越後守護上杉氏と守護代長尾氏が越後に入部してまだ3年しか経ってないときで、ここで、守護代長尾景忠の押領を許しては、越後各武士の反発を招きかねないとの尊氏の判断があったのではないだろうか。


(2) 黒川氏実の所領回復運動に関わった三潴氏

 享徳元(1452)年、黒川氏実が所領を証明する文書を伯父に奪取されたことを幕府に訴え、2年後の享徳3(1454)年、幕府がそれを認めた際のこと。幕府の担当役人から越後守護方の担当役人への文書で、黒川の訴えを願いどおりに図ったので、各所にお礼をするよう指示しており、その中で三潴氏がお礼の仲介役に当っていることが述べられている。

 同じ年、黒川氏実が、黒川氏旧領の根岸(新潟市旧白根)の土地の回復運動を行った際のこと。守護方の役人2人から黒川氏実に宛てた文書があり、1人の文書には、その土地を譲り渡すことについては三潴によく話しておいたと書いてあり、もう1人の文書には、根岸の地を譲り渡すについては、代官の三潴出雲守道珍(みつま・いずものかみ・どうちん)が言うには、父の伊賀守(いがのかみ)は脚気だし、自分は、職を子の孫二郎に譲るのでその初仕事にしてほしいと、長々と事情が書いてある。そして、三潴出雲守道珍は、三潴弾正(みつま・だんじょう)に宛てて、根岸の地を黒川方に渡すように伝え、さらに黒川氏実への文書では、馬一頭と金子二百疋を拝領したことへの礼を述べている。


 三潴氏は守護の代官として、北越後での所領裁決において幕府や越後府中の担当役人と連絡を取り合い調整を図っていた。当時、上は将軍から下は担当役人まで、便宜を図ったお礼に金品を受け取るのは慣わしで、現代人の我々が眉をしかめても仕方のないこと。

 京でも、関東でも、越後でも、領主たちの争いが繰り広げられていた。そんな中で、黒川氏実のように所領の拡大のために金品を使って運動する領主もいたし、それを助けていろいろと調整に走りまわる役人たちもいた。戦って土地を勝取るだけでなく、政治工作や裁判で本来の所領を確保することの方が重要になっていた。三潴氏も、北越後でそのような役割を担っていた役人の一人だった。


(3) 上野国羽継原の合戦、将軍義政の感状

 とはいえ、役人は武士でもあるから戦乱の当時のこと、いざ合戦となれば家臣を率いて戦場に馳せ参じるのも当然の重要な役目だった。守護代官の三潴弾正(みつま・だんじょう)も勇猛果敢に戦場に出て行く。

 享徳3(1454)年、関東で大事件が発生する。鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を自邸に呼び出し殺害した。将軍足利義政はこれを怒り、軍を派遣して成氏を攻撃した。成氏は、下総国古河に逃げて本拠を構えた。

 このとき、関東管領家の家臣たちは憲忠の弟房顕を総大将にして古河の成氏軍と戦う。越後守護上杉房定は、房顕を応援するため越後から大軍を率いて関東へ進軍。越後守護家は、元々関東管領家が本家、その上、房顕は房定の下で幼少時から養育されてきた関係もあり、さらに、成氏討伐の将軍義政の意向もあった。関東の武将たちは、成氏側と上杉側に分かれ、両軍激突、戦線は関東各地に拡大し戦いは長期戦になった

 越後の有力武将たちも総動員され、上関城主三潴弾正も守護房定に従って参戦。長禄
3(1459)10月、上野国羽継原での激戦では多くの越後武士が奮戦損傷する中、三潴弾正は奮闘むなしく戦場の露と消えたのだった

 翌年長禄4(1460)年4月、将軍義政から、戦死した弾正の子三潴帯刀左衛門尉(みつま・たてわき・さえもんのじょう)に対し、父親の戦死に対し感状が出された。このとき、北越後で将軍から感状を与えられた者は、上関城主三潴帯刀左衛門尉の他には、平林城主色部昌長と本庄城主本庄房長の3人だけ。

 三潴氏は、その働きで守護被官として高く評価され、その勤めも、出先である上関城を守るだけでなく、越後国府(直江津)にいて守護被官として働き、守護にしたがって戦に出陣することも多くなったことと思われる。

 桂関もこの頃には、単なる関所ではなく、城としての構えを整え、上関城と呼ばれていたであろう。



(4) 弥彦神社の改修

 文明13(1481)年、越後守護上杉房定が弥彦神社の修繕のため棟別銭の割当を行った際、中条町(現胎内市)にある大輪寺は足利尊氏の祈願所であることから割当を免除することにした。その際に相談した5人の人物の1人に三潴次郎右衛門尉(みつま・じろう・うえもんのじょう)の名があげられている。次郎右衛門尉は、帯刀左衛門尉の子で、この文書からも、三潴氏が守護被官として府中で活躍していたことが判る。


(5) 三潴飛騨守、胎内川合戦に登場

 明応7(1498) 年、本庄城(現在の村上市)の本庄氏が守護上杉房定に反乱を起こし、守護側は討伐軍を本庄へ向けて進発させた。守護軍が、胎内川原に着陣したとき、上関城主・三潴飛騨守(みつま・ひだのかみ)加地二郎右衛門の2名が出迎え、陣を何処に敷いたらよいかなど、細かく案内している。
 
実は、このとき守護軍は大きな問題を抱えていた。守護軍には、地元の領主である中条氏と黒川氏も加わっていたのだが、両氏の間には以前から領地争いがあった。8年ほど前に守護がその争いを裁定したのだが、黒川氏は自分に不利な裁定だとして大いに不満を鳴らしていた。それで、今度の戦いでは、黒川氏は守護を裏切り本庄氏に味方するのではないかという噂があった。とりわけ、長年領地争いをしてきた中条氏にはその懸念が強く、守護軍の主将たちに、胎内川を渡って黒川氏の領地内へ進軍するのは危険だと訴えていた。
 そんなときの、三潴飛騨守の登場。地元の守護被官として、きめ細かく守護軍の世話をしたものと考えられる。
 守護軍が胎内川の渡河を躊躇している間に、本庄軍は荒川を越えて南進を始めたとの報告が入った。ぐずぐずしているなとの守護からの叱咤で、やむなく、守護軍は胎内川を渡り始めた。そこへ、危惧した通りの黒川氏の裏切りが起こった。黒川氏は表面的には守護軍に従いながら裏では本庄氏と連絡を取り合っていたようで、中条勢は、川を渡ったところで突如として後ろから黒川勢の奇襲攻撃を受けた。中条氏の老将中条朝資は、奮戦むなしく戦死という大痛手を蒙ってしまったのだった。
 中条氏と黒川氏の土地争いには、上関城のすぐ近くの落合の地(上関と下関の間)も含まれていて、胎内川合戦の11年後、永正6(1509)年、中条藤資はその落合の地を黒川氏に返している。
その頃になると越後国内では、守護と守護代が争う下克上の激しい戦国の時代となっていて、中条氏と黒川氏も互いに小競り合いをしているような場合ではなくなったのだった。


 この後、上杉謙信の時代になり、三潴掃部介利宣や出羽守政長が活躍することになる。そして、謙信没後の景勝の時代に入り、上関城四百年物語は終末を迎える。



5 上杉景勝時代の苦闘、そして上関城廃城 ~安土桃山時代~


 天正10(1582)年、景勝は、反抗した新発田重家の征伐に出陣した色部長真に対し、早速の参戦を賞し山上分と三潴分の土地を与える旨約束している。後の文書によって、このとき色部氏に与えられた三潴分の土地とは、酒町村と中目村の計371石分であることが分かる。さらに、翌天正11(1583)年、景勝は、小田切弾正忠に宛てた文書で、三潴分の土地を新発田攻撃の報償として与える旨約束している。

 これらのことは、このときの上関城主三潴左近大夫長能(みつま・さこんのたいふ・ながよし)に何らかの落度があって、景勝から領地を召し上げられたことを意味する。それは、御館の乱で景虎側についたと疑われたのか、あるいはまた、新発田の乱での行動が不適切だったのか明確な記録はない。

 従来は、上記のように考えられてきたが、最近、新しい事実が見つかった。

 天正6(1578)年の御館の乱で、景勝は味方に付いた安田治部少輔に三潴出羽守の旧領分を与えた記録が安田文書にあった。このことから、上関城主三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが)は、御館の乱で景虎側とみなされ領地を没収されたものと考えられる。

 「関川村史」には、左近大夫長能が新発田征伐での落度から所領没収の憂き目に遭ったとされているが、事の次第から考えても、それは不自然過ぎる。

 新発田重家が明らかに反景勝で軍事行動を起こすのは天正101月頃からで、景勝は6月の本能寺の変で信長軍が撤兵するまで動きがとれず、下越の武将へ新発田対策を工作していた。8月になってようやく新発田征伐に出陣するものの、攻めきれず9月に引上げようとして新発田勢の猛追を受け敗戦、10月にようやく戦線を離脱。その12月に色部氏に三潴分を与えているところからすると、天正10年に入ってからの動きの中での左近大夫長能の処罰では急すぎるようで、それ以前ということになると、御館の乱での動きを疑われて領地没収の憂き目に遭っていたと考えるほうが自然のように思える。

 筆者はこのように考えてきたが、安田文書から、所領没収は左近大夫長能ではなく、その父出羽守政長が受けたことであって、御館の乱が原因だったことがはっきりしたと考えている。

 天正11年になると、景勝は、本庄繁長からの三潴左近大夫長能を赦すようにとの願い出を受け入れその罪を赦し、荒川の地を知行させ羽黒城の守備につくよう命じた。この時期は、これから新発田攻めが本格的になるというときで、このことからしても左近大夫長能の処罰理由は新発田側についたためではないことが推測される。

 そもそも、天正
6(1578)年の御館の乱での景勝の行動はどう見ても謙信の遺志を継いだとは言えまい。

 謙信が我が名を与えた景虎を討ち、謙信の養父に当る上杉憲政と景虎の子9歳の道満丸を殺害し、謙信の姪である景虎の妻をも死に追いやった景勝側の行動を、謙信に信頼され謙信の下で活躍してきた三潴出羽守政長が、よしとして見ていたはずがない。

 近くの鮎川氏や黒川氏、下氏、垂水氏などが景虎側についており、三潴氏もそれらと同調する気配を示し、それを景勝に厳しく咎められ所領没収の憂き目にあったのではないだろうか。損得で合従連衡を判断する武士が当たり前だった時代、あくまでも謙信への思慕を顕わにした三潴氏だったのではないかと考えたいところである。

 それはともかく、左近大夫長能は、辛うじて先祖代々の上関城を回復できた。かつて本庄繁長は謙信に逆らって討伐され赦された際、左近大夫長能の父出羽守政長が謙信の督軍で何かと世話になったものと思われる。このたびの左近大夫長能赦免請願に繁長が動いたのは、そのときの恩義があったのではないだろうか。

 新発田の乱が終った文禄
3(1594)年の上杉景勝家臣団の定納員数目録では、三潴左近助分として111833斗となっている。左近大夫長能のことで、本庄繁長のとりなしで何とか赦されはしたものの、没収された所領の多くは戻らず大幅減封の少禄に甘んじるしかなかった。とはいえ、三潴氏にとって本貫の地ともいえる上関城を回復しただけでも不幸中の幸いとしなければならない。それも、謙信の義に報じたのであれば、何の悔いもなかったに違いない。

 左近大夫長能は、その後、萩城(三島郡出雲崎町)の城将松本大炊助の同心とされている。同心とは、家臣ではないけども松本氏の指揮命令下に入るということで、景勝は許しはしたものの厳しい扱いにしたのだと思う。


 新発田征伐では、三潴佐左衛門(みつま・さざえもん)が景勝から感状を貰っている。佐左衛門は、これより数代前に本家からは独立して謙信に仕えるようになった家で、景勝が新発田攻めに出陣する
8月より前の3月と4月に感状が出されていることから、景勝軍の先発隊として早々に新発田勢との緒戦に参加したことを賞されたのだろう。
 推測だが、三潴本家の再興には分家佐左衛門の奮戦も大いに寄与したのではないだろうか。
 文禄
3年の目録で、三潴佐左衛門は142斗で庄内大宝寺にいた本庄越前守の同心につけられている。本庄越前守繁長は、天正19(1591)年に豊臣秀吉の怒にふれ所領没収、蟄居の罪を受けていて、本庄の家臣団は庄内の大宝寺にいたので佐左衛門も本庄同心として大宝寺にいた。

 そうこうするうちに、慶長3(1598)年、景勝は秀吉から会津への国替え命令を受け、家臣一同を引連れて越後を引き払い、会津及び米沢へと移っていく。

 上関城は、この国替えによって廃城になってしまった。

 暫くして左近大夫長能は上関城の隣の小国城の番将として勤務する。国替え後も、それまでと変らず羽越国境を守る任についていたことになる。この地の国境警備は、余人をもっては代えがたい三潴氏代々の専門分野とみなされていたのではないだろうか。何しろ、桂関を守った三潴左衛門尉以来400年を超える長い歴史の積み重ねがあったのだから。


6 エピローグとして、越後米沢街道に残る三潴氏の足跡 ~江戸時代~


 国替え後、三潴左近大夫長能は400石取りの武将として置賜小国城の番将の任についたが、それもつかの間、慶長5(1600)年、上杉景勝は豊臣秀吉亡き後徳川家康と対立し石田三成と図って挙兵、関ヶ原の合戦で西軍は敗北、翌慶長6(1601)年景勝も家康に降伏。その結果、景勝は会津120万石を没収され米沢30万石に大減封。以後、三潴家は米沢城下に居住して代々上杉家に仕え、慶応4(1868)年の明治維新まで267年間、米沢藩士として家を伝えている。また、佐左衛門家は、上杉家米沢減封の頃に武士をやめて医師になり米沢城下で代々その家を伝えている。

 ところで、米沢と越後を結ぶ越後米沢街道の13峠のうち、もっとも標高の高いところを通る宇津峠(海抜491m)の上に三潴氏の名が刻まれた石碑が建っている。

 「宇津峠道普請供養塔」と刻まれた「弘化二年 建立」のこの碑には、峠の道普請に携わった人々の氏名が列記されていて、その中の一人に三潴兵内の名がある。上杉家臣三潴氏の系譜によると、弘化2(1845)年当時の当主としては、文政5(1822)年から嘉永2(1849)年まで当主を務めた第12代三潴六弥政富の項に「兵内を改む」とあるので、碑に刻まれた三潴兵内とは、この人ではなかろうか。

 石碑には、三潴兵内が、四境御用掛として小松峠から玉川までの普請方の筆頭を勤めたことが刻まれている。先祖がこの街道の要地上関城の城主だった三潴氏は、移封後も同じ街道の要地小国城の番将を勤め、幕末期の弘化2年当時もなお、この街道の交通確保に大きく関わっていたのだ。


 越後米沢街道は、戦国時代には米沢を拠点にした伊達氏にとって重要な塩の道であったし、江戸時代には、米沢に転封された上杉氏にとって旧領越後とつなぐ最重要の道であった。その街道の要である「上関城」を鎌倉時代以来400間も押え続けた三潴氏が、城を離れて200年経てもなお越後米沢街道に欠くことのできない存在だったことをこの石碑は示しているように思える。


 宇津峠の石碑群
左から2個目、丸い石碑が「道普請供養塔」
 
 供養塔の拡大 三潴兵内の文字

 史実・伝説、さまざまな物語を秘めて、越後米沢街道13峠の道は、現在もその名残をとどめている。そして、この街道の交通に深く関わった三潴氏が居城とした上関城も、鬱蒼とした杉林の中に四百年の物語を秘めて静かにその遺構を眠らせている。

 上関に残る古城址にたたずみ、あるいはまた13峠の古道を歩きながら、こつこつとたゆむことなく歩み続けた先人の物語を偲んでみたい。上関城の傍らを流れる荒川は、今も先人のそのときと変らぬ豊かな水を流し続けている。(おわり)



 上関城および城主三潴氏に係る考察は、WEB上に掲載の「北越後関郷 上関城 四百年物語」で論述してあります。本稿で不足の分はそちらで補充していただければ幸いです。なお、参考・引用文献についても、WEB掲載の「物語」の「補足ページ」に記載してあります。