越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
2 上関城とは?


(1) 上関城の位置

 新潟県村上市坂町で国道7号線から分岐する国道113号線に入り、山形県方面に向って進むと関川村大字上関地内に入ります。
 その上関地内で国道から県道に左折して高瀬温泉に向うと荒川に架かる温泉橋があります。その温泉橋を渡る手前、荒川左岸の橋のたもとに上関城址があり、前頁に掲げた石碑が道路脇に立っています。 石碑の後ろは鬱蒼とした杉林となっています。
  県道が、もともと城山だった高所の端を通っているため、周囲を見ても城山というほどの高い山には見えず、車で走るだけでは見落としてしまいがちな地形になっています。車を降りて石碑の廻りを見渡せば、土塁がすぐ目に入り、城跡であることに気付きます。

 ただし、城址の土地は私有地であるため、無断でのむやみな立ち入りは控えなければなりません。


(2) 上関城の規模


<昭和44年関川村教育委員会刊「上関城址緊急発掘調査報告」書から>  

人家の屋根の向うの木立がお城山

杉木立の向うに土塁と中央に虎口(外枡形)

本丸背後の断崖(獅子舞岩)

堀(空堀)と土塁 

土橋を渡る 
 
土塁の上を歩く

 城山の北西側麓を旧米沢街道が通っていて、江戸時代の上関宿場街の雰囲気をそこはかとなく残しています。
 その街道集落から比高10mくらいの丘の上に上関城は立っていました。平城式丘城の類型に属するとされています。
 ですから、山城というのは当らないでしょう。城内の縄張り(堀や土塁の配置、仕切り)は、近在に分布する山城とは異なって、実に整然としています。
 虎口(こぐち)と呼ばれる本丸の出入り口には、土塁による小さな囲いがあり「外枡形」と言われています。その虎口の脇の土塁は折曲がっていて「折歪(おりひずみ)」と言われています。馬場の出入り口にあるかぎ型の土塁は「かざし土居」と言われ、これらは戦国末期の築城技術を示すものとされています。
 それらは、深く掘った堀とその土を積み上げて作った土塁と合わせて、敵の侵入攻撃を防ぐための施設です。

 これらの施設が、今もしっかりと残っていて、杉木立を透かしてよく見ることができます。
 城の規模は、南北約250m、東西約100mで、内外郭、土塁、堀、門などの諸遺構がよく残っているわりには、こじんまりとした小規模さが気になります。この点については、物語の展開の中で考察してみたいと思っています。
 現在は国道113号線とJR米坂線が通って分断されていますが、城山とその南方の杉王山(標高196m)は低い尾根でつながっています。この杉王山から長峰山(標高197m)にかけての尾根筋に上関城の山城があったのではないかと言われていますが、その痕跡は見つかっていません。このことについても、物語の展開の中で考察してみたいと思います。

 上関城は、もともとは「桂関(かつらのせき)」という関所の地でした。上関という地名もそこから来ています。もちろん下関の地名もですし、もっと言えば関川村の村名そのものの元でもあります。
 桂関は、越後と出羽を結ぶ古代からの街道の要衝にありました。当時は陸上の道路交通だけでなく川を利用した交通もさかんでしたから、陸と川の人と荷物の通行を取り締まる重要な関所だったと考えられます。
 関川村土沢の白山神社に伝わる棟札には元慶(がんぎょう)2年の日付で、武運長久を祈る言葉が書かれているそうです。元慶2年は西暦878年にあたります。この年に出羽国で反乱が起こり、派遣された鎮圧軍が白山神社に祈願を残したのではないかと言われています。これほど古い時代から、桂関を通る街道は重要な交通路だったということでしょう。
 ずっと後になって江戸時代には、城山の南方街道沿いに陸の番所が、そして、城山の北方荒川岸には川の番所が置かれました。ですから、桂関も同じように陸と川の両方を取り締まっていたに違いありません。

 はじめのうちは城山の麓の関所の建物だけで務めを果たしていたのでしょうが、そのうち、戦乱の世になるにしたがい、城という堅固な防御施設が必要になったのでしょう。いつ頃から桂関が上関城になったのか、はっきりとした記録はありません。ただ、上関城は桂関城、荒川城などとも呼ばれていたとのことです。いつごろ、なぜ、城が必要になったのか、これもこの物語のテーマの一つです。

 それでは、早速、物語の世界に入りましょう。
 話は、時代の順を追わず、いきなり上関城の主がもっとも輝いた時代から入ります。いわば物語のクライマックスです。

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