北越後関郷(せきごう)上関城を預かる、三潴出羽守政長(みつま・でわのかみ・まさなが)に、ございまする。あるじ、上杉弾正少弼 (うえすぎだんじょうしょうひつ)の名代として、参上仕りましてございまする。
 北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
3 物語はいきなりクライマックスから
    ~物語を彩る城主・三潴出羽守政長~

(1) 謙信の使者として上洛

 時は永禄(えいろく)5年(西暦1562年)1月13日、京の室町幕府将軍御所、謁見の間に大音声が響く、その場面を想像して見てください。  
 
「歴史館」展示・三潴家伝来の鎧兜  
 

 正面最上段、御簾を巻上げた奥には、時の将軍足利義輝(あしかが・よしてる)公、その下段には、将軍に近侍する諸侯が左右に居並んでいます。そして、最末席中央に座って大音声を張り上げているのが、上関城主の三潴出羽守政長、その人です。

 この時、上関城主三潴出羽守政長は、越後の龍といわれて名高い上杉謙信(うえすぎ・けんしん)の家臣でした。上杉弾正少弼というのは謙信のことです。この当時は、人の名を呼ぶとき、直接名前は言わないのが礼儀で、官名を言うのが慣わしでした。出羽守や弾正少弼が官名です。

 前年の暮、永禄4年(西暦1561年)12月、将軍義輝は使者を越後国に送り、謙信を関東管領に任ずることを伝え、自分の名の「輝」の字を与えました。謙信はそれまで、上杉政虎(まさとら)と名乗っていましたが、それからは輝虎(てるとら)と名乗ることになります。
 義輝は、謙信に一日も早く上洛して自分を補佐してほしかったのです。しかし、このとき、謙信は関東に出陣中で越後を留守にしていました。そこで、政長に命じて、将軍への御礼の使者として京へ派遣したのです。
 12月23日に越後・春日山城を出発して京に上った政長は、年が明けた永禄5年1月13日、京の将軍義輝に、謙信からの御礼として太刀1腰・御馬1匹・黄金2百両を献上したのでした。将軍からは、政長に、御刀1腰が与えられました。政長は、重要な使者としての務めを果たして無事帰国したのでした。
 将軍から刀を拝領するということは、大変名誉なことでした。刀は銘・肥前国吉(ひぜん・くによし)という名刀でした。それだけ重要な仕事を見事に果たしたということを表しています。

 政長は、謙信にとっては最も重要な将軍への使者を託されるほど、謙信から厚く信頼された武将でした。上関城主でありながら、普段は、謙信の居城・春日山城(現在の新潟県上越市にあった城)に勤めていて、上関城は、政長の家臣が守っていたのです。

 政長の京派遣の背景には、謙信にとっても、義輝にとっても、大変重要な事情がありました。

 

(2) 謙信の事情、義輝の事情

この頃の謙信、その事情

 この頃の上杉謙信は、超多忙の日々を送っていました。

 3年前の永禄2年(西暦1559年)に、謙信は5千人もの軍勢を引連れて上洛し、将軍義輝に拝謁しています。義輝は、謙信の人物・力量を大いに見込み、大変頼りにして関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)を助けて関東の兵乱を収めるよう命じました。
 関東管領とは、室町幕府の関東方面の軍事最高司令官ですが、この頃は、相模(さがみ・今の神奈川県)の北条(ほうじょう)氏や甲斐(かい・今の山梨県)の武田(たけだ)氏など実力をもった戦国大名が関東管領の命に服さず、関東や信濃(しなの・今の長野県)で勝手に戦を起こしていました。上杉憲政は、もはや謙信の助けがなければどうにもならない状態まで追い詰められていたのです。

 翌永禄3年(西暦1560年)、謙信はまず越中(えっちゅう・今の富山県)に出陣し,武田氏と通じていた神保(じんぼ)氏を征伐し、続いて関東へ出陣しました。関東と越後の軍11万3千騎を率いたといわれる謙信の軍はあたるところ敵なし、その姿は、まさに軍神に見えたことでしょう。
 謙信はこの年(永禄3年)関東で年を越し、翌永禄4年(西暦1561年)3月になると北条氏の小田原城を大軍で攻め囲みました。
 この時、上杉憲政は、関東管領の職を謙信に譲り、上杉家の名跡も謙信に継いでもらうことにしました。

 謙信は、それまでは長尾景虎(ながお・かげとら)と名乗っていましたが、このときから、上杉家を継いで上杉政虎(まさとら)と名乗っています。関東管領の職と上杉家の名跡とあわせて、憲政の「政」の字も譲られたのです。(謙信と名乗るのはもう少し後になってからのことですが、紛らわしいので謙信の名で通します。)

 因みに、上関城主・三潴出羽守政長の「政」の字は、政虎(つまり、謙信)の「政」の字を与えられたものです。主君の名の一字を家臣に与えることは「偏諱(へんき)」といって、この頃にはよくあったことで、家臣にとっては大変名誉なことでした。

 さて、小田原城の北条氏は城に立て籠もってしまって、戦いになりません。謙信は包囲を解いて鎌倉へ向かい、謙信の関東管領就任を喜ぶ関東・越後の武将たちとともに鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の神前で関東管領の就任式を盛大に挙行しました。これが、春のことです。
 謙信は、このあと一旦軍を越後に還した後、夏になるとすぐに信濃に出陣します。9月、川中島で、武田信玄(たけだ・しんげん)との一騎打ちで有名な大合戦を行います。そして、この合戦のあとも、謙信は関東へ出陣し、休む暇もありませんでした。

 実は、関東管領の職に就くには、将軍からの正式の任命が必要でした。将軍義輝も、謙信を上洛させた上で正式に任命したいと心待ちにしていました。今、米沢市に残る国宝「上杉本洛中洛外図」六曲屏風は、謙信が上洛したら贈るつもりで義輝が作製させたものだとの説があります。それくらい、義輝謙信の上洛を心待ちしていたのです。それには、義輝の側にも、大きな事情がありました。それは、このあとで述べます。
 ところが、その謙信は超多忙で上洛できません。そこで、代わって三潴出羽守政長が使者として上洛したというわけです。謙信にとっても義輝にとっても、政長の役割はそのくらい重要だったということです。戦いの連続で上洛できない謙信に代わって、最も重要な将軍との連絡役を担った政長は、いわば越後の外交官の役割を果たしていたといってもよいでしょう。



この頃の将軍義輝、その事情
 将軍義輝にとっても、政長が使者としてあがったこの時期は、とても大変な時期でした。

 この頃の室町幕府の将軍はかつての力を失い、本来は家臣であるはずの幕府の重臣たちは将軍の命を受け入れず、勝手に重臣同士で戦を起こし、事あれば将軍を京から追放するようなことさえありました。

 天文(てんぶん)18年(西暦1549年)に、義輝は、家臣同士の争いに巻き込まれ、前将軍の父とともに京を逃れて近江(おうみ・今の滋賀県)に落延びていたのですが、その後、義輝たちを追放した側の三好長慶(みよし・ながよし)と一時和睦し、京に戻ることができたのでした。ところが、天文22年(西暦1553年)になると、家臣であるはずの三好長慶にまた攻められて、またまた近江に逃れていました。そして、永禄元年(西暦1558年)になって、義輝は味方の重臣とともに三好方と激しく戦い、その結果、和睦して京へ戻ったのです。
 謙信が上洛して将軍義輝に拝謁したのは、その翌年、永禄2年(西暦1559年)のことでした。

 将軍に仕えるはずの重臣たちの勝手な振る舞いで不安定な立場に置かれていた義輝としては、義に厚い謙信の登場は、どれほど心強かったか分かりません。自ら手をとって謙信に鉄砲の火薬の調合の仕方を教えたくらい、親しく接したと言われています。そして、管領(かんれい)という幕府では最高位の重臣と同等の扱いをすることを許すなど、手厚く遇したのでした。この時、関東管領上杉憲政を補佐するよう命じたことは、「謙信の事情」で述べたとおりです。
 そのようなこともあってか、一度ならず戦った三好長慶もその後は義輝と争わずに過ごしていましたが、永禄7年(西暦1564年)にその長慶が没すると、直ちに反義輝派の者たちが陰謀を企み、翌永禄8年(西暦1565年)、将軍義輝は、長慶の後継者となった三好義継(みよし・よしつぐ)らに暗殺されてしまうという大変な事態になったのでした。

 このように、京にいて、いつ寝首をかかれるか分からない輩に囲まれていたのですから、義輝は早く謙信に上洛してもらい謙信の力を借りて幕府をしっかりとした組織に立て直したいと考えていたに違いありません。
 そのようなときだからこそ、謙信の使者として上洛した三潴出羽守政長は、将軍義輝にとっても重要な人物だったわけで、名刀を与え手厚く遇したのでした。


 ところで、将軍義輝は、剣豪としても名高い人で、たくさんの名刀を持っていたと言われています。有名な剣の達人塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)の弟子だったとも言われています。そのくらいの人でしたから、永禄8年、暗殺者の軍勢に御所を襲撃されたときは、刀をふるって猛然と戦い、多勢に無勢で力尽き果てるまで、刀を何本も取り替えては敵と切り結んだという話が残っています。

 家臣に将軍が殺されるなど、まさに下克上の時代を象徴する出来事でした。
 このような動乱の時代に上関城主・三潴出羽守政長は、謙信から信頼される家臣として活躍していたのです。



年号 西暦         できごと
 天文18 1549  将軍義輝、近江に逃亡、その後、和睦して帰京
 天文22 1553  義輝、再度近江に逃亡 
 永禄元 1558  義輝、和睦して帰京 
 永禄2 1559  謙信、上洛し将軍義輝に拝謁 
 永禄3 1560  謙信、越中出陣、続いて関東出陣、関東で越年
 永禄4 1561  3月、謙信、小田原城包囲、鶴岡八幡宮参拝   9月、川中島の合戦 
11月、謙信、関東出陣、関東で越年
12月、将軍義輝、越後へ使者派遣  三潴出羽守政長、謙信の使者として上洛 
 永禄5 1562  1月、政長、将軍から刀拝領    3月、謙信、関東から帰国
7月と10月、謙信、越中出陣    11月、謙信、関東出陣、関東で越年 
 永禄6 1563  4月頃、謙信、帰国    10月、謙信、関東出陣、関東で越年 
永禄7 1564  3月、謙信、帰国     7月、謙信、信濃出陣  
永禄8 1565  5月、義輝暗殺       11月、謙信、関東出陣 


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