北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
3 物語はいきなりクライマックスから
  ~物語を彩る城主・三潴出羽守政長~
(3) 謙信の本庄攻め、
        平林城主・色部勝長の戦死

 永禄(えいろく)12年(西暦1569年)1月9日、北越後で大事件が勃発します。

 この日、謙信は、反旗をひるがえした本庄城(今の村上市の村上城)主・本庄繁長(ほんじょう・しげなが)を大軍で攻撃していました。城を取り囲まれた繁長は、一か八かの勝負に出、この日の夜更け城を打って出て謙信勢に夜襲をかけたのです。
 本庄城下の飯野原(いいのがはら)で大激戦となりました。その激戦の最中、謙信傘下の包囲軍の将、平林城(現在の村上市平林)主・色部勝長(いろべ・かつなが)が、繁長勢の猛攻により武運つたなく戦死してしまったのです。
 日付の変った10日未明のことといわれています。  

本庄城(村上要害)「慶長絵図」から 

 本庄氏と色部氏は、先祖が兄弟で領地が隣り合う親戚関係にありました。隣同士の親戚が戦って、その一方の謙信側の城主が死んだのですから、これは大変な出来事でした。色部氏の一族郎党とその領地は、今後はどうなるか、それだけでなく大きく言えば越後はどうなるかの大事件です。

 この大事件の中で、上関城主・三潴出羽守政長は、謙信から信頼され重要な役割を命じられています。

 まずは、なぜ、こんな大事件が起こってしまったのか、かいつまんでその経緯から話を始めましょう。

本庄繁長について

 本庄繁長は、生まれたときには、本庄城主だった父が弟(繁長にとっては叔父)の裏切りにあって死んでいて、幼い頃からその叔父の下で隠忍自重の生活をし、13歳のとき父の仇を討って本庄城の主になったという人で、戦国時代に名を轟かせた豪勇の武将でした。
 繁長は、謙信が越後国主となった永禄の初め頃から、その家臣となって従軍し、普段は春日山城に勤めていました。
 それが、永禄11年(1568年)3月、謙信が越中(富山県)に出陣しているとき、無断で春日山城から本庄城に帰り、謙信に反抗する行動をとったのです。
 その理由については、川中島の合戦での働きを謙信に十分評価してもらえなかったこと、加えて、謙信の家臣の中に繁長を快く思わない人たちがいて争ったことなど、いくつか言われています。
 謙信という人は、どうもアドレナリンの分泌が人一倍多い人であったようで、いざという戦いの場面などでは誰にも真似のできないほどの勇猛果敢で神がかりかと思えるような行動をとる反面、普段でもカッとすると見境なく叱り付けるようなところがあった、という人がいるくらいの激しい人でもあったようです。
 繁長の反抗には、そのあたりの人間関係や謙信への人物評価も含まれていたのではないかと思っています。歴史を作っていくのは、一人一人の生きた人間だという意味で、興味をそそられる話です。

 また、元々の家柄から言えば、繁長の方が謙信より上で、そのことも影響していたのでないかという説もあるようです。
 少し入り組んだ話になりますが、本庄氏の始りは鎌倉幕府創設者源頼朝(みなもとのよりとも)の御家人(直接の家臣)で、頼朝によって本庄地方の地頭に任命されたときから北越後を治めてきました。それに対して、謙信は、それよりずっと後の室町時代になって越後守護になった上杉氏(関東管領の上杉とは別)の家臣で守護代として越後に入ってきた長尾氏の人でした。
 いってみれば、繁長からみれば謙信は新参者の家の家来筋の人ということになり、そのような人の家臣になることを内心快く思っていなかっただろうということです。
 しかし、余人はどうあれ、繁長ほどの辛酸を舐めて育ってきた苦労人の実力ある武将が、謙信何するものぞという誇りと自信は当然持っていたでしょうが、古い格式でものを考えるような硬直した頭では、あの難しい動乱の時代を御していくことはほとんどできなかったでしょう。後代の人のかんぐりというほどの説ではないでしょうか。
 だた、武田信玄は、謙信上杉名乗りを認めず、事あるごとに「長尾が、あの長尾めが」とか言って見下そうとしていたそうです。これは、ライバル憎しの悪態のレベルでしょうか。

 余談のようになりますが、長尾謙信(実際は景虎)が上杉謙信になったのは、主家越後守護家の上杉氏を乗っ取った下克上だと思っている人もいるようですが、これは、違っています。
 謙信は、主人筋の越後守護上杉家は大切にしていて、最後まで越後守護にはなりませんでした。ただ、その上杉家は紆余曲折があって血脈が細り、結局は自然消滅してしまったように見えます。謙信は、守護代の長尾のまま、将軍義輝から国主として越後一国を統べる行動を認められていたのです。そして、その後で関東管領の上杉家を継いで上杉を名乗ります。これも自ら求めてではなく、力衰えた関東管領上杉憲政に頼られての結果と言われています。その上杉家は、越後守護家の上杉ではなく、関東管領の上杉で、両者は親戚関係はありましたが、元来別の家です。


 話を戻しますと、この当時、謙信武田信玄という最大のライバルをかかえていました。五度も信濃の川中島で戦っても勝敗は決していなかったのです。そこで、信玄は、越後国の周囲の武将にいろいろと手を回し、越中や信濃、東北方面から謙信攻撃の手を次々と繰り出していました。
 繁長も、謙信に反抗して、その信玄と手を結んだのです。

謙信の本庄攻め

 そうなっては、謙信も手をこまぬいているわけにはいきません。下手をすると越後国の内側から信玄にかき回される恐れがあります。謙信最大の国難とも言われています。繁長反乱の報を聞いて、ただちに越中から帰国し、繁長討伐のための様々な手を打ちます。特に力を入れたのは、信玄繁長との連絡を断ち切るために国境の警備を固めたことです。 
 このため信玄の助力が得られず、繁長は困りました。
 その上で、10月下旬、謙信繁長討伐の軍を率いて春日山城を出発します。11月には、繁長が奪い取っていた猿沢城を謙信勢が奪還します。そして、本庄城を取り囲んだのです。

村上城跡 臥牛山

 軍神かと言われたぐらいの戦上手の謙信に、じわりじわりと攻め寄せられて、さすがの繁長も手が出ません。この状況では近くの武将たちに声をかけても、味方になってくれる人はいません。頼みの信玄は、謙信繁長を攻めていて動きが取れないことをいいことに、駿河(するが・今の静岡県)の今川氏を攻めていて、あてにはなりません。
 繁長は窮地に陥って、会津の葦名(あしな)氏や米沢の伊達(だて)氏などの大名に頼んで、謙信との和睦の仲介をしてもらいますが、謙信は許しません。

 そこで、繁長は、切羽詰って一か八かの夜襲決戦に出たというわけです。
 追い詰められた猛獣ほど怖いものはないと言われます。繁長軍は奮迅の働きです。結果、謙信軍の一方の将・色部勝長の戦死という悲惨な事態が生じたわけです。この決戦の勝敗はつかなかったようですが、結果的にはその年の3月、謙信は、伊達蘆名の仲介により繁長の侘びを受け入れ、許すことにします。繁長は、越後国以外の武将とも厚いネットワークを持っている独立心旺盛な武将で、内外から一目も二目も置かれる存在だったのです。

 謙信にしても、信玄の手が各地に伸びていることを思えば、繁長との戦いをこれ以上長引かせる余裕はなかったのでしょう。戦後の処理を終えた謙信は、4月に春日山城に引上げています。



(4) 三潴出羽守政長父子の活躍

羽越国境の警備

 (3)で述べたように、繁長反旗の知らせを受けた謙信は、直ちに出羽と越後の国境の警備を固くするよう命じました。繁長が出羽方面を通して信玄と連絡することを阻むため、また、信玄と通じた出羽の軍が越後に侵入するのを防ぐ必要があったからです。
 永禄11年(1568年)8月に謙信は、庄厳城(しょうごんじょう・村上市朝日地区の笹平)と下渡嶋城(げどしまじょう・村上市下渡)を至急繁長から奪い取って固めるよう諸将に命じています。ここが、繁長のいる本庄と出羽国庄内地方を分断させるための戦略上の要地と見て、至急押えさせたのです。
 そして、庄厳城には、三潴出羽守政長の子・左近大夫長能(さこんのたいふ・ながよし)を入れて守備させました。長能はその後12年間もの長い間、庄厳城に詰めて羽越国境の警備に当りました。

 当時、出羽と越後を結ぶ交通路は、国境の山々に複数ありました。上関城のある荒川通りのほかにも、荒川の支流・女川沿いの山路や、長津川(村上市朝日地区)沿いの山路もよく使われていました。長能はその長津川沿いの庄厳城を謙信から預かり、三潴氏の本城上関城から連なる羽越国境山岳地帯の要衝警備にあたったのです。

 父・政長は、上関城主として荒川通りの国境警固にだけ当るというわけにはいきませんでした。政長には、謙信から別のもっと重要な任務が命じられていたのです。
 上関城を含めて羽越国境山岳地帯の警固の任務は、息子の長能と上関城に詰めている守備の家臣団が、政長の指揮の下でしっかりと果たしていました。繁長降伏後も、長能は長く庄厳城の城将として、油断のならない出羽の米沢や庄内方面の監視と国境警固に努め、謙信の期待に応え続けました。


色部氏の後見

 平林城主・色部勝長の戦死に際して、謙信から、政長に宛てた文書が残っています。
 そこには、図らずも勝長が戦死したことは是非もないことだが、色部には後継者として顕長(あきなが)がいるのだから、これをとり立て色部の家が成り立つようにして欲しいと、命じています。

 当時、政長は、阿賀北衆(阿賀野川以北、つまり北越後の武将たち)の督軍の役目を担っていたと言われています。北越後の武将たちの戦いぶりを監督し、時には世話をする立場で、軍監ともいわれ、江戸時代の大目付の役割にあたります。阿賀北衆は勇猛果敢で独立心の強い武将たちが揃っていることで知られていました。繁長のようにともすれば、謙信何するものぞとの思いの強い人たちです。味方にすればこれほど心強いものはない反面、敵に回したら手を焼く人たちであることは、繁長の反抗を待たなくとも、謙信はよく承知していました。
 その阿賀北衆を監督し世話する役割を、謙信政長に期待していたのです。
 政長は、勝長亡き後の色部家が年若い顕長を中心にして立ち行くよう後見人としての役割を果たしました。

 また、繁長の降伏後のことも戦後処理の中で力を尽くしたと思われます。
 少し後の話になりますが、謙信の後の景勝(かげかつ)の代になってからのこと、御館の乱が原因と思われますが、政長景勝から領地を没収され、三潴氏は、あわや上関城から追放という事態に陥ります。その時、本庄繁長のとりなしによって何とか景勝の怒りを解き、領地の一部没収はあったものの、政長の子・長能繁長の保護のもと上関城を確保できたという出来事が起こります。
 これは、遡って永禄12年の繁長降伏の際、督軍・政長の対応に敗軍の将・繁長が感じ入ること大だったからではないでしょうか。繁長はそのときの恩を忘れず、三潴氏の一大事に報いたのだと思われます。なお、三潴氏浮沈のこの出来事については、「上関城四百年物語」の終末で詳しく取り上げることにします。

 勝長戦死の前後処置の後も、謙信から政長に、藤懸城(ふじかけじょう・今の村上市山北地区の府屋にあったとも、または、山形県鶴岡市櫛引町にあったともいわれている)に出陣し、府屋(村上市山北地区)の大川氏に、早く藤懸城を攻撃するよう、これは大事な戦いであることをよく言って聞かせるようにと、丁寧に命令されています。大川氏は、兄が謙信側についたものの、弟は繁長側につい藤懸城に籠もっていたのですが、兄弟間の攻防は結局うまくいかなかったようです。

 このように、政長謙信に頼りにされ、阿賀北衆の督軍として東奔西走の活躍をしていたのでした。

 実は、政長がこのように謙信に信頼された背景には、政長の父・三潴掃部介(かもんのすけ)の大活躍があったのです。章をあらためてその物語に入りましょう。



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