北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
4 三潴出羽守政長の父・掃部介利宣
   ~上関城主が活躍した戦国の世~
(1) 川中島の合戦で大活躍

 天文(てんぶん)22年(西暦1553年)、信濃国(しなののくに・長野県)川中島で、上杉謙信の軍と、武田信玄の軍との戦いがありました。
 世に名高い川中島の合戦です。謙信信玄の合戦は、この年から永禄7年(西暦1564年)までの11年にわたって5回も行われますが、その第1回目の合戦が、この天文22年の戦いでした。 

 謙信と信玄の一騎打ち 

 この戦いで、上関城主・三潴掃部介利宣(みつま・かもんのすけ・としのぶ)は、大手柄をあげました。
 謙信は、将軍足利義輝への合戦の報告書に、その大手柄を載せています。

 報告書には、8月28日、信州(信濃国のこと)川中島の下米宮というところで、武田軍と合戦となり、大勢の武田軍を討取りました、と述べて戦果を列挙しています。
 その中に、諏訪次郎右衛門(すわ・じろうえもん)と三潴掃部介(みつま・かもんのすけ)の両人で、武田方の朝日奈左京亮(あさひな・さきょうのすけ)と武田飛騨守(たけだ・ひだのかみ)の軍勢1300を討取ったことがあげられています。
 もちろん、諏訪三潴がたった二人で1300人を討取ったということではなく、この二人の将に従う軍勢が戦った成果です。三潴掃部介の軍は、当然、上関城の軍勢です。上関から、大勢の将兵が城主に従って信濃の川中島まで戦いに出掛けていたのです。

 では、この当時の上関城はどんな様子だったのでしょうか。

 その話に入る前に、なぜ、こんな遠い土地で合戦をすることになったのか、その経緯をかいつまんで話しておくことにします。


(2) 川中島合戦のいきさつ

   この当時、大名が家臣に与える給与はお金ではなく土地でした。その土地で収穫される米を主とした農産物などにかける税が家臣の給料になっていたのです。

 武田信玄の領地甲斐国(かいのくに・山梨県)は山地が多く、米を作る平地の少ない国でしたから、信玄は家臣に与える土地を求めて、領地の拡大策をとるしかなく、四方八方へ侵略の手を伸ばしていました。
 その一つが隣国の信濃です。信濃には大きな力をもった大名がおらず、多くの小規模な領主が散在していましから、強力な信玄に攻められては勝ち目がありません。
 そこで、信濃の領主たちは、隣国越後の謙信に助けを求めてきました。義に厚い謙信は、信濃の領主たちを助けることにしました。もちろん、信玄が信濃一国を我がものにすれば次は越後に攻め入るに決まっています。
 
信州 姥捨の棚田 越後勢はここにも進軍
 謙信は、越後を守るためにも、信濃への信玄の侵略を許しておくわけにはいかなかったのです。
 そこで、信濃へ攻め入った信玄と、信濃を守るための謙信との戦いが繰り返されたのです。

 川中島は、今の長野市を流れる犀川と千曲川が合流する大きな三角形になったところを言います。この土地を舞台に、5回に渡って謙信信玄の戦いが行われました。
 信玄が信濃へ侵入すると謙信がそれを防ぐために越後から出陣します。かなわないとみた信玄は一旦兵を退きます。謙信も越後へ帰ります。すると信玄がまた信濃へ侵入します。この繰り返しで、都合5回、大小様々な戦いがあったのですが、結局勝敗はつかなかったのです。

 謙信は信濃に領土を広げる野心はなく、信玄を追い払うと越後に引揚げますから、その留守を狙う形で、結果的には信玄は信濃に領土を広げてしまいました。しかし、信玄の手が越後に伸びることは、防ぐことができました。

 5回の合戦のうち、もっとも有名なのは永禄4年(西暦1561年)の第4回合戦で、このときには、大軍の駆け引きが夜を徹して行われ、両軍入り乱れて戦う中で、総大将の謙信が敵陣深く切り込み、敵の本陣に単身乗り込んで敵の総大将信玄に太刀を浴びせたという有名な一騎打ちの逸話が残っています。

 ただし、謙信が単身切り込んだというのは武田側の記録にあるだけで、上杉側の記録には、単身切り込んだのは謙信ではなく、荒川伊豆守(あらかわ・いずのかみ)だとされています。
 この荒川伊豆守という人については、上関城の荒川を挟んだ対岸に垂水城があって、そこの城主垂水源二郎(たるみ・げんじろう)の通称ではないかという説もありますが、真偽のほどは不明です。

 この物語の第3章で話したように、永禄4年の第4回合戦のときには、上関城主三潴出羽守政長が京の幕府との交渉役で大活躍していました。第1回の合戦では、その父の掃部介利宣が戦場で大活躍していたのです。
 それ以外の合戦での活躍は、今では記録に残っておらず伝わってはいませんが、謙信の度重なる信濃や関東への出陣には、阿賀北の武将たちも何度も謙信に従って出兵していますので、上関城主の掃部介出羽守父子も、上関城にいる家臣や領民をつれて戦いに参加していたに違いありません。


 上杉謙信の川中島合戦関係の年表
年号   西暦 できごと
天文22  1553  信玄に攻められた北信濃の領主が謙信に援助要請 8月謙信出陣・第1回川中島合戦
9月謙信、越後へ引揚げ、その後上洛し後奈良天皇に拝謁 
弘治元  1555  7月謙信出陣・第2回川中島合戦 10月に引揚げ 
弘治2  1556  謙信、家臣たちの争いが続き、突然の引退表明、家臣の慰留で復帰 
弘治3  1557  3月謙信出陣・8月第3回川中島合戦 
永禄2  1559  4月謙信2回目の上洛、将軍義輝に拝謁10月帰国 
永禄3  1560  3月謙信、越中出陣 9月謙信、関東出陣 
永禄4  1561  3月謙信、小田原城攻め、翌月鶴岡八幡宮で関東管領就任式 6月帰国
8月謙信、信濃出陣、9月第4回川中島合戦 信玄との一騎打ち伝説  11月関東出陣 
永禄7  1564  7月謙信、信濃出陣 8月第5回川中島合戦   10月帰国、すぐ関東出陣  


 それでは、このように上関城主が活躍した戦国の時代、上関城やその周囲はどのような様子だったのでしょうか。

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