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平田甲太郎家文書<入会山からの伐り出し関係文書> | |||||
① 入会山から売り薪伐り出し念書 文化5(1808)年 平田家文書№736 | |||||
② 15ヶ村入会奥山薪伐り出し 天保2(1831)年 平田家文書№629 | |||||
③ 筏伐り出し稼業一札 嘉永2(1849)年 平田家文書№515 | |||||
③ 筏伐り出し稼業一札 嘉永2(1849)年 文書№515 | |||||
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広報せきかわ2024年9月号 | |||||
〈解説〉 (1) 文書の大意 嘉永2年は米穀の値が高騰して、小見・上野山・滝原の小前百姓衆は、生活維持が困難になった。 そのため、来年春、三ヶ村入会山の木を伐り、筏にして川を下し売りに出すことを村に願い出、承認された。 この入会山は、三ヶ村用水の水源地で、「留山」つまり水源涵養のための伐採禁止地とされていた。それで、今回の願出は、来春限りの特別のお願いで、以後は決して願い出ないことを約束した。 また、筏稼ぎの「二分銭」を使って、村が、干害時の備えとして溜池を二ヶ所造ることを承知し、必要な人足を出すことも約束した。 ※ 「二分銭」については、文化5(1808)年の「入会山から売り薪伐り出し念書」(文書№736 ⇒こちら )で解説したので、ここでは省略する。 (2) 二ヶ所の溜池について 「右筏二分銭を以って 赤臓の内外 はんのき谷地 二ヶ所へ」と、溜池の場所を二ヶ所あげてある。 「はんのき谷地」の溜池は、享保12(1727)年の新田開発の際に築かれたことは、村広報紙連載の13回目(2022年6月号 ⇒こちら )で紹介した。 それから122年経つ。この間に、破損等で使用できなくなっていて、今回新たに築造しなおすことにしたのかもしれない。 もう一ヶ所、「赤臓の内外」という地名が分かりにくい。 臓は「くら」とも読むので、赤倉あるいは赤蔵のことかもしれない。 現在の渓流地図を見ると、アカ沢や赤坂の地名が載っている。ただ、アカ沢は「はんのき谷地」の沢で、場所が重なる。 引ノ沢(現・吹の沢)本流の赤坂の地名が赤倉に関係しているのだろうか。以前、現地に行ったことがある。本流とコウモリ沢の出会いのあたりは、土砂が堆積していた。今思えば、そこが溜池に適しているようにも思える。 果たして、どうなのだろうか。 (3) 米価高騰で困る人たち 村の百姓は、農地の多い高持百姓、少ない小前百姓、農地を持たない水飲み百姓の三層構造になっていた。 前二者は本百姓といわれる年貢納税者で、村のことはこの層で決定していたという。 水飲み百姓は農地を分けてもらえない二・三男で、小作人になったり、賃稼ぎで生計を立てた。流通経済が発達してくると、賃稼ぎができる分、経済的には豊かな家もあったといわれている。 高持百姓は、村の三役などになることが多く、村の上層部だった。大変なのは小前百姓。 定免制で年貢率は一定。不作の年も、年貢高は変わらない。生産高の半分近くを年貢で納め、残りが自家用の飯米。もともと農地が少ないから、ギリギリの生活。足りない年は借金して買うしかない。農作業は暇なしに手がかかるから、水飲み百姓のように賃稼ぎに出る余地もない。 入会山は、こういう人たちにとってのセーフティネットとしての機能をもっていたことになる。 (4) 当時の時代状況 「日本史年表」(河出書房新社発行)によると、まず、 「嘉永2年3月 幕府 府下の米価下落したので五万石の輸出を許可する」 とある。前年(嘉永元年)の産米が豊作だったのだろうか。 ところが、この平田家文書では、嘉永2年産米は価格高騰。ということは、もしかしたら、米の輸出が関係しているのかもしれない。 翌年になると、 「嘉永3年7月 幕府 米の買い占めを禁じる」とある。 7月だから、前年(嘉永2年)の産米が対象になる。ということは、前年の米価高騰は、このような買い占めが影響したのではと推測される。輸出と買い占めと、関連していたのではないだろうか。 だとすれば、幕末の激動の波を村の小規模農家がもろにかぶったということ。筏の波は時代の波であったということか。 |
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原文 | |||||
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釈文 | |||||
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読下し | |||||
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