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平田甲太郎家文書<辰田新村と小見村の境界確認>    
                
享保元(1716)年 文書№631
 広報せきかわ2024年3月1日号掲載
<解説>
この文書の内容は入り組んでいて、一読しても分かりにくい。それで、解釈を含めて「意訳」をしてみた。(末尾⇒こちら)
それを基に、時間順を追って何があったのかを整理すると次のようになる。

元禄10(1697)年か、それより少し前のこと
  大水のため荒川の本流が辰田新村の方へ大きく南下した。
元禄11(1698)年、当時の領主村上藩が流路変更工事をして、
  荒川本流の北側(右岸)・小見村分の土地に堀川を掘った。
  それで、南下した本流路と堀川の間に中島ができた。
  その時、辰田新村と小見村の境界を確定し文書を取り交した。
 確定した境界は、
  荒川本流の南岸端から南側(左岸)は、辰田新村の分
  荒川本流の北側(右岸)の河川敷と中島は、小見村の分
正徳5(1715)年、辰田新村は元禄11年の境界確認を失念して
  荒川本流の北側(右岸)にあたる中島に、
  自分たちの持ち分があると思い込み、
  そこに明新砂畑を開墾し、
  それが、小見村との争論になった。
享保元(1716)年
  争いは、当時の領主館林藩の海老江代官所に持ち込まれ、
  元禄11年の書付を元に、両村の言い分の聴取が行われた。
  そこで、辰田新村の主張は間違いであることがはっきりした。
  それで、赤谷村・土沢村・大島村の三庄屋を証人に頼んで、
  辰田新村から小見村へ、お詫びと約束の文書が出された。
  それが、文書№631のこの文書。
辰田新村から小見村へ、約束の内容
  正徳5年に開墾した明新砂畑の南端(つまり本流の南岸)から北の方へは、  一切入らない(つまり、明新砂畑は小見村へ明け渡す)。
  今後のため、辰田新村と打上村の水防土手から、
  荒川本流左岸河川敷の南端(つまり、辰田新分の境界)までの距離を
  4ヶ所測って記録し、三庄屋に確認してもらった文書も提出。
  (今後荒川の流路が変わっても、この距離幅が境界線)
※ この文書に勝蔵村組頭・庄屋が名を連ねているのは、
  打上村の村役人を勝蔵村が兼任しているから。
以上が文書№631の内容となる。

<関係する別の文書2通>
この文書に関係して、以下の2本の文書も残っている。
① 元禄11(1698)年に取り交した境界画定文書 文書№702⇒こちら
② 享保元(1716)年に提出した4ヶ所測量結果の記録 文書№431⇒こちら

①の文書は読みにくいのだが、概要、次の内容が書いてある。
荒川の洪水で流路南下、辰田新村側の土手や街道に迫ってきて困っている。
先年、小見村が願い出て掘った小川があるので、南下した本流の水の半分をその小川に流すよう、工事を追加してほしいと村上藩郡奉行に願い出た。
奉行は、小見村にその件を問うた。
小見村は、小川が本流になってしまうことを心配した。
それで、もしそうなって、南下した本流が小さくなって土地ができたら、そこは半分にずつにして、北側は小見・上野山・瀧原の分にし、南側は下関の分にする。
河川敷の北側(右岸)にも辰田新村分があるのだが、そこは、本流の南岸辺を区切りにして辰田新村分とし、北側は小見村分とする。

※ 末尾の取り決めが、結局、享保元年の争論の決定打となった。

②の文書は
下関、辰田新、打上の三ヶ村と小見村との境界確認した際の文書を
嘉永3(1850)年に写しとってまとめたもので
明和8(1771)年の文書と享保元(1716)年の文書が写し取られて保存してある。

その中に、文書№631に書かれた4ヶ所計測の記録が、
次のように記されている。

基準点を下関村と辰田新村との境に置く。
そして、辰田新村と打上村の土手を基準点から川下へ4ヶ所計測し、
その4ヶ所で、土手と川岸まで距離を計測した。
その計測結果は次の通り。
 基準点から130間下流の地点で 土手と川岸までの距離 30間
 基準点から296間   〃          〃          68間
 基準点から456間   〃          〃          64間
 基準点から636間   〃          〃         160間
この幅が、辰田新村分の土地であって、
他の河川敷(つまり対岸河川敷)と中島は残らず小見村分とする。         
原文
釈文
読下し
意訳
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