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創作  短編 ・ 耳 ~B氏の場合~ 
 渡 辺 伸 栄 


 A氏は憤慨していた。

 彼の住む街には人気の公立幼稚園があって、三歳になる愛娘をそこに入れたいと考えていた。だが、定員を超える応募があったためクジ引きで入園者を決めることになったと、知らせがきたのだ。

 せめてテストや親子面接で決めるというのならまだしも、大切な娘の人生の最初の岐路を、クジなどという偶然の結果に委ねるとは何事かと、怒りを抑えきれなかった。

 A氏は知らないのだ。クジは神の神聖なる選択であることを。少なくとも、中世の人々はそう信じ、偶然はすべて神の意思の表出として素直に受け入れていたことを。


 そのA氏、自分の耳は湿潤耳だと言う。湿潤耳は優性遺伝であって、その反対の乾燥耳は劣性遺伝なのだと。

 それを聞いたとき、B氏は思ったものだ。たしか、遺伝の優性・劣性は中学の生物で習った。劣性の性質は淘汰され、優性の性質だけが残るという、あのメンデルの法則だ。

 そういえば、とB氏は回顧する。爺様の耳も湿潤だった。

 B氏にとって、爺様は怖い人だった。囲炉裏の縁にうっかり足を乗せてなどいようものなら、鉄の火箸で思いっきりその足を叩かれたし、屋内で兄弟追いかけっこなどしていると、出合頭に「やかましい」と言うなり拳骨をもらったりしたものだ。

 小学校高学年ともなると、強制的に手伝いをさせられた。

 爺様は、牛を飼っていた。牛小屋の床に敷いた藁を交換するのは、秋の大仕事だった。

 牛にさんざん踏みつけられた藁床は、糞尿を吸ってぐっしょりと重い。そこへ三本爪の先の尖った鍬を思いっきり突き立てて、外へ引きずり出すのだ。堆肥場に積み上げた藁は、冬になってソリで運んで田圃に撒かれる大事な有機肥料だった。

 重労働に、顔も手足も汗まみれ。いや、汗だったのか牛の糞尿だったのか。近年、腸内細菌の重要性などと説かれているが、B氏の腸内には、あの頃の牛の細菌がどっさりと今も生きているはずだった。

 天気の良い日など、爺様は、畑へ行くからリヤカーを引いてついて来いと言う。ついて来いと言いながら、爺様はそのリヤカーにちゃっかりと乗込む。そして、背後から命令。

 「引き手は道の悪いところを歩け。そうすれば、リヤカーのタイヤは、道の良いところを通ることになって傷まないのだ。」

 何のことはない、自分の乗り心地を優先しているのだ。

 作業が終わって帰れば、

 「おっていぎ、おっていぎ」の言葉とともに何かしらお駄賃をくれた。妙に覚えているは、「だちんだ、アップルを食え。」

 爺様は、なぜかリンゴとは言わずアップルと言った。明治の人はみなそうだったのか、定かではない。

 怖いだけの爺様だったが、甘い想い出もあるにはあった。出張だと言って、町場へ行ってきた帰りなどには、きまって森永のキャラメルを一箱買ってきてくれた。あれは、滅多に口にできない甘くて軟らかくて、それはもう頬っぺたが落ちてしまったものだ。

 夜になると、爺様には、肩もみをよくさせられた。耳掘りもだ。耳掃除のことを耳掘りと言っていた。

 爺様の耳垢は、まぎれもなく湿潤だった。 耳かきのヘラに乗っかって出てきたねっとりとした気味の悪い物体を、爺様の首にかけた変色しかけた手ぬぐいのはじにぬぐい取ったりしたものだ。

 忘れかけていた爺様の想い出に耽っていたB氏だったが、ふと我に返って思った。

 自分の耳は湿潤ではない。乾燥耳だ。となると、メンデルの遺伝法則はどうなるのだ。

 B氏は考え込む。すると、回想は、K大学中世史研究室でのY教授の講義場面に転換するのだった。Y先生の声は、ボソボソとして聞き取りにくかった。


 現代でも子どもは家の宝だが、中世では、現代以上に重要な宝、つまり、家の財産だったのである。

 十にもなれば、野山を駆けずり回って食い物を集めたり薪を拾ってきたり、半人前の稼ぎ手にはなった。それが、十五ともなればもはや一丁前の労働力としてあてにされた。現代でも、十五歳以上を労働人口に数えることは、諸君も知っての通りだ。

 その上、男子であれば、ムラを守るに必要な戦闘力としてもあてされていた。女子は、言うまでもなく物・人の再生に不可欠の生産力だ。だから、どの家もどのムラも、財産を増やすことに力を入れたのだ。

 とはいえ、当時のこと、出生率も乳児生存率も低かったから、財産を増やすのはなかなか容易でない。子宝に恵まれる幸運は神のなせる業としか考えられなかったのである。

 さて、宿題に、藤沢周平の短編「邪剣竜尾返し」を読んで来るように言ってあったが、作中の赤倉不動の夜籠りの場面を、君達はどのように読んだかな。藤沢の作品は江戸時代のことで、多分に物語上の脚色に過ぎないのだが、あの夜籠りの場面を現代の目で、享楽だの道徳の廃頽だのと決めつけると、歴史を読み誤ることになるのだ。

 中世、いや古代から、家の財産を増やすため人々は神に祈り、神の前に集い夜籠りして、偶然の幸運を願ったのである。それは、中世の人が大らかだったわけではない。むしろ、切実だったのだ。

 子どもは、労働力・戦力としての宝だったが、それだけではない。一族郎党の相互扶助によって成り立っていた時代では、子どもは将来の社会保障でもあったのである。

 さらに、武士たちにとって、子どもは安全保障の要にもなった。彼らは、子どもの婚姻を通して縁を結び、縁者となった家同士、冠婚葬祭、季節の贈答品交換など日頃の付き合いを欠かさず、常につながりを保ち続けることに意を注いだ。そして、何かにと縁を頼り、付き合いの範囲を広げていたのだ。

 いざ合戦ともなれば、たとえ敵味方に分かれ、運悪く敗戦の憂き目に遭ったとしても、その縁を頼りに助命嘆願を申請できた。

 以上のような理由から、子どもは多い方がよかった。子どもは財産であり、神様からの授かりものだった。すべて偶然は、神の意思の表出であると、人々は信じて疑わなかった。したがって、家を継ぐのも直接の血脈であるかどうかは二の次だったのである。


 B氏は、今、朳差岳の山頂にいる。

 Y教授の説を思えば、祖父が湿潤耳で自分が乾燥耳であることなど問題の外ということになる。

 今、陽はまさに西、辺りを茜色に染めて大佐渡山脈の山陰に没しようとしていた。代わって東、小国盆地の山の端から周りの雲を明るく照らして月が上り始めていた。

 今夜は中秋の名月。

 朳差から本山へ続く飯豊の長い峰が月照の陰影で鋭いエッジを刻んで連なっている。下界の盆地に漂う薄雲、それを透かして幽かに浮かぶ灯明のような光。

 山頂に風はない。にもかかわらず、どこからか聞こえてくる風の音。ゴーゴーと底響きを伴奏に月は煌々と一晩中、飯豊の峰々を照らし出し、やがて大佐渡の山陰へ沈むころ、小国盆地の山の端が東雲色に輝きだした。

 この光景、偶然にしてはでき過ぎている。五百mlのビールを片手に、B氏は山頂に屯する中世人たちと共に神の前にいるのだった。

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