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創作   短編 ・ 脚 ~C氏の場合~
 渡 辺 伸 栄 



 「A氏の脚ときたら、そりゃあもう、見事なものだ。」

 B氏は、感歎しきりの面持ちでC氏に語るのだった。

 たまたま、A氏がロープクライミングの最中に、その下を通りがかったのだという。見上げたB氏の頭上で、半ズボンから突き出たA氏の下肢がどれほど見事な躍動を見せていたか、B氏は口を極めて絶賛する。

 「とにかく、A氏の脚の筋肉がすごいのだ。」

 膝蓋の上には太腿の大腿四頭筋が被さるように盛り上がっていて、脹脛の腓腹筋はくっきりと二つに割れ、ヒラメ筋が鰓を張ったように脛骨の横に飛び出して、それらの筋肉が、クライミングの壁の人工の石を一つ一つ登る度に、細く伸びたかと見ると直ぐに縮んで膨らみ堅い塊になって、それが次の瞬間には柔らかく撓ってまた伸びてと、リズミカルに伸縮変化する。筋肉のその動きに合わせて、太い血管がぴくぴくと浮き出たり沈んだり。それはまさに「躍動」という表現がぴったりなのだと、B氏は熱っぽくA氏の脚の動きを描写する。

 「あれは、ミケランジェロの脚そのものだな」と、B氏。

 「ミケランジェロの脚?」と、怪訝そうに問うC氏。

 「ほら、昔、中学の美術の教科書にあったじゃないか。ミケランジェロの彫刻。ダビデ像とか、やり投げ、円盤投げ、すごい筋肉の脚をした彫像が。あれだよ、あれ。」

 どうやら、ミケランジェロの彫刻と古代ギリシャ・ローマの彫刻と、B氏の中ではごっちゃになっているらしい。それはともかく、古代ギリシャ・ローマとそれを復興したルネサンスが共に憧れた人体の美、それがA氏の脚に具現していたことへのB氏の驚嘆は、C氏にもよく伝わるのだった。

 B氏は続ける。

 「さすが、ランナーだけのことはある。凄い脚だ。」

 A氏の脚が見事なまでに発達した理由は、ランニングにあることをB氏は覚っていた。A氏は若い頃からのランナーで、もう何十年も休むことなく走り込んでいるし、各地のマラソン大会でも度々入賞していた。A氏の脚は日ごろの鍛錬の賜物なのだ。あれだけ走ればあれだけの脚になると、B氏は得心したように語るのだった。

 黙って聞いているC氏だったが、実は秘かに知っていることがあった。そう言うB氏の脚も、彼の言うところのミケランジェロの脚だということを。


 B氏は真夏でも長ズボンで長靴下を履いている。だから、めったなことで彼の脚は見られない。ある日、蚊にでも刺されたのかズボンの裾をめくって何気なく脛を掻くB氏の脹脛を、C氏は、後ろから見るともなしに見てしまったことがある。

 人は、自分の脚の後側を鏡に写してまでわざわざ見るようなことはしない。下肢の筋肉の躍動など半ズボンでクライミングでもしない限り見ることもない。いや、たとえクライマーでも、自分の下肢は自分からは全く見えない。ましてや、クライマーでもないB氏は、自分の脚がA氏ほどに発達しているなどとは、まったく気付いていないのだった。

 B氏はランナーではない。走るところを見た人はいない。だが、歩く。とにかく歩く。勤務先まで十三キロもの距離を毎日歩いて通勤するし、休日には一日中五十キロは歩く。なぜ、それほどまでに歩くのか。C氏は、道を歩きながら発するB氏の小さなつぶやきを聞いたことがある。

 「人は何故生きる」「どこから来てどこへ行く」「四苦八苦は業か」確か、そんな言葉が聞こえたように思う。B氏がいつも背負って歩くリュックサックには、哲学の書物が入っている。B氏はそれを重石代わりだと言うが、わずかの休憩時でも取り出して手にしているようだった。

 そんなB氏について、A氏はいつか言ったものだ。自分にとって、マラソン大会は楽しみで出るスポーツだが、日ごろのランニングは「行」だ。B氏の歩きもまた、「行」なのだろうと。

 炎熱の日であれ酷寒の日であれ、一本の道を胸を張り目をまっすぐ前に向けて只管走るA氏と只管歩くB氏、二人のストイックな姿はまさに「行」の名に相応しいとC氏は思うのだった。


 そのC氏は、走らない。走らないのに走っている夢を見た。

 なぜだか分からないが、友のために必死で走っていた。刻限までのゴールに、友の命と自分の名誉がかかっていた。邪魔する犬を蹴飛ばし、野原の草花を踏み倒し、必死で走っていた。刻限はひしひしと迫っている。息が上がり、足は攣って、もう動かない。日ごろからもっと走っておくべきだったと後悔するが、今更間に合わない。C氏はよろめいた。そこは野の花が咲く叢、倒れ込んだC氏は二度と立ち上がることができなかった。息絶え絶えに朦朧とする意識の中で、頼りない自分の脚を悔やみ詰った。

 風にあおられたハクサンイチゲの花が頬に触れ、ふと、C氏は目を覚ました。周りは、香しい花々の草原。C氏は覚醒した。ここは南アルプス、高度三千メートルの稜線上に横たわる自分がそこにいた。


 甲斐駒に上がったのが六日前、そこから仙丈、間ノ岳、北岳、塩見岳、荒川岳と一万尺超の高峰を越え続け、今朝早く小屋を出て、今、赤石岳に向かう途中だった。疲れからか、それとも爽やかな風のせいか、腰を下ろしたお花畑でついうとうとと居眠りをしたのだった。

 C氏は身を起こし、水筒の水を一口飲むと立ち上がり、重い荷を背負い直して歩き出した。今日はどこまで行けるか。赤石岳の先もまだまだ長く厳しい山歩きが続く。聖岳を越えて光岳へ、南アルプス大縦走の途中だった。

 C氏は急がない。歩けるところまで歩いて、もし小屋に辿り着けなければ簡易テントを被ってブッシュの中でビバーク。そうやって、ここまで来た。

 山の行動は単純だ。食べて、寝て、出して、歩いて、それを繰り返す生物の本源行動。歩きながらものを考えることはしない。下手に物思いにふければ、道を違え、崖に転落する。ものは思わないが、ボーっとすることもない。神経を研ぎ澄ませ、四方八方に気を配る。単独山行で頼れるのは自分だけ。だから、否応なく野生の感性が目を覚ます。単純な行動の繰り返しは逆に感受性を鋭敏にする。美しいものに出逢えばストレートに美しいと思う。そこにあれこれ解釈を差し挟む必要は全くない。危険な予兆に出遭えば躊躇なく退避する。

 人への斟酌、忖度、思惑など人間界の煩わしさはゼロ。そんな世界に浸りたくてC氏はひとり只管山を歩く。


 C氏の脚もまたミケランジェロの脚になりつつあることに、C氏はまだ気づいていない。



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