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阿賀北山岳会山行録2018から   登 山 三 題 (パート3)
 渡 辺 伸 栄 

 山は動かず人は動く。入れ代わり立ち代わり山に踏み入る人。すべてを山は受け入れる。そこでの出会いは一期一会。


その一  時代離れ

 6月の第一日曜日に開かれる東根さくらんぼマラソン、毎年、2泊3日の日程をとって参加する。阿賀北山岳会只管組の3人、安久昭男さん、高橋裕美子さん、私、そこに応援・介添えの妻。1日目はゆったり観光で英気を養い、2日目ハーフマラソンを走り、3日目は登山が恒例になっている。今年の宿泊地は山形県朝日町にあるリゾート地朝日観、そこのコテージが我らのベースキャンプ。

 マラソンを終えた6月2日の夕食のこと、ウッドデッキで優雅にバーベキューして四方山話のその最中、デッキの傍に立つ朴ノ木を目にした妻が、その葉に包んだご飯を食べた田植え時の思い出話。そういえばと、高橋さん、朴ノ木で風車を作って田圃の畦道を走ったと幼き日の思い出話。

 それを聞き咎めた私、あの横に平たく広がる朴ノ木の葉が風車になるなんて、とても信じられず、風車?どうやって作って、どうやれば回るのかと問い質す。
 ここからが安久さんの出番。まず葉を二つに割いて、次に芯に枝を刺してと、身振り手振りで説明。傍に朴ノ木があるのだが、葉は手の届かない所にあって実物は手元にない。説明力の問題かはたまた理解力の問題か、まったくイメージが湧かず、私も妻も、半信半疑の態。安久さん、業を煮やしたわけではないだろうが、それに近い表情で説明を諦めた。
 誰からともなく話題を移して、その日は暮れた。

 翌6月3日の登山は、山形県山辺町にある東黒森山。東北地方には森の名がつく山があちこちにあって、これは森林の「モリ」ではなく、盛り上がった地形を指す呼称とのこと。標高766.2m、登山口が550mだから標高差200mちょっとのハイキング登山。40分程で頂上に着いた。

 山頂はちょっとした広場になっている。その広場の端に、あの朴ノ木があった。それも手頃な小木が。
 安久さん、昨晩の煮やした業を温め返したわけではないだろうが、何も言わずにいきなりその枝を一本折り採ると、黙って風車を作り、その場で立ったままの体を回転させた。
 なんと、風を受けて朴ノ木の葉が風車になって回っている。
 高橋さん、すかさずそれを安久さんから受け取るやいなや、山頂の広場をぐるぐると走って回りだした。回る、回る、実によく回る。畦道を走った少女そのままに、きゃっきゃと笑いながら走る、走る。

 風車は妻にリレーされた。さすがに少女の態には程遠いが、気持ちだけは童に帰ったと顔に出して、走る走る回る回る。
 その間に、私。件の朴ノ木から枝を1本いただいて、見よう見まねで作ってみた。
 傍に立って安久さん、昨日と同じ説明を繰り返す。溜飲を下げた表情で、否、後で思うとあれは初めて英語が通じた少年の顔だったか。
 できた風車を胸の前にかざして走ってみると、それがまたよく回る。
 回る回る時代が回る、時計の針が何百回分も何千回分も逆に回り、時代離れした遊びに興じた東黒森山山頂の4人。我に返れば、誰も来ない山で良かったと照れを隠して、コンビニお握りを頬張った。

 時代離れは、山頂の我らだけではなかった。下山した麓で、もっと時代離れした光景に出逢うことになろうとは。

 東黒森山の登山口駐車場の脇に、東屋を大型にしたふうのコンクリート建て休憩所があって、中に、これまた大型の木製椅子とテーブルが数組置いてある。
 下山してそこで休憩していると、車が1台やって来て、中から女性2人と男性1人が出てきた。男性は東屋と車を行ったり来たりしながら忙しそうに何やら準備。
 女性は2人とも白っぽい衣装でロングスカート、やおら日傘をさすとゆったりと休憩所前の坂道を下っていく。

 下った先には大沼という名の大きな池があって、下りの道は、池の周囲を巡る散策路に繋がっている。
 歳の差は、親子ほどには離れてないが姉妹というには離れすぎている感じ。なんとも優雅な風情の2人。我らは休憩所から彼女たちを見下ろしている。
 誰もいない山中、周りは叢、日傘とロングスカートが場違いに見えてならないのだが、そんなことを気に留めるふうもなく悠然と散歩。
 我らは彼女たちとは別の道を通って大沼の散策路へ出、登山では足りなかった運動量を消化すべく、休憩所からかなり離れた所まで歩き、そろそろ戻ろうかと言うところまで進んだ後、休憩所へ引き返した。

 戻って見ると、彼の3人組が休憩所にいた。
 女性2人は椅子に腰掛けて食事中。遠目を凝らして見れば、場違いなほどに豪華なバーベキュー。霜降牛か黒豚か、肉の種類まで見て取ることはできなかったが、テーブルの上に置かれた食器類の上等なこと。
 ガラスだろうか透明な背の高い大きな筒が2本、垂直に立ったその中には高級フルーツ各種。 我らの紙皿紙コップのバーベキューとは、等級が全く違う。男性1人、肉を焼き、皿に盛り合わせ、せっせと給仕中。

 どう見てもこれは、サーバントを召連れた貴族淑女のふるまい。
 三島由紀夫描く戦前の華族はかくやと思える光景。これがもし、彼女らの別荘の広大な草原の中の池のほとりの東屋なら、これはもう完全な貴族。ところがここは隣に庶民のいる、東黒森山麓の県民憩いの森程度のコンクリート休憩所。場違いはなばなしい中での時代離れした光景。

 帰りの車中。ハンドルを握る安久さん、あれはどこかのホテルの出張サービスに違いないと、ぽつりとつぶやく。そう言ってしまえば、三島由紀夫のロマンなど身も蓋もない。
 草木の緑に覆われた山あいの湖畔、咲き誇る卯の花もロングスカートも日傘も、みなパステルカラーだったような淡い印象。もしかしたら東黒森山の狐が見せた幻想か。そうだとすれば、山頂の童たちも狸の化け比べ・・・では絶対にない。



その二  単独行

 大キレットを渡ることは、一つの憧れだった。

 キレットとは切戸のことで、長い稜線の途中が抉り取られたように低くなった凹形の鞍部地形のことを言う。
 大キレットは、各地にある切戸状の地形の中でも規模が大きく、難易度もとりわけ高いことから名づけられた固有名詞である。あの有名な槍ヶ岳から大喰岳、中岳、南岳と3000mを越えるピークの続く稜線の果てがバッサリと切れ落ちて、大キレットになる。

 高度差250mを急下りする鞍部。鞍部といってもそこは標高2700m超の稜線の上、両側が鋭く切れ落ちたナイフリッジが続き、水平距離900mほどの鞍部稜線上には長谷川ピークなどという凸部もある。
 大キレットを通過し終えれば、北穂高岳の直下に着く。ここから一気に急登して北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳へとまたまた3000m超の稜線が続く。
 つまり、槍ヶ岳から前穂高岳まで3000m超の山が8座連なる槍・穂高連峰を縦走踏破するには、そのちょうど中間に大難関として横たわる大キレットを必ず通過しなければならないのであって、だからこその憧れなのであった。

 槍・穂高連峰縦走の3日目、2018年7月17日が憧れの大キレットを渡る日。

 縦走1日目(7月15日)は、上高地から歩き出して槍沢小屋に泊。2日目(7月16日)は、槍ヶ岳に上り、大喰岳、中岳、南岳と歩いて南岳小屋に泊。ここまでは、2013年8月に既に踏破済み。
 だから、3日目の大キレットへの大下りからが、今回山行の核心部。
 若い時に一度ここを通過したという安久昭男さんがリーダーで、先頭。その次に高橋裕美子さん、末尾に私。安久さんからの注意事項を高橋さんが復唱して後ろの私へ伝える。声を出すことも含めて、この効果は絶大だった。

 両手両足の4点を岩場にしっかりと確保し、移動はその中の1点だけを動かし、他の3点は確実に定着させておく。手、足、手、足と交互に1点だけを移動させて前進、岩場通行の基本である3点支持を忠実に守る。
 全神経を緊張集中。だからといって筋肉を緊張させてはならない。心は張り詰めるが身体はリラックス。高度感への恐怖心は振り払う。
 幸いと言うか、戸隠山の蟻の塔渡りのような手を離して平均台渡りをする箇所はない。手掛かり、足掛かりが、岩の突起だけでなく鉄のピンやステップなどでしっかりと固定してある。

 中間点辺りの長谷川ピークを越えた。
 いよいよ馬の背と呼ばれる大キレットの核心部。

 そこまでは、ナイフリッジの稜線に手をかけて信州側(東側)に刻まれた足場を辿ってきたが、ここで、反対側の飛騨側(西側)に刻まれた足場へ移動しなければならない。鎖が張ってあって、足場もしっかりしている。とは言え、すっぱりと切れ落ちた岩のエッジの上を四つん這いで乗越えて反対側へ移る動作は、一瞬たりとも気が抜けない。
 稜線の両側は目も眩むほどに切れ落ちた千尋の谷。凄まじいほどの高度感。手足をすくませないで行動できたのは、日頃、ロープクライミングで垂直10mの壁登りを繰返してきた効果に違いない。

 とにもかくにも、なんとか大キレットを渡り終え、北穂高岳の直下に達した。
 真下から見上げれば、垂直に近い岩壁の上に北穂高小屋が建っている。小屋を目指して岩を攀じ登る。

 途中、いっとき緩やかになった傾斜の道で、下ってくる単独行の老登山人と交差。すれ違い時に一言二言声を交わした。私が、初めて来たがと感慨を吐くと彼の御仁、自分はこれが最後の大キレットでしょう、もうすぐ80歳になるのだと笑いながら返す。多分何度もこの道を歩いたベテランなのだろう。この大難所を、これが最後と言える気概が羨ましくもあり、どこか寂しくもあり。見知らぬ人との山での出会い。心に残る一期一会。

 その後も必死に岩をつかみ攀じ登り、着いた北穂小屋で大感激。槍ヶ岳から足下の大鞍部まで続く歩いた道を大展望。その上、名物の北穂ラーメン。のど元過ぎればで、大キレットの緊張などすっかり失せてしまっていた。

 ほっとできたのも束の間。北穂高岳から涸沢岳への岩稜の危険度は、大キレットを凌ぐ。垂直登攀、垂直下降、その上、岩が何しろ脆い。うっかり頼りにすると砕けた岩が抜けてくるのだから気が抜けない。3人で声を掛け合い、なんとか涸沢岳を越えて、下れば今日の宿・穂高岳山荘。

 入口の前で、槍から大キレットを越えて来たと言ったら、小屋前の広場に屯する登山人から賞賛の目を向けられた。夕食後、山荘の外に出て見た夕日の光景は凄かった。得も言われぬとはこのことを言うのだろう。

 夜が明けて4日目(7月18日)、縦走最終日。今回縦走の最高峰・奥穂高岳へ。
 穂高岳山荘のすぐ横に垂直梯子が延びる岩壁、そこへ、朝イチのいきなりの攀じ登り。100mほど高度を一気に稼ぐと傾斜がやや緩やかになる。
 そこに、ほぼ四つん這い状態で登山道をじりじりと進む老婦人1人、荷は持たず、靴は登山用ながらズボンはジャージふうでブラウスかと思えるシャツ。動きを止めて後の我らに、ゆっくり行くのでと言って道を譲る。服装や装備、登り方になんとなく違和感を感じながらも我ら、余計なことは言わず礼だけ言って先行、やがて念願の奥穂高岳山頂に立った。

 標高3190m、日本第3位の高峰から360度の大展望。

 北を向けば、槍ヶ岳からここまで、大キレットを挟んで繋いできた岩稜の道。槍ヶ岳の手前に雪渓が残る中岳、南岳と大キレットは陰になって見えないが、岩峰の北穂高岳とそこから岩稜が続く涸沢岳。
 西に笠ヶ岳、その奥遠くに加賀の白山と別山。南にジャンダルムを挟んで、焼岳、乗鞍岳、御嶽山が縦に並ぶ。焼岳の左下に上高地、大正池から河童橋まで見えた。
 少し東へ目を移せば、吊り尾根でつながる前穂高岳。その先の雲海に八ヶ岳、右に少し離れて富士と南アルプス。真東方向に常念岳と蝶槍。そのずっと先に、四阿山と浅間山が雲海に浮かぶ。
 一回りして北に戻れば、槍ヶ岳の右は鹿島槍ヶ岳、白馬岳など後立山連峰。その右、雲海の上に妙高の連山。槍ヶ岳の左は立山から続く奥黒部の山々。水晶岳、鷲羽岳、薬師岳、黒部五郎岳。
 一つ一つを肉眼でくっきり辿ることができる。いつまでも見飽きることがない。まさに大展望。

 山頂山座盤でパノラマの山一つ一つを確かめている最中、先ほどの老婦人がやって来た。問わず語りの会話、ほうほうの態に見えたが口調はしっかりしている。
 登山を初めてまだ何年も経っていないのだが、どうしてもここ奥穂高の山頂に立ちたかったのだとおっしゃる。ゆっくりゆっくり歩くのだから、連れがいると迷惑をかける。それで単独行なのだと。ここからすぐに穂高山荘に戻るのだろう、だから軽装だったのだ。

 そうこうするうちもう1人、これも年配の男性がやって来て丸い山座盤を囲んで3人、鼎談の形になった。
 間近に顔を見合ううち、どうも同年くらいに見えてきたのだろう、だれからともなく生れ年を問う。後から来た男性が昭和22年と言うと、女性が嬉しそうに23年と言い、私は渋々21年と。なんだ一つ違いの同年代かと、急に打ち解けて3人握手、互いをまだ若い若いなどと山頂でエール交換。
 女性は穂高岳山荘へ戻り、もう1泊して涸沢へ下るのだと言って別れた。泊数を多くしてゆっくりゆっくり来たのだろう。それにしても標高差700mのザイデングラードの登りは相当きつかったはず。何がきっかけかは分からないが、奥穂高岳の山頂に立ってみたいと思いたっての単独行。実行力には敬服せずにはいられない。私より若いのに老婦人などと失礼な思い方をしたものだと反省。
 男性は、我らと同じく前穂高岳から上高地へ下るのだと言って、まだ山頂でウロウロしている我らより先に下って行った。

 こうして、3190mの頂での邂逅は終わった。

 この後、吊り尾根を通って前穂高岳直下の紀美子平で、山頂の男性とまた会った。路傍の岩に腰掛け、ジャンダルムにじいっと見入る姿はどこか絵になっていた。重太郎新道を下った岳沢小屋に泊をとるのだとか。この御仁も、岳沢に泊を重ねてゆっくりゆっくり単独行を楽しんでいるらしい。

 我らは、前穂高岳に上り雄大な眺望にたっぷりと浸った後、重太郎新道の急坂を下って岳沢から4日前の出発点、河童橋へと戻った。橋から見上げればすぐ目の前に吊り尾根が見え、奥穂高岳が見えた。

 あの頂の山座盤を囲んだ3人が見えたような気がした。そして北穂高岳直下の岩壁ですれ違った老登山人も。どの人も、どこから来てどこへ行くのか定かでない。ただ確かなのは同じ思いを持った人たちであること。老いても山に登りたい、自分の足で歩きたいと。私と違うのは、単独行であったこと。ゆっくりゆっくり自分のペースで進みたいからと。泊も余分に重ねて。あの女性の軽装は批判されるべきことではあるが、泊を重ねていて絶対好条件の日時を選んでの行動と思えば、理解はできる。

 単独行の危険性が叫ばれている。しかし、油断すれば事故はパーティでも起こる。団体登山に参加していながら、自分のペースで進みたいので置いて行ってなどという人もいる昨今、迷惑をかけたくないのでという心根には敬服したい。私も、安久さんや高橋さんについていけなくなれば、単独行を選ぶことになるのだろう。今のところは、何としても離れずについていきたくて日々走り込んではいるが。仮にそうなればもちろん、人の絶えない賑やかな季節と山を選んでのことだ。



その三  人の話は

 昔、観光で黒部ダムを訪れたことがある。あのダム湖の上流最深部は深山幽谷、人跡未踏の隔絶の世界だとばかり思っていた。

 7月に燕岳に登って燕山荘前の広場から、高瀬川の谷を挟んだ対岸に奥黒部の山々が連なっているのを見た。
 あの稜線に登山道があるという。そこに上がれば、想像すら及ばなかった奥黒部の地を見ることができる。あの峰の向こう側は黒部川の源流域。高山名峰が立ち並ぶ、雲ノ平や高天原などという異郷の地。
 どんな地形で、そこに、どんな光景が広がっているのだろう。あの稜線を歩いてみたいと思った。

 燕岳の1週間後、槍ヶ岳から大キレットを通って前穂高岳までを繋ぐ縦走を敢行した。
 岩壁との格闘の連続だったが、その合間合間に、穂高連峰の稜線や頂から、遠く奥黒部の峰を見た。燕岳で覚えた鷲羽岳と水晶岳が目に付いた。さらにその奥後方にひときわ大きな山塊がある。薬師岳だ。
 鷲羽・水晶の稜線と薬師との間には、尾根筋が波打ち谷筋が絡み合う不思議な空間が見えた。あそこが黒部川源流域。

 2018年8月5日、富山の折立から入山して、太郎平小屋を起点に黒部五郎岳、三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶岳、雲ノ平と、黒部川源流の谷を取り巻く峰々を周回する3泊4日の山旅。
 休憩を入れない標準コースタイムで1日9時間の長行程。体力勝負。来年のことは分からない、行くなら今だ。安久昭男さんと高橋裕美子さんと私、大キレットを渡った3人組。

 折立登山口へ向かう途中、有峰湖のビジターセンターに立ち寄った。

 黒部川源流域の大きな立体模型地図を眺める1組の夫婦登山人。どちらへ?などと会話が始まり、我らと同じコースを予定していることが分かった。
 しかし・・・と、一方の方が眉をひそめて話すには、事前に各山小屋に電話を入れたらしい。太郎平小屋は予約必要だが、他は5人未満なら不要となっている。それでも、ついでだったのか心配だったのか。それで大変な状況であることが分かったと言う。
 太郎平小屋は問題なし。三俣山荘は満杯状態。雲ノ平山荘は、昨日の8月4日は定員の倍近くで立錐の余地なしの状態。泊予定の8月6日も、布団2枚に3人寝ることになると。
 それでお二人は、急遽予定を変えて、2日目は黒部五郎小舎にし、3日目三俣山荘、4日目は水晶岳は行かず雲ノ平には泊まらず、その後のことはよく聞き取れなかったが、多分、薬師沢小屋か太郎平小屋に泊まることにしたようだった。とにかく、その情報で我らも少々慌てた。

 安久さんは、車の中にテントがあるからそれを担ごうかと言い出した。
 去年までは土日の山行が多く、混雑の小屋泊を避けるためにテント泊がほとんどだった。今年になって安久さんの勤務が変わり土日を外すことができるようになり、今回も初日以外は平日なので混雑はないだろうと、3泊とも小屋泊の予定だった。
 しかし、それ程の混雑ならテント泊の方がずっと良い。食事は小屋で食べるか、あるいは小屋で販売の食糧を買えば何とでもなる。
 ところが、私も高橋さんも、寝袋の用意がない。多分、安久さんもそうだったのではないだろうか。寝袋なしに高山のテント泊は無理。さあどうしようということになって、雲ノ平は最終日だから、たとえ立って寝たとしても翌日どこかで昼寝すれば何とかなるだろうと、意を決して予定通り折立登山口から太郎平へ向かった。

 着いた太郎平小屋は、ほぼ満杯の状況ではあったが布団は1人1枚で、それほどの混雑ではなかった。

 小屋の前の広場からは、眼前に並ぶ奥黒部の山々を見渡せた。
 真ん前に一際立派な堂々たる風格の山がある。あれは水晶か鷲羽かと、小屋の物販所を兼ねた登山相談所に座る小父さんに尋ねたら、あれは鷲羽だ、大きな羽を広げた堂々とした姿でしょ、とおっしゃる。
 なるほどと頷こうとしたその時、小父さんの隣りに立ってジュースなどを売っていた高校生のアルバイト風のお嬢さんが、いや、あれは水晶だと小声で私に告げる。
 えっ?と、2人を見比べる私。小父さんのことは全く無視したふうにお嬢さん、確信的な声で、水晶と低く繰り返した。互いに反論もしないこの2人の前で、どういう態度をとるべきか測り兼ねた私は、ただすごすごと広場の端っこへ戻った。
 地図で照合すれば、どうやらお嬢さんの言う水晶岳のようだ。それにしては、登山相談員ともあろう人がと腑に落ちない。

 2日目(8月6日)、太郎山から北ノ俣岳への穏やかな稜線歩きは快適だった。目の前遠くに、槍ヶ岳、大喰岳、中岳とつい3週間前に歩いた峰。大キレットは陰になっているが、少し離れて笠ヶ岳、乗鞍岳、御嶽山が並ぶ。
 登り上がった黒部五郎岳からの眺望がまた凄い。大カールを挟んで、三俣蓮華岳、鷲羽岳、ワリモ岳、水晶岳、祖父岳、雲ノ平と一望。そこが黒部川源流域。深山幽谷、人跡未踏の隔絶の地。今、そこへ足を踏み入れようとしている。

 五郎のカールは、凄まじい力で山が抉り取られた跡。外輪山のような稜線からカールの底に下りて、只管下る。五郎小舎までの道のりの長いこと。途中の水場で飲んだ水、これも黒部川源流の水、腹いっぱい飲んで、さらにペットボトルに詰め込んだ。
 五郎小舎まで下り、そこから三俣蓮華岳へ登り直しの急登。
 三俣蓮華岳も、黒部五郎岳に似て、こちら側からの見かけは嫋やかな山のようで、実は切れ落ちたカールの上の危ういヘリ歩き。その上、山頂にはなかなか達しない長い道。
 ようやくの山頂を越えて鷲羽岳の側へ下れば、その形相の変わり様。中々油断ならない山たちばかりだ。

 三俣山荘へ下る道の正面は、いかにも鷲が翼を広げたような姿の鷲羽岳。
 前月、高瀬川の谷を挟んだ対岸の燕岳から、そして槍・穂高縦走の稜線から、何度も何度も見た山。並み居る奥黒部の山々の中でも目立つ山ではあったが、近寄って見れば、これほどまでに威厳のある山であったとは。
 明日、ようやくあの山に登れる。ワッシーと愛称で呼ぶ人もいるようだが、どうしてどうしてそんな軽い名では呼びたくないほど風格のある山だ。

 2日目の宿、三俣山荘。
 人気の山荘だけにかなりの混み具合で、布団2枚のスペースに3人と割振られた。ところが、有難いことにその後、布団3枚楽に敷けるスペースの物置部屋へ移動するように言われた。たまたまの団体の都合だったのだろうか、まるで個室を借りたようで幸運としか言いようがない。
 山荘の夕食はシカ肉のジビエ。野性の肉は、食用に育てられた肉と違って、基本的に不味いもの。だから、普通、レストランではスパイスやらハーブなどを効かして調理に時間をかける。山小屋では無理なのか、皆、珍妙な顔で食べていた。

 3日目(8月7日)、鷲羽岳の急斜面に取付いた。遠目に見たよりは登りやすい道がついている。登るにつれて三俣山荘が小さくなる。そこから上がる煙は登山人たちから毎日必ず出るあの廃棄物の処理だろう。山小屋の有難さが身に染みる。

 薄いガスの中に鷲羽岳山頂が見えた。山頂の左斜面のずっと下が黒部川の源流点になっている。山頂の右下には鷲羽池が見えた。火口湖のようだ。ここの稜線は黒部川水系と信濃川水系の分水嶺。
 鷲羽岳の山頂を越えた頃、ようやく空が晴れだした。目の前にワリモ岳の岩峰と水晶岳に続く長い稜線が伸びている。ワリモ岳の先に雲ノ平への分岐があって、そこにザックを置き、軽荷で水晶岳にピストンする。
 谷を挟んだ対岸に燕岳から大天井岳への稜線が見え出した。燕岳の山頂を探し、燕山荘に見当をつける。先月、あちらから見た峰々の、どんなところだろうと憧れた稜線に今立っている。あちらから見てこちらから見て、稜線歩き。なんという贅沢か。

 水晶小屋に着いた。対岸に平らな山頂の野口五郎岳。そこを通る稜線が水晶小屋の真下へ繋がっている。これが裏銀座だと安久さん。槍からこんなに離れていても銀座かと私。稜線談義は尽きない。
 水晶岳は別名・黒岳。岩が黒く、遠目には黒い山に見える。山頂近くの黒岩に、白く光る筋が入っていた。それが水晶。だから、黒岳であり水晶岳でもある。
 人気の山らしく、登頂者が続々と連なる。ところが、山頂で小1時間過ごしていた間、先の登頂者が下山し、次の登頂者が来るまでの間が空いて、数十分、我ら3人だけの山頂になった。水晶の頂を独占。なんという幸運。

 水晶岳山頂から、赤牛岳に連なる稜線の右奥に黒部湖が見え、ダムも見えた。湖の左は立山、雲の間に剱岳らしい山。ここは紛れもなく深山幽谷、ただし登山人が続々、決して人跡未踏の地ではなかった。

 水晶岳からワリモ岳北分岐へ戻ってザックを背負う。祖父岳と雲ノ平は、周囲を黒部川源流の深い谷に取り囲まれた隔絶の台地。鷲羽・水晶の稜線とは、ワリモ北分岐から岩苔乗越を通る細い尾根で、どうにかつながっている。黒部川源流の谷を挟んで鷲羽岳がそそり立つ。その奥に槍ヶ岳。谷底に見えるのは赤岳の稜線。その向こう側の谷底へ、槍から崩れ落ちる何本もの白い筋。それらを真横に見ながら祖父岳へ。

 祖父岳の山頂は広い台地状になっている。そこで暫く時間を過ごし、雲ノ平に向かって台地を降りようした直前、ハイマツの下に珍しくもリンネソウが咲いているのを高橋さんが見つけた。別名メオトバナ。初めて見たのは2014年の白馬大池、それ以来の2度目。

 雲ノ平へ下る。ゴーロ地形で、祖父岳火山の溶岩台地であることが一目瞭然。
 直下にテント場が見えて、そちらへまっすぐ進めば雲ノ平山荘。だが直進は禁止され、道は右へ直角に曲がる。わざわざ台地の端まで行って崖の縁を通り、山荘まで大きく迂回するようになっている。雲ノ平の植生荒廃は酷いらしく、その保護のためとあればやむを得ないが、疲れた登山人の足には随分酷な道ではあった。

 特徴ある形の雲ノ平山荘に到着。ここは元々は奥ノ平といわれたくらいの隔絶の奥地・秘境。それだけに人気は高い。
 山荘に入れば、張り紙があって、当面、布団2枚に3人になるとある。その上、水がないので食事のお茶はなし、個々に買った水を飲むようにと。
 やはり、初日のご夫妻の情報通りかと思いきや、実際に入って見れば、布団1枚にゆうゆう1人の余裕。その上、隣のスペースは空いていて、その隣も無人。食事はお茶付きで、大きな土鍋の石狩鍋、おかわり自由。その味がまた絶品。
 これでは、人気はいよいよ増そうというもの。平日で良かった。

 4日目(8月8日)最終日。夜明け前3時過ぎに雲ノ平山荘を出た。三日月と満天の星空。いつ以来だろう久しぶりのヘッドランプ歩行、これはこれでいいものだ。
 2時間半歩いて薬師沢小屋の下の河原に着いた。川までの下りは標高差450mを一気に降りる急坂。大石の段差が大きく、大変な坂。この坂を登りに使えば、相当の難儀さだろう。
 ここは黒部川本流とその支流薬師沢との合流点。小屋への吊り橋がかかるのは本流、鷲羽岳の源流点からここへ流れてくる清涼な源流の水。傍らの崖から滴り落ちる滝の水も本流に流れる源流の水。その水で安久さんにコーヒーを沸かしてもらい、カップの温かさに3人でホッと一息。前夜もらっておいた山荘のお握りで朝食。

 太郎平小屋への道は、薬師沢に沿ってほぼ水平に進み、沢を三度渡ってから太郎平へ標高差200m急登する。
 太郎平に上がった。
 目の前に雄大な薬師岳。今回、この山はスルー。もう1日あれば行きたかった。1泊日程でいつでも来れるからと安久さん。
 この山の奥は立山に通じて、途中五色ヶ原という秘境、その先には佐々成政の「さらさら越え」で知られたザラ峠がある。どうせなら、1泊と言わず、立山まで歩いてみたいもの。そう言えば、針ノ木岳と蓮華岳の間の針ノ木峠も「さらさら越え」のルート上にある。歴史と山は繋がっている。

 源流の山々を周回して3日ぶりに太郎平小屋に戻った。初日のお嬢さんが同じ物販所に立っていた。あなたの言ったとおりだった、あれは紛れもなく水晶岳だったと伝えたら、さも当然というように頷いて笑顔を返してくれた。あの小父さんはとうに姿を消していた。

 太郎平から折立へ下る。初日には全く見えなかった立山や剱岳を見ながらの帰り道。眼下の富山平野は一面の大雲海、遠く白山が雲海に浮かんでいた。
 雲海は有峰湖の上まで上がってきて、折立に着いたら案の定そこは雲の下。車に乗り込んだら雨になった。
 この雲の上に天上界のあの光景があるなどと、山に登らずに、誰が想像できるだろう。4日間、天上界では一度も雨無し。カッパを出すこともなかった。下界に降りて、1ヶ月ぶりの雨。連日の猛暑に耐えた身にはなんとも有難い雨ではあった。

 結局、初日の小屋情報は杞憂に終わった。とかく人の話と言うものはということか。


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